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先日高野山へお礼参りをしてきました。
朝、8時に出発し、帰宅したのは10時過ぎになりました。さすがに和歌山は日帰りでは慌ただしいこうていでした。
金剛峯寺(こんごうぶじ)の門前に到着したのは既に昼を回っていました。まずは、歩いて安養院へ行、昼食です。
一粒の米にも・・・・と唱えて
質素でしたが美味しく頂きました。
ここで、しばらく時間があったのですが、不案内で有効に時間が使えませんでした。
大門はおろか金剛峯寺(こんごうぶじ)も十分参ることがでれきませんでした。
なにしろ、朝からずっと冷たい雨が降っていました。道路にはあちこちに厚い残雪が残り、足下がとても悪かったことも、手間取った理由です。
金剛峯寺から歩いて奥の院へ。途中には多くの大名のものを初め、近年の有名人や大小の企業墓碑が並んでいました。奥の院は神聖な場として写真撮影は禁止されています。
その手前はこんな雰囲気でした。
年を経た沢山の立派な杉の森です。
この付近の杉は「高野杉」として知られていて、建材を初め土産物などにも使われているようです。杉を原料とした杉線香は有名なのだそうです。
高野山は平成16年に、「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されました。 世界遺産に登録されたのは、大門、伽藍、金剛峯寺、徳川家霊台、金剛三昧院の各境内地、奥之院全体と自然景観や森林までだそうです。また、参詣道も対象で、「高野山町石道」と呼ばれ、高野山麓の慈尊院から大門を経て奥の院に至る約24kmの参道です。
女人禁制の高野山、慈尊院にいた母親を慰めに、空海が奥の院から月に9回も通ったのだそうです。慈尊院のある辺りは九度山と言うのはこのためだそうです。往復50km近い距離を歩いて通うのは大変ですね。
これで、四国遍路の旅を全て終了しました。
何十回も回る人もおられるとのことです。3回目にやっと自分のことをお願いしなさいとのことでした。
さて、・・・・・・・。 |
四国八十八ヶ所遍路
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7月中旬、第10回の四国遍路ツアーに参加しました。
この日は45番の岩屋寺から、44番大寶寺、46番浄瑠璃寺、47番八坂寺の順に参りました。一時雨に降られましたが、まずまずの天候で、無事お参りを終えることが出来ました。
第44番 大寶寺
本尊は十一面観世音菩薩。
百済から来た僧が携えて来た十一面観世音菩薩を山中に安置したのが始まりで、 猟師が観音像を見つけ草庵を建てて祀り、文武天皇によって寺院が建立され、元号に合わせて寺号を定めたといわれている。822年に空海がが来錫、天台宗から真言宗に改宗されたという。
1152年に失火により焼失、1156年、後白河天皇の脳の病気平癒を祈願したところ、治ったため妹宮を住職とし、勅願寺として再興されたという。長宗我部元親の兵火で再度焼失、元禄年間に藩主加藤義明などの支援で再興した。明治7年にも失火で焼失するが、地元の人々によって再興を果たした。 山門は仁王門・楼門。
参道が直角に曲がったすぐの所にあり、正面から全体を撮ることができませんでした。なかなか立派な山門でした。金剛力士像は室町時代の「法眼」という仏師を招いて造らせたもので、明治7年の火災を免れ、昭和27年に京都で修復を行い再び仁王門に据えられた、とあります。
第45番 岩屋寺
本尊は不動明王。
815年、法華仙人という女性が霊地を探して山に入った空海に帰依して山を献上した。空海は不動明王の木像と石像を刻み、木像は堂宇の本尊とし、石像は奥の院の岩窟に祀って秘仏とし、岩山全体を本尊としたという。
山門は仁王門。とありますが、くぐったのはこの門です。仁王門ではありませんね。
そして、別の所にあったのがこの門です。はて、少し荒れているようですが、これでしょうか?。
本堂は大きな岸壁の下にあり、霊験あらたかな感じでした。ご詠歌も「大聖の 祈る力の げに岩屋 石の中にも 極楽ぞある」です。ここも、明治31年に堂宇のほとんどを焼失しており、再建されたとのことです。
第46番 浄瑠璃寺 本尊は薬師如来。 708年、布教に訪れた行基が堂宇を建立、本尊の薬師如来と脇侍の日光・月光菩薩、十二神将を刻んで安置して開基し、その後、大同2年(807年)に空海(弘法大師)が荒廃していた伽藍を修復し再興したという。
ここも、江戸時代(1715)に山火事で本尊と脇侍をのぞいて大半が焼失している。70年後の1785年、地元の庄屋から住職になった僧・堯音が托鉢をしながら全国を行脚して浄財を集め再興したとのこと。
山門は無い。入り口?にはこんな石柱などがありました。
左側の石柱 右側の石の表札
境内には樹齢1,000年を超すという大樹のイブキビャクシンがあったのですが、時間が無く、ゆっくりと見ることが出来ませんでした。
第47番 八坂寺
本尊は阿弥陀如来。
