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なぜか最近、死ぬことが怖くなくなった。


高校生の僕がこんなこと言うのは、かなりおかしいことだけれど、なぜかそうなった。



思えば、僕は他人と比べて思春期などの必然的に訪れる時期がやたらと短く、他人とは少し違った生活をしていた。

人は、誰でも死について考える時期があると思う。


最近、そんなことについて頻繁に考えてしまう。



個人的な意見だが、死とは全体的には終わりの瞬間ではない。


後世へと自らの意志が引き継がれる瞬間なんだ。


一種の儀式であり、神聖なものだ。


僕は、大切な人の死を味わったことが無い。


だから、将来親とか、親友とかその他の大切な人々の死に直面したとき、僕はどんな気持ちになるかわからない。


しかし、少なくとも笑って送ってあげようと思う。


死とは当事者にとっては終わりであると共に、より重要な意味を込めた瞬間でもあると思う。


それは、その人が自らの人生を思い返し、人生を通して貫いてきたものを伝える瞬間であると思う。


その時に泣いていたら、失礼だろう。だから、笑って送ってやりたい。それに、最後に見る顔が泣き顔というのは、未練が残るだろう。



そんなことを考えるようになって、僕は死が怖くなくなった。


本当に怖いのは、これからの人生。


僕が死ぬときに、僕の周りには仲間が家族が、居てくれるだろうか。


そして、その人たちに、自分の意志を伝えることができるだろうか。


死ぬことより、むしろそっちのほうが怖いのだ。

人と意志

人は生きているのか?

いいや違う

生かされているんだ。


自然の中で生きている僕らは、広く言えば地球によって生かされている。

人間は儚い生き物だから、自然が人間を殺すのなんて簡単なことだろう。


デカルトによって提唱された近代合理主義を僕は認めない。

人間が自然を支配するのではない。自然が人間を支配するんだ。

デカルト自身、そんな主義を提唱しながらも、実は自然を支配することが不可能なことはわかっていたのではないだろうか。

なぜなら、人は起源より受け継がれてきたものは決してデリートすることはできない。

人は自然によって生かされ、自然によって発展してきた。

人間の起源は自然に支配された生活をしていたはずだ。



そんな自然の下で、我々人間はいつ死ぬかわからない。

僕も、明日死ぬ可能性だってゼロとは言い切れない。

だから、僕らは今生きている一瞬を大切にして、自分がここに生きた証を何かに刻み付ける必要がある。


自分が確かにそこに生きていた証を刻み付けられたならば、僕は安心して生きられる。

たとえ死んだとしても、僕の意志は死なない。


「死後に受ける名誉など何の意味もない」などとよく言われるが、果たしてそうだろうか?

僕はそうは思わない。他人の意識の中に、自分という存在がある限り、本質的に死ぬことはない。

意志が受け継がれる限り、肉体は死んでも、精神は生き続ける。




昨日のブログで僕は自分の意志を語りました。何故、これまで2人にしか話していなかったことを敢えてネットに公開したのか。

理由は今述べた通りです。



またまた、変なこと書いてすみません。最近悩み事多いです。ホントに何やってる時も、彼らのことが頭をよぎって、頭が痛くなります。

では、文章全くまとまってないですけど、今日はこの辺で。

『通ってる高校は全面禁煙なのに、生徒指導部の先生がそと階段で堂々とタバコ吸ってる』

って、嫌なときはとことん嫌うけど、普通にしていれば頼れる父親に愚痴をこぼしてみました。


「そんな奴に構うだけ無駄だ。そういう奴は言ってもわからない。気を使うだけ労力の無駄だ。自分の中でコイツはこういう人間なんだなと思っていればいいんだ。」

賛否両論かもしれませんが、立派な意見だと思いました。

わからない人間には何言ってもわからない。だからほっとけばいい。

僕ら、少なくとも”僕の立場”としてはその対応で十分なのでしょう。

僕の立場は人を指導する立場ではないのですから。

思えば、それが人間の器ってやつなんですかね。自分の感情をコントロールできて、誰にも被害が無いような処置を取る。(?)

