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【お知らせ】

お知らせ(お詫び)


最近、やたら忙しくブログをまともに更新する時間がとれません。

そして今書いている小説ですが、更新する時間がない上にネタを考える時間もありません。

ネタをその場で考えて書いたのが第2章なのですが、やっぱり自分的には駄作になってしまいました。

なので、本当に申し訳ないのですが小説やめさせてください。


そしてこれからは受験シーズンに突入するので今よりも忙しくなってきますので、ブログを殆ど更新できなくなるかもしれませんが、何とか続けたいと思っていますので今後ともよろしくお願いします。

努力人

「悼む人」という天童荒太さんの小説が王様のブランチで紹介されていました。
天童さんはこの小説を手がけるに当たって、7年もの年月を費やしたらしいのです。
「主人公に自分自身がなりきることによって、より小説を高めていく。」
そんなことを言っていました。

僕はまだこの本を読んでいないので、よくわかりませんが、この本の主人公は事故などで亡くなられた人々を悼むために、実際にその現場へ行って、手を合わせて悼むそうです。
天童さんは実際に同じようなことをやったそうです。
また、主人公の経歴などを作ってノートにまとめたりもしたそうです。


1冊の本を創作するために、そこまでの努力を費やすことは僕にはできないと思います。
強い執念と、並外れた粘り強さがなければ、絶対にできないことです。

そんな甲斐あって、この小説の完成度は非常に高く、王様のブランチの中で松田さんに「21世紀になって読んだ小説の中で、間違いなくナンバーワンだと思っている作品」と言わしめたほどです。


僕の書いた小説なんぞとは、努力から何から天と地の差があるなぁ、と渋々反省しています。



ところで、小説だけに限らず、創作または創造に必要なものとは何でしょうか?

努力だけではないと思います。
Endurance,Inspiration,Ambition,Experience,+Effort

そんな感じでしょうか。
努力は絶対条件だと思います。
天童さんは努力が他の要素に対して絶大な影響力を及ぼし、あれだけの作品が作れたのだと勝手に思っています。



話は変わりますが、僕の友達にこんなこといってる人が居ます。
「俺には勉強の才能がない。」と。
ただ、そういう人に限って諦めているかどうだか知らないけれど、大体勉強不足の人が多いような気がします。
進学校には確かに、勉強しないでも頭がものすごく良い人も居ます。そういう人を見て、僕の友達は自分は非才な人間だと決め付けてしまったのでしょう。
しかし、それは違うと思う。
「俺には」じゃない「殆どの人には」ではないでしょうか。
殆どの人に勉強の才能なんて無いような気がします。
なぜなら、そもそも「勉強に才能なんてない」と思うから。

勉強しないでテストの点が取れる人は記憶力が良い。それが究極的な理由です。
記憶力は子供の頃の生活によってある程度個人差が出てくると思います。
僕の経験上では、小学生の1〜3年くらいまでの間に物事をたくさん覚えた人は記憶力が良いと思います。
才能なんかじゃない、経験の違いです。

そういわれても、結局「努力しないで点が取れる」という事実に変わりは無いので、不満に思うかもしれませんが、「努力しないで点が取れる」ということは努力という要素がその人には欠けているのです。
創作、創造については、先ほど英語で書いたものの中から努力が消えてしまうことになります。

学校という小さな共同体から、社会という大きな共同体へ進出する人々にもっとも必要とされるのが「文字通りの学歴」という時代は終わりつつあります。
実際、ある新聞社が行った企業への「新人に求めるものは?」というアンケートに対して「学歴」と答えた企業は約40社中2社だったそうです。

とはいっても、本音と建前は勿論あるので、未だに多くの企業が学歴を求めていることは確かです。
しかし学歴とは何を評価するために存在する価値観なんでしょうか?
「学歴=努力」ではないでしょうか。
例えば、東大を出た人と偏差値30のスカイブルー大学(勝手に作った。)を出た人でどちらが多くの努力を積んだかといえば、まず東大を出た人でしょう。
だから企業は東大を出た人を採用する。
つまり、企業が求めるのは学歴そのものではなく、努力だと思うのです。

そこへもってきて、「努力を忘れた点取り屋」は果たして社会で活躍できるでしょうか?
そりゃ、いい大学へは行けて、いい企業に入社できるかもしれません。
しかし企業が求めたことに答えられなければ問題外です。
そんな人が社会で活躍できるとは到底思えません。

ここで言っておきたいのは、何も「努力=やる気」ではないということです。
やる気なんか無くても、努力ができて結果が出せていればそれでいいのです。
そして、努力ができる人には必ず結果は何らかの形でついてくるものです。




天童さんは努力のできる人でした。
だから結果がついてきた。
だから小説家として一流になることができたのだと思います。




話がまとまっていませんが、そろそろ風呂なので失礼します。

トロッコ問題

少し時間ができたので、更新します。



「トロッコ問題」というものをご存知でしょうか?
僕自身、よくわかっていないんですが、「人間の倫理の非理性的を提唱する問題」らしいです。
この問題は、カント倫理学の根本原理とも関係があり、結構複雑な問題ですが、それなりに興味も持てる問題です。



今あなたはトロッコのポイント地点に居ます。

線路は二つに分かれており、一方の線路には5人が動けない状態に居て、もう一方の線路には1人が動けない状態に居ます。

そしてこのままでは、トロッコは5人の方に進み、ポイントを切り替えなければ5人は死んでしまいます。

この状態でポイントを切り替えられるのは貴方だけ。

貴方ならどうしますか?



