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日本陸海軍研究所
今年、風邪ばかり引いてるわ……
満洲事変勃発当時、西浦が勤務していた軍事課にいた上司についてどのように見ていたのか。この本では簡単に触れられている。
 軍務局長であった小磯国昭と軍事課長であった永田鉄山について両者ともに「偉い人だな」と思っており、他に小磯については「政治家だな」、永田については「明敏温情」と書いている。
 高級課員の村上啓作については「温厚」、下山琢磨については「俊敏と奇行」、鈴木宗作は「勤勉練達の事務家」としている。

 中でも鈴木貞一については「異色であった」としている。後に鈴木貞一は企画院総裁、産報会長として幅広い活動をしているが、西浦は「当時中佐時代から変わった人であった」「非常な読書家」「交際関係も広かった」とみていた。
 鈴木貞一は参謀本部勤務の中尉時代に田中義一当時陸軍次官の命により、1年間大蔵省で財政経済の研究のために派遣されたことがある。これが陸軍大学校出身者による帝大聴講制度の始まりだった。帝大聴講制度は西浦からみて「必ずしも成功とはいえないと思う」というものであった。西浦はこの制度を「徒らに衒学的な人間をつくりあげて、実際と離れすぎた感がある」とみており、「実務にあたって感心しないものが多かった」とのことだが、鈴木貞一に関しては異色であったとしている。鈴木の場合「寧ろ実務官庁で習練したことのためか、それとも矢張り根本的に人の問題によるものか」と別物であるとみなしているようである。
 西浦は、後年軍人といえば威張り歩き、大して頭のよくないものまでチヤホヤされていた時代と違って、一中佐の鈴木貞一が満洲事変が始まったばかりの頃に若槻内閣を瓦解させて犬養内閣をつくり、その書記官の森格、外務省の白鳥敏夫らと密接な事前連絡をして着々と手を打っていったのは「比類のないもの」と評価している。
 『当時大臣連中でさえ中々大仕事としていた興津の西園寺公砲門をやって、滔々数時間政治・外交・経済を論じ、最後に「貴方は経理官ですか」とやられた…西園寺公は真面目にいったのである』と鈴木貞一の逸話を紹介し、軍の内外で批判がないわけではないが珍しい存在であった、と西浦は書いている。
  

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 西浦進が陸軍省軍事課に赴任した昭和6年10月の頃の陸軍省の主要な顔ぶれは以下の通りだった。
 陸軍大臣      南次郎(6期)
 陸軍次官      杉山元(12期)
 軍務局長      小磯国昭(12期)
 軍事課長      永田鉄山(16期)
 軍事課員 高級課員 村上啓作(22期)
      編制班  鈴木宗作(24期)
           下山琢磨(25期)
           柳田元三(26期)
           島貫忠正(33期)
           真田穣一郎(31期)官房副官より間もなく転入
      予算班  綾部橘樹(27期)
           寺田雅雄(29期)
           山田清一(26期)軍縮随員、定員外
      支那班  鈴木貞一(22期)
      外交班  土橋勇逸(24期)
           西原一策(25期)軍縮随員、定員外
      典儀班  国分新七郎(28期)

 西浦が軍事課に着任した昭和6年当時は、軍事課は後の軍務課の仕事もしていた。このため繁忙を極めていたが、西浦が編制班に入ると宇垣一成陸相当時の立案であった軍備整理と政府要請による行政整理の仕事を担任することになり、あわせて最新参者として局長の副官的仕事と軍事課の庶務将校もつとめることとなった。なお、後年専門の庶務将校が出来たが、西浦が赴任したばかりの昭和6年頃は一人三役をこなし、満州事変勃発直後という忙しさもあって昼食は仕事をしながら事務室でとり、夜は帰宅が夜9時頃より早くはなかったそうだ。
 参謀本部との直通電話は軍事課には1本しかなく、電話当番は西浦がつとめていた。細かい編制表の数字を数えている時に電話がかかってきて、また最初から数え直すということが再々、あったそうだ。
          

