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宗教について

まず初めに、断っておくことがあります。

これから書くことは、あくまでも高校生である僕の意見です。なので、あまり参考にはしないでください。

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友人から宗教について「自分にとって神とは何なのか」「何故人は神を信じるのか」をテーマに書いて欲しいと言われたので、少々話は脱線すると思いますが、書きたいと思います。


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そもそも、宗教はどんな目的で、作られたものなのだろうか?

僕が思うに、人を幸福へ導く”教え”として宗教は作られた。

その”教え”には、学校で先生が授業をするように、絶対的な存在が必要だったわけである。

それを我々人間は、神とした。

よって、神は元から居るものではない。人間が作り出した偶像にすぎないのだ。

また、この論理からすれば、ある宗教を信仰する人が信じているのは、神ではない。

人間によって作られた”教え”に過ぎない。

だが、信仰者は自らの中に神を描き、神の教えにしたがっていると信じているだろう。

しかしながら、実は彼らは、無意識的に神の存在を否定しているのではないだろうか。

なぜなら、この世に科学者が存在するからである。


例えば、科学が今日のように発達する以前は、「この世の創造主は神」と考えられており、わかりやすく言えば、「神が宇宙を創った」と考えられていた。

しかしながら、科学者はこの世の真理を追究する人種であるから、「神を否定するもの」ともいえるのである。

そして最終的に、科学者は宇宙理論を提唱した。

そのことは、神を否定する決定打となったわけだ。ここに、神は退場せざるを得なくなった。


このように、今日の科学は、神を否定することを土台としている。

だから、信仰者であっても(一部の者は除くだろうが。)無意識的に神などいないとわかっているのである。

それでも、彼らが神を信じ続けるのは、神を否定してしまえば自らの信仰する宗教を否定することになりかねないからである。


つまり、彼らは何故神を信じるのか?

それは、自らの宗教、究極的には自己を否定することを恐れるからである。


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話はまだまだ続きます・・・。ここまで読んで飽きてしまった方は、もうこれ以上読まないほうがいいと思います。

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また、「自分にとって神とは何なのか?」

それは、自分が絶対的であるものと信じるものだと考える。

そこで、一つ問いたい。日本に住んでいる我々日本人にとって、絶対的な存在はあるだろうか?

ほとんどの人には、無いはずだ。

なぜなら、日本という国家では「恥の文化」成立した上に、文化相対主義が良しとされるからだ。

勿論、かといって他の国でそういったことがないというわけではない。

グローバル化が進んでいる今日では、文化相対主義は世界中に広まっているとしても、不思議ではない。(そうなっていないのが、現実なのだが。)

よって、ほとんどの日本人には絶対的な存在はないから、神など存在しないのである。

それが、良いか悪いかということではない。

結局、自分が絶対的だと信じたものが神であり、そうでないものは神でないだけだ。

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さて、友人からノルマとして課せられた二つのテーマに対しては答え終わった。

ここからは、宗教について、僕が思う全てを暴露したい。(良い機会なので。)

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前述した通り、宗教とは人間を幸福へと導く教えだったはずだ。

しかし、それが狂い始めたのはいつ頃からだっただろうか。

人は、宗教に対して考慮しすぎた上に、手を加えすぎてしまった。

それが、今日の宗教紛争の火種となってしまっているだろう。


例えば、「カルヴァン主義」をご存知だろうか。

これは、プロテスタントのキリスト教信者、及び宗教改革者ジャン・カルヴァンが唱えた説である。

この主義によって提唱される説に「予定説」なるものがある。

予定説とは、「人間は生まれながらにして神に救われるか否かは決定している」という説である。

つまり、生まれる前から天国に逝けるか逝けないかが決まっているということ。

これが、人間を幸福へと導く教えだろうか?

