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支配

人間というものは特殊な生き物だ。

他の動物が持ってい色々な能力を兼ね備え、それをうまく用いて生活している。

しかしそれが故に、何か盲点となっているものはないだろうか?

我々は考えるべきことを考えずに、毎日を過ごしてはいないだろうか?


人間は他のあらゆる物に対して支配的な態度を取りたがる。

科学技術の発展はその支配領域を拡大してきたといえるだろう。

生きていくに仕方のないことだとしてもだ。我々は他の動物を食べている。

食べられる側は何も知らずに捕らえられ、いつの間にか殺される。

しかし逆はありえない。

人間が他の動物に食べられることなんてのはまずない。

そんなに人間は偉いのだろうか。

と、言ってる僕も今日の晩飯で魚を食べた。

「お前も結局同じじゃないか。」

そういわれて、反論はできない。


人間はいつの間にか、自然を支配するようになってしまった。

かつては自然に支配されていた身分であるのにも関わらず、利己的な下克上を起こしてその主従関係を逆転させてしまったのである。

これは言うまでも無く、まずいことだろうが、もっとまずいことは我々がそれに対して無意識だいうことである。

不都合なことを考えない能力も、人間が兼ね備えている能力の1つと言えるだろう。


確かに、人間は色々な能力を持つ。

しかしそれ故に、盲点となっているものもあると思う。

自分達人間にとって不都合なものも真摯に受け止め、生きていくことが必要ではないだろうか。

The peace

前にもこんなことは書いたような気がしますが、

私達の平和はどうやって保たれているのでしょうか?


答えは軍隊の存在です。

日本から自衛隊とアメリカ軍がなくなれば、日本の平和は大きく揺らぐでしょう。
同じように世界から軍隊を取り去ってしまえば、平和などありえないのです。
なぜなら、人間の欲というものは絶対に取り去ることができないから。
軍隊とはいわば、そうした人間の欲が生み出してしまった産物です。
そして、時代が進むにつれてその欲はエスカレートし、ついに核兵器という魔物を開発してしまった。
アメリカなどは地球上の全人類を何十回と殺すことのできる数の核兵器を持っているにもかかわらず、アメリカ中心主義はだいぶ長くの間続いてしまいました。
そのことからも、平和とは軍隊の存在によるものだということが読み取れます。


では、真の平和とはなんなのでしょうか。

人間の欲が取り除かれた社会なんて不可能です。欲の存在を否定しない範囲での真の平和とは一体どういうものなのでしょうか。

これから僕が述べることは間違っています。そんなことあってはならない。しかし敢えて述べます。

真の平和とは何も無いことです。

平和なんて言葉を聞くと私達人間は綺麗なイメージを持つのでは無いでしょうか?
しかしそれは、植えつけられたイメージにすぎません。
軍隊が平和を作り出している今、平和とは実は恐怖と言い換えることもできなくないのかもしれません。
人々はその恐怖を知らないだけです。

だから、何も無ければ恐怖の何もない。だから平和。
しかしそんなことは実現不可能だし、あってはなりません。
もっとも、僕には世界はその無の状態に進もうとしているように見えてならないのですが。

だったら、どのような平和を私達は探求していくべきなのでしょうか?
そう考えたとき、答えを出せますか?

私がこの文章を打っている間に、世界のどこかで子供が死んでいるかもしれない。
私達が平和に暮らしている横で犠牲になる人々がいる。
それが平和とは思えません。

その悲劇的な状態を打開しように今も奮闘する人々が居ることは事実です。
しかしそういう人があまりにも少なすぎる。
直接的な行動がおこせないなら、知っているだけでもいい。
意識して、小さなことから変えていくことも立派なことです。
しかし、そういう人もまた少なすぎる。

それが、世界の今だと思います。
それを私達は堂々と平和と言っているのです。



文章まとまっていませんが、明日課外なのでもう寝ますね^^;

罪と正義

「偉大なる正義のためには小さな犯罪は赦されるのか?」





例えば、大富豪だが、人を奴隷のように扱い他人に害を与え続ける人が居る。

一方、世界中には何億人もの色々なことに起因して苦しんでいる若者が居る。


その若者達を救済するのは偉大なる正義と言えるだろう。

しかし、救済するにはどうすればいい?

と、思ったとき誰もが選択肢の一つに「この大富豪のお金を分配する」という選択肢を作るだろう。

そうはいっても、この意地の悪い大富豪がお金を分配するはずもない。

そして人は無意識に思ってしまうのではないか。

「この大富豪を殺せばいい。」と。


この大富豪を殺すことは紛れも無く罪である。

しかし、その後に世界中の困窮状態にある若者にお金を分配することは正義であろう。

大富豪は他人に害を与え、若者達はこれからの社会に対して多大なる貢献をするかもしれない。

どちらが、生きるべきかは一目瞭然である。


「偉大なる正義のためには小さな犯罪は赦されるのか?」

貴方は「yes」と答えるだろうか「no」と答えるだろうか。

ただ、「yes」と答えた先に待ち受ける問いは「貴方はできるのか?」

という問いなのだ。

同じように「no」と答えた先に待ち受ける問いは「貴方はできるのか?」

という問いだ。

前者の「できるのか?」は「殺すことが」という意味である。

それに対して後者の「できるのか?」は「見捨てることが」という意味である。


しかしながら、やはり人は「no」と答えてしまう人が大半だ。

「誰かがやってくれるだろう」、「俺には関係ない」そんな理由から「yes」の答えはさけられる。


これは非常に一元的な例だ。

しかし多元的に拡大すれば、世界でも同じことが起きている。

「誰かがやってくれるだろう」、「俺には関係ない」

それだから、あらゆる問題は解決しない。

地球温暖化も、紛争問題も、・・・・・・・・



「偉大なる正義のためには小さな犯罪は赦されるのか?」

貴方はどう考えますか?

最悪だぁぁぁぁぁ

待ちに待ったipodが今日やっと届いたのに・・・・PCがCD-ROMを読み取りません・・・・・。

今日という日をどれほど楽しみにしていたことだか・・・

予定ではラルクとsum 41を聞きまくるはずだったのに・・・。



もうショックだ。寝よう。

Shorter ways

短文ですが、今日ふと考えたことです。






「上達に近道などない。」

この言葉、よく言われますね。

しかし違うと思う。

「近道を知らないだけだ。」

近道はある。しかしそれを知らない。

人々は、他人の恐るべき上達の早さを”才能”という二文字で片付けたがる。

その速さの秘訣は色々。

大いなる努力かもしれないし、要領がいいのかもしれない。

後者の場合を”近道”って言うんじゃないの?

それを、多くの人は知らないだけじゃないの?



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