はてなをつけたのは、僕もまだまだ人の器がどんなもんかなんてわからないからです。


また父親はこうも言っていました

「そういう人間は、お前が何も言わなくたって、周りはわかってる。だから、絶対に中途半端なところで終わる。」

また

「ほっとけばいいとは言っても、社会では何らかの差はつけなければならない。例えば給料をそう上げてやらないとか。」

結構面白いことだと思うのは僕だけでしょうか?

”ほっとけばいい”と”何らかの差をつける”は一見矛盾しているように見えます。

しかし、そこに”表”と”裏”という言葉を加えれば、正当な論理に思えます。

こんなことが社会のいたる所で行われているとなると、少し気がひけますが、面白いです。

周囲からダメとみなされた人間は、どんどん堕ちてゆく。逆のパターンの人間はどんどんあがってく。

そんな世界なんでしょうか、社会っていうのは。

閑話休題。


話をタバコの話に戻しますが、ひとつ面白いことがありました。

ある日、公共の場に食べ残しのカップめんがそのままの状態で放置されていました。

2日後それを見てみると、紙に「コレは酷いことです。うちの高校にこんな人間が居るとなると怒りを通通り越して悲しくなります。今すぐ片付けなさい。」と、全面禁煙の校舎内で堂々とタバコ吸ってる先生がメッセージを書いてました。

「お前が言うな!」って言いたくなりますよね。(言う勇気無いんで心で思ってるだけですけど。)


ああ・・・。何が言いたいんだろ俺・・。

正直今、かなり疲れててもう寝たいんですけど、ブログ楽しいんで無理やり書いてます。



あと、ある新聞社が有名な企業とかに対して「新入社員に何を求めますか?」っていうアンケートを40社くらいに行ったそうなんですが、学歴って答えた企業何社だと思います?


たった2社だったらしいですよ。


コレも面白いですよね。

今や、早稲田、慶応なんていう一流大学でさえも就職が難しいって言われる時代なのに、企業のほとんどは学歴はどーでもいいってわけですからね。

ちなみに、一番多かった答えは「挨拶ができること」とか「一般常識が身についていること」だったらしいです。

僕にいわせれば、そんなことができないんだったら働くなって言いたいんですが・・・。それが現実なんですかね。

なんかもう完全に愚痴になってますね。タイトル欄に「人の器」って書き込んであるんですが、「スカイブルーの戯言」に変えときますね。


あとあと、僕は”常識”って言葉があんま好きじゃないんですよ。

なんか人を縛るような言葉で嫌だ。ようは、人に迷惑をかけずに、ちゃんとした不自然でない生活をしていればいいだけです。

それなのに、常識、常識って(そういう自分も日常ではつい言っちゃうけど)なんか嫌だ。

僕は人とは少し変わっていたいから、なんか嫌ですね。勿論、それを身につけなければ社会ではやっていけないのだろうけど。


あと×3、ブログいつも見てくださっている方、かなり感謝してます。

こんな高校生の徒然だか戯言だかよくわからない気まぐれ日記を見てくださって。

それに対して感想や意見をくださる方は本当にありがたいです。勉強になります。


僕はまだ、高校生。個人的に、この時期は勉強だけじゃいけない。色々な価値観を知っておかなければならない、そんなふうに思ってます。

ブログをやって、自分の思ったことをそのまま書いて、それに対して色々な意見をいただける。

これ以上のことはありません。本当にありがとうございます。

今後とも、どうかよろしくお願いします。




結局俺何が言いたかったんだろう・・・・・・・・・・・・・・。

では、明日恐ろしい時間から補習があるんで、もう寝ます。

あー・・・・・疲れた。

橋本知事が大阪教育委員会を「クソ教育委員会」と罵倒した一件について。

”クソ”は確かに言いすぎだと思うが、逆にそのくらい言ってもいいのかもしれない。

教育委員会が学力テストの公表を拒んでいるのは、「下から何番目とかなれば、子どもたちもそれとイコールとみなされる危惧があります」

という理由らしい。

確かに、公表によって子供達の身の回りの環境が悪化するようなことはあってはならないが、そんなことがはたしてありえるだろうか?

そもそも、何のための学力テストだったのか。教育委員会がただ現状を把握しておくだけのテストだったのか?

そうではないだろう。子供達の学力を向上させるのが最大の目的だろう。

だったら、公表せずになんとする?