僕には、到底そんなふうには思えないし、むしろ社会を混乱に貶めるだろう。


結局、このカルヴァン主義は否定されたのだが、こんな主義が提唱されるようになるまで、宗教は道をそれてしまっている。これは、かなり昔のことである。


そして、今日の宗教紛争の火種はそうした「道をそれ続ける宗教にある」といったが、直接的には自文化中心主義を唱える輩が多すぎるのだ。

「○○過激派」なんてのがこれに当たる。

こうした輩はもはや、国際的な力をもって滅ぼしてしまうしかないのだ。

彼らが、何の罪もない人を不条理に殺害する前に、根絶してしまうほかない。それこそ、真の聖戦だ。


宗教であれ、何であれ、我々人間は何かを学ぶとき一点集中型の学習をしてはならない。

常に、多面的に学ぶ必要がある。理由は言わなくてもわかるだろう。



グローバル化が進む今、世界中の民族は各々が持つ文化や宗教は保つべきだし、尊重してよい。

しかしながら、自文化中心主義となってはならない。

他の文化を認め合って、自らの文化を信仰する。

それが、最高の形なのだ。



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眠くなってきたので、この辺で終わります。

もし、ここまで読んでくれた方がいましたら、素直に感謝したいです。長文失礼しました。

思いやり精神

友達が病気になったときや、怪我したとき。

私達は当然、相手を思いやるだろう。

しかしながら、思いやり方は大きく二つに分かれていると思う。

一つ目は、声をかけるなどして積極的に相手を気遣うこと。

二つ目は、消極的に相手をそっとしておいてあげること。


個人的な意見だが、

相手が肉体的な疲労や病気の場合、前者の思いやり方がふさわしいと思う。

しかし、ただ「大丈夫?」とか言うのだけなら、最初から言わないほうが良い。

思いやるなら、とことん思いやってやる。例えば、「その場合には、○○するといいよ」とか。

ただ、声をかけるだけでは、無責任だ。


そして、相手が精神的な疲労や病気の場合は、後者のほうがふさわしいと思う。

根掘り葉掘り聞かず、ほっておいてあげる。それが一番良い。

それは、種類にもよるが、声をかけてしまうことで相手のプライドを傷つけかねない場合が多いからだ。

例えば、相手がかなり考えて、精神的にまいってまで決断したことに対して、口出しすることは相手にとっては頭にくるだろう。


大体、そうでなくても、助けが必要なら相手から求めてくるはずだ。わざわざこちらから、詮索する必要は無い。


また、「思いやる=優しさ」ではない。

”優しさ”という言葉はそんな軽い言葉ではない。また、”優しさ”と”おせっかい”は表裏一体なのだ。

だから、「思いやる=当然」とか「思いやる=おせっかい」と言ったほうが正しいように思える。

友達が、肉体的、精神的にストレスを感じているときなどは、誰もが心配するものだ。

それを、声に出して気遣うか、否かの違いだけだ。

そして、その後の対応によって、本当に相手のことを思ってやさしい”優しい行動”となるのか、はたまた、”おせっかいな行動”になるのかが決まるのだ。



もっと、書きたいのですが、眠いし明日テストなので今日はこの辺で。
毎度毎度文章まとまってなくてすみません。寝る前に更新するので、あまり頭が働かないです^^;

では、{[(-_-)(-_-)(-_-)]} ...zzZZZ 〜♪

終わりは突然に

我々人間は、いつ死ぬかわからない。

以前の記事でも、こんなことを述べた。

しかし、もっと話を広げて、人間という言葉を万物という言葉に置き換えたい。


リーマンブラザーズという会社が破綻するのを誰が予想できただろうか。

あの会社はアメリカでかなり上位の会社だったはず。

しかし、終わりは突然だった。


自然などについても同じ。

誰があの日岩手で地震が起こることを予想できただろうか。

犠牲者の方々は一瞬にして儚き命を奪われた。


例を出せば限りない。

確かなことは、終わりはいつ訪れるかわからない。


そんな中で、我々人間はどんなふうに毎日を過ごすべきだろか。

答えは簡単。毎日を大切に過ごせばいいのだ。

明日に悔いを残さぬように。毎日毎日着々と。



短いですが、この辺で。

家族

母親が風邪ひいて熱出しました。

なのに、あらゆる家事を一人でこなしている。

僕は「やること紙に書いて、もう寝ていいから。」とか言うのだけれど、それでも「ありがとう」とか言うだけで、聞かない。

「ありがとう」だぁ?

そんなこと言われる筋合いは無い。そんなこと言われるほど、偉いことをした覚えも、言った覚えも無い。


”助け合い”が家族ってもんだろう。

社会にある組織の中で唯一ある種の迷惑なら許される組織。それが家族だ。

独りで頑張る必要は無い。まして、本来頑張れない時に、どうして家族に任せられない?


母親は母親なりのプライドもあるのだろうか。

「この仕事は私の仕事だ。だから、自分でこなす。」そんなふうに。

しかし、風邪をひいて死にそうな顔しながら、そんなプライドもって欲しくない。

僕や父親や妹を信用して任せて欲しい。むしろそっちの方がありがたい。


しかしながら、そんなことをわかっているのか否か。

母親の態度は変わらない。また、それを見ている父親の態度も変わらない。

また、父親は母親に対して心配の言葉はかけない。しかし、表情から判断すると明らかに心配している。

前述内容と矛盾するが、言葉に現れない、僕の知らない、家族の絆がそこにはあったような気がした。


短い文章ですが、今日最も強く心に残ったことです。

日々接している家族。でも、まだまだわからないことがたくさん。

家族の絆って何なんだろう?

選択肢

人生は重要な選択肢の連続だ。





大学とりわけ、学部を選ぶに当たって、今後の社会のために役立つことに特にかかわりの深い学部とは何なのだろうか。


ちなみに、私は理学部の物理学科を志望しており、その理由は理論物理学という分野が好きだからである。

ただ、まだ決断できない。というのも、はたして理論物理学という分野が社会に対して貢献できる限界は一体どれほどであろうか。

また、それを極めたとして、人が生活に必要としているものや、数々の環境問題などを解決するのに役立つものだろうか。

そんなふうに考えると少し疑問に思ってしまうのである。


第二に、理論物理学分野の研究者などの職業は儲かる職種なのだろうか。

私は30歳までには、それなりのお金を持っておきたい。

その目標に対して、その分野の職種で実現可能なのか。

そう考えても、やはり疑問に思ってしまう。


かといって、じゃあ医学部か?

そう考えても、やはり別の疑問が浮かんでくる。そもそも、医学部って金が半端じゃない・・・。



そう考えてみると、どんな学部、どんな職業を選ぼうとも、100%満足できるものは無いことに気づいた。


だから、その中で何を選択し、何を捨てるか。

それが私達に課せられた本当に課題なのだと思った。


もっと、話を広げれば、社会にあるあらゆる選択肢についても同様のことが言えるだろう。

自分にとって、本当に必要なものとそうでないもの。

見分けるのは決して簡単なことではないが、自らの人生を思い返してみれば、人生は重要な選択肢の連続だった。


そんな重要な選択肢の連続を見事かいくぐって今の私がある。

あの時、いや昨日でさえも、別の選択をしていたら、私の今はだいぶ違っていたことであろう。


重要な選択肢を私達は無意識のうちに選択している。

意識して選択した選択肢は、より重要なものなのだ。


そんなことを考えてみて、いざ学部選択。

私は当然意識して選択している。だから、十分に考えて、より良い選択をしたいと思う。



人生は重要な選択肢の連続だ。我々人間は無意識のうちに選択し、無意識のうちに人生を決定している。


初めてタグ使ってみた・・・。

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