という問いに対して、殆どの人々は「ポイントを切り替える」という選択肢を取るそうです。

ポイントを切り替えることによって死んでしまう1人の人は何とも不条理な死を迎えることになりますが、「大多数の人々を救うには少数の犠牲は仕方ない」というのが、一般的な解釈なのでしょう。


しかしここで、ちょっと状況を変えてみます。



1本の直線状の線路があり、そこにはまたもや5人が動けない状態で居ます。

そして貴方は線路の上に架けられた橋の上に居て、貴方の横には人が1人立っています。

このままでは5人は死んでしまいます。5人を救うためには横に立っている人を線路に突き落としてトロッコの進路を変えるほかありません。(貴方自身が飛び降りるのはなしとします)

貴方ならどうしますか?



という問いに対して、殆どの人々は「傍観する」という選択肢を取るそうです。
つまり、横に居る人を突き落とさずに5人が死んでいくのを見ているということです。

しかし、考えてみてください。

この2つの状況は本質的には同じです。
「5人を救うために1人を貴方の手で犠牲にするか否か」という問いを等しく投げかけられているのです。
しかし、人々はこの2つの状況について違った答えを示します。
この事に関してはまだ社会心理学でも神経科学でも哲学でも解明されていないそうです。



ここからは僕が考えることですが、そうした選択の差異の背景には人間が社会で生きていく間に植えつけられていく、共通の意識というものの存在が大きいと思います。

世界単位で形成されていくイデオロギー的な何かのようなものなのでしょうか、言葉ではよく表現しかねますが、美的な倫理観を追求する動きが共同体の中にはあると思います。

では、そうした美的な倫理観というものはどのようにして生まれ、どのようにして伝染していくのか。
発生源の主たるものは正直言ってよくわかりませんが、伝染させる主たるものはドラマや映画などの娯楽メディアによる影響が強いのではないでしょうか。

人間は美的なものに惹かれがちです。
商業目的を担う娯楽メディアは、人間が求めるものを追求するのは当たり前のことです。
それ故に、娯楽メディアは美的なものをどんどん共同体に供給していく。
供給されたものは必ずといってもいいほど、消費されます。
その消費者こそが共同体の構成員である人間なのは言うまでもないことです。
それ故に、人間は共同体の中に存在する限り、美的な倫理観を無意識に植えつけられていくことになるのではないでしょうか。

共同体に居る限り、人間はどうしても他人の評価を気にしてしまいます。
美的な倫理観に反することをすれば、批判される。だから、しない。
まっとうな考えに見えます。

しかしながら、ここで僕が強調したいことは、人間は皆思い込みの中で生きているということです。
トロッコ問題の2つの場合のどちらが、美的であるかということを人間はきっと自らが抱く第一印象に基づいて決定するのでは無いでしょうか。
しかし、2つの場合は本質的には同じことを言っています。
冷静に考えて分析すれば、どちらが美的かなんて決定できないはずです。
それなのに、人間が後者を美的でないと判断してしまうのはやはり、人間が思い込みの中に生きているからです。

そんなことを提言する上では、そもそも「美的」という言葉を用いること自体少しずれているような気もしますが、やはり人間の本質的な思考の裏にはそういうものがあると思います。

「美的な倫理観」という言葉が適切だったか適切でなかったかはわかりませんが、もしその言葉が適切なら、この問題を解明するのは容易なことではないでしょう。

なぜなら、美的な倫理観は色々な分野に利用されるからです。

例えば、戦争。

ある国はある国を攻撃したいがために、少女を1人法廷でその攻めたい国の兵士の残忍さを涙ながらに語らせました。「その国の兵士が家に侵入してきて家族を皆殺していきました。」とか言ってね。
その映像をテレビを通して見た国民の大多数が戦争を支持し、戦争が勃発しました。
しかし、後になって調べてみるとその少女は実際にはそんな体験などしていなかったことが明らかになったのです。
どんな組織かは知りませんが、少女に涙ながらに嘘を語らせたその組織は明らかに「美的な倫理観」を利用して国民の支持を仰いだのです。


「美的な倫理観」

それって本当に美的といえるんでしょうか。
私達はいつでも冷静に物事を判断する目を養わなければなりません。
自分が見ている事の全てが真実であるとは限らない。いや、重大な問題の殆どに関しては真実は隠され、幻想だけが私達に見えているのかもしれない。
そういった幻想を見抜く力がこれからの社会で生きていくために必要となるのは言うまでもないことでしょう。



トロッコ問題。

そんな問題を本気で考えてみることも、いいのかもしれません。

【お知らせ】

風邪ひきました。
感想は後で書きますね〜。
じゃ、オヤスミzzz

【お知らせ】

突然ですが、明日から修学旅行です。

頼むから、誰かやる気ください。


ま、それはいいとして京都と大阪に行ってくるので、携帯から写真とって更新しますね。

勿論、その間他の更新はできないので、ご了承ください。


以上、お知らせでした・・。



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