公表することで学校同士に競争意識が生まれ、結果的にそれが学力向上に繋がるであろう。


さらに、僕はその結果を公表する対象は社会全体でなければならないと考えている。

時代は変化しており、今じゃ学校はどうも頼りない。それよりむしろ頼れるのは塾だ。

社会全体に公表すれば、利益を目的とする塾はどこを中心的に生徒を集め始めるか?

それは、おそらく下位の学校だろう。そうなれば、自然と学力は上がってくる。

また、塾でないにしても地域をあげて子供達の学力をあげようとするような組織の設立も公表によって期待できるのではないだろうか。


そんな状況を把握してるのか、していないのか。

いずれにしても結果を公表しないのは宝の持ちぐされにすぎない。


「下から何番目とかなれば、子どもたちもそれとイコールとみなされる危惧があります」

なんて言ってる暇じゃない。子供達の学力はかなり落ちてしまった。この状況をほっとけばどんどん落ちていくだろう。

その前に、”変革”が必要だ。そのことをわかっていて、公表しないなどとほざいているのだろうか?





あと、全然関係ないですけど、どっかの国の力士が2人解雇されましたね。解雇っていうよりむしろ、今すぐ国外追放して欲しいですね。

「私は・・相撲大好きで・・・一生懸命・・やってきました。・・・・・大麻なんか絶対やってません。」
らしいですから、極寒の地で白熊と相撲やってりゃいいんですよね。

あんな奴らが力士気取ってるなんて、見ても聞いても不愉快だ!!

『相撲協会、8日理事会 露鵬と白露山の処分を検討』

検討?

検討するまでも無い。覚醒剤を使用したことは誰がどう見たって明らか。

そんなものに手を染めた時点で問答無用で解雇すべきだ。

日本はこういった対処がどうも甘いような気がする。

政治資金の問題などに関しても、社会犯罪に関しても

何もかもが甘すぎる。


犯罪を犯した者に対しては、それ相応の罰を当然だが負ってもらわねばならない。

それは、見せしめではないが、他の多くの人が同じ事を繰り返さぬようにという意味も含んだ罰だ。

だから、『相撲協会、8日理事会 露鵬と白露山の処分を検討』ではなく、『相撲協会、8日理事会 露鵬と白露山を処分』でなければならない。

罰はとことん厳しくあるべきだ。

無論、被疑者が冤罪の可能性も考慮しなければならないが、今回のように明らかなものは対象外ではないだろうか。


また、2人の力士の親方の責任を追及するのも、僕にはおかしいように思える。

親方が弟子に対して世話するのは”相撲”だけでいい。日常生活までいちいち世話してやる必要は無い。

常識として、覚醒剤を使えばどうなるかなんて事はわかっているはずだし、そんなので指導責任とかなんとか言われたって、困ってしまうだろう。

責任は全て本人達で負わせるべきだ。




この文章を書いている途中に思ったことがひとつある。

日本人は他人に責任をやたら負わせるのが好きなのか?

何か問題が起きれば、責任の所在を必死になって探すことは、一生懸命責任を負わせることに骨を折っているように見える。

そんな行動がプラスと言えるだろうか。

確かに、再発防止には繋がるかもしれない。しかし、僕にはそれをも上回るマイナス面があると思える。


日本人が、いかなる犯罪においても、十分な議論をして時間をかけてから処罰を下そうとするのは、また何をするにしてもまずは議論をしてからするのは、責任を逃れるためではないだろうか。

即断即効で何かをしてしまえば、十人十色という言葉がある通り、何を言われるかわからない。たとえ、それがどんなに正しい処置だったとしてもだ。

『赤信号みんなで渡れば怖くない』という言葉を地元で聞いたことがあるのだが、同じような状況が今日本で起きているのではないだろうか。

それゆえに、国会などが出す結論が斬新的でないのは、できるだけ責任を問われない結論を出しているからだ。

議論を重ねるごとに、責任を恐れ、どんどん議論の質が落ちてゆく。

そんな現状が今の日本にあると思える。


こんな現状に対して、解決策を出せと言われたら、今の僕の頭ではわからない。

その解決策は、日本人の民族的特性とかエートスとかを包含して練られたものであるばかりか、日本文化も加えて考慮されたものでなければならない。

それは、結構難しいことだと思う。


何はともあれ、やはり日本は甘すぎる。きちんとしたけじめはつけなければならない。

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