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 仕事が忙しくて、なかなかまともにプレイすることが出来なかった「艦これ」。第二期になってFlashからHTMLへ仕様変更されても、持っているWi-Fiルーターの性能がイマイチなのか、途中で猫ることが多く、iPadでプレイするのは難がありました。
 意を決してiPhoneを画面の大きいものに買い換えたものの、やっぱりチマチマやるには難しい。とはいえ、前よりかは改善された、ということで、本格復帰しました。
 
 今年に入って本格的にガダルカナル・一木支隊戦史を書き始めるということで、休日は自宅にいる時間が長くなります。ほぼ資料整理にPCの前に向かうことが多くなります。つまり、艦これをプレイしながら資料整理をする、ということが出来るのです。(何故それを今までやらなかったのか)しかし、秋イベで資材を消耗したままで遠征すらこなしていないため、備蓄はお寒い状態・・・このため冬イベも節分イベもスルーしました。

 平日は仕事から帰ってくるのが遅くなるのでデイリー任務の消化のみ、週末にでデイリー任務消化ついでに消化できなかったウィークリー任務とクォータリー任務、単発任務を消化することにしました。これで、資源備蓄も育成もガッツリできます。

 燃料は40,000からようやく130,000近くまで回復。ただ、鋼材がなかなか増えない・・・損傷艦の入渠と育成して改造可能になった艦艇が続出したため、結構鋼材を消費してしまいました。第二期になってから鋼材が増えにくくなりましたし、鋼材入手が今後の課題ですね・・・

 艦これが出先でなんとかプレイできるようになったのは、うれしいですね。

 西浦進は明治34(1901)年12月4日、東京市に生まれた。大正4(1915)年9月1日に大阪陸軍地方幼年学校へ、続いて大正7(1918)年9月1日に陸軍中央幼年学校本科へ入学した。大正9(1920)年3月21日に士官候補生として野砲兵第22聯隊付勤務となり満州海城に駐屯、同年10月1日に陸軍士官学校(陸士34期)へ入学した。大正11年7月28日に陸軍士官学校を卒業、原隊である野砲兵第22聯隊付、同年に陸軍砲兵少尉に任官した。大正13(1924)年1月、陸軍砲工学校へ入学、翌年に陸軍砲兵中尉に任官した。昭和2(1927)年8月1日陸軍野砲兵学校教導聯隊付し、同年12月1日には陸軍大学校へ入学した。3年間陸軍大学校で学んだ後の昭和5(1930)年1月27日に再び原隊である野砲兵第22聯隊付となり、翌昭和6(1931)年に陸軍砲兵大尉に任官し同聯隊第四中隊長となる。

 
 満洲事変の起こった昭和6年9月18日頃、西浦のいた野砲兵第22聯隊は琵琶湖の西北岸で射撃演習のため野営中だった。同日朝、中隊射撃の講評が終わった所へ満洲事変の契機となった柳条溝事件の報がもたらされた。この日は一日中、柳条溝事件の噂でもちきりであったが、「事件も線香花火式に了るだろう。今年満州駐箚から帰ったばかりの我が第十六師団、昔から戦さ運の悪い我が師団には、到底戦さに参加する機会など廻って来るまいという結論だった」(「昭和戦争史の証言」P32)。
 射撃演習が終わった9月26日頃、70数キロの夜行軍を交えて京都に帰還し慰労休暇後の28日頃聯隊に出勤した。その際、陸軍省軍務局の島貫忠正大尉(陸士33期、後に大佐、ノモンハン事件で戦死)から親展の封書が届いており、続いて電報で軍務局軍事課勤務が発令された旨が西浦に伝えられた。幹部演習のため近江平地に出張中の聯隊長に直ちに赴任する旨を申告し急遽、上京した。
 10月1日に陸軍省軍務局軍事課に着任、軍事課長永田鉄山大佐(16期)、軍務局長小磯国昭中将(12期)に申告した。この時より、西浦の13年余にわたる軍事課生活が始まることになった。
 
 

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みなさんこんばんは。本日は帝都から策源地へ戻る途中であるため、更新が出来ません。楽しみにされていた方には申し訳ないであります。明日、体力回復次第、更新いたします。

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