修験道の開祖といわれる役行者(えんのぎょうじゃ)によって開基された。701年に文武天皇の勅願を受けて堂宇が建立されたという。一時荒廃するが、815年に空海が再興したとされる。その後、熊野権現の分霊や十二社権現を奉祀して修験道の根本道場となり、僧兵を抱えるほど栄えた。しかし、再興と火災が重なって寺の規模は縮小の一途をたどった。現在の寺は、十二社権現と紀州の熊野大権現が祀られていた宮跡にあると言う。
山門は単層小型の門で天井には絵が描かれている。
午後4時頃その日のお参りを終え、帰路に着きました。
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第9回四国遍路ツアー2日目です。
今日から伊豫の国、愛媛県にはいりました。40番観自在寺から43番明石寺の4ヶ寺を参りました。
第40番 観自在寺
本尊は薬師如来。
807年に空海によって開かれ、本尊の薬師如来、脇持の阿弥陀如来、十一面観世音菩薩は空海が刻んだと伝えられている。一時は七堂伽藍を持ち四十の末寺を有したが、火災で消失。1678年に再建された。本堂は昭和34年に焼失し、その後建立されている。
山門は総欅造の仁王門 第1番札所より最も離れていることから「四国霊場の裏関所」と呼ばれているそうです。 足摺の宿から2時間ほどかかったでしょうか。
第41番 龍光寺
本尊は十一面観音。
807年、空海が出会った白髪の老人が五穀大明神の化身と悟り、稲荷明神像を刻んで安置。本地仏として十一面観世音菩薩などを刻んで開基したという。 山門は無い。
神仏習合の寺として、三間の稲荷として親しまれた。神仏分離で旧本堂は稲荷社とされ、現在の本堂は新たに建立されたものであるとあります。ここが入り口です。鳥居が見えますね。
第42番 仏木寺
本尊は大日如来。
807年、空海がこの地で唐を離れる際に有縁の地を求めて東に向かって投げた宝珠が楠の大樹にかかっているのを見つけ、霊地であると悟り楠木で大日如来を刻んで開創したという。
山門は重層の仁王門。
出来立てで、まだ作業が行われていて、この門をくぐることは出来ませんでした。
空海が牛の背に乗ってこの地に至ったというところから家畜守護の寺とされているとあります。
第43番 明石寺(本来は「あげいしじ」だが、現在は「めいせきじ」と呼ぶ)
本尊は千手観世音菩薩。
6世紀、正澄上人が唐からの渡来仏である千手観世音菩薩を祀るため創建したというが、史実とは言えず、起源は不明。822年に空海が再興したという。
山門は単層の仁王門。
午後3時半頃にはお参りを終え、帰路に着きました。やはり効率は悪いですね。
これで全行程の約半分です。
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6月下旬、この回は高知県西部と愛媛県西部を回りました。遠いので、一泊二日の行程です。37番岩本時から43番明石寺までの7ヶ寺を参りました。
一日目は37番岩本寺、38番金剛福寺、39番延光寺の3ヶ寺でした。これで、高知県が終了です。
第37番 岩本寺
本尊は不動明王、聖観世音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来、地蔵菩薩の五仏と多い。
天平年間(729−749年)に行基が開創した七福寺が起源とされる。弘仁年間(810−824年)に空海が五社・五寺からなる福円満寺へと発展させた。天正年間(1573−1592年)に焼失。一条氏によって再興し現在の名称に改められる。明治初期には廃仏毀釈により廃寺となったが、明治22年(1889年)に復興された。
山門は仁王門。
本堂は1978年に新築されたのですが、天井には画家や一般市民が書いた575枚の天井絵が飾られているのだそうです。面白いことに中に微笑むマリリン・モンローがあります。
岡山を朝7時に出発し、到着したのは昼前でした。バスの中で昼食です。次に、39番を先に参ったのですが、ここでは、順に掲載します。
第38番 金剛福寺
本尊は千手観世音菩薩
822年に空海が、三面千手観世音菩薩を刻んで開創したという。歴代天皇の祈願所とされたほか、源氏の信仰が篤かった。平安時代後期には、後深草天皇の女御の使者や和泉式部なども参詣しているという。鎌倉時代後期には南仏上人が院主となって再興したと伝えられる。室町時代には一条家の庇護を受けた。戦国期に一時荒廃したが江戸時代に入って、土佐藩主山内忠義が再興した。
山門は仁王門。
足摺岬にほど近いばしょにあり、 蹉跎山(さだざん)、補陀洛院(ふだらくいん)と号するが、「蹉」も「跎」もともに「つまづく」の意味で、この地が難所であったことを示しているのだそうです。
この後、宿に入りました。杖を洗い、部屋に荷物を降ろし、入浴。食事の後、同室の方達と少し話をして、何時になく早く床につきました。
第39番 延光寺
本尊は薬師如来。
724年に行基が薬師如来を刻んで開創。当初は亀鶴山施薬院宝光寺と称したという。その後、空海が再興、脇侍の日光・月光菩薩を刻んで安置。また、眼病に霊験のある「目洗い井戸」を掘ったといわれる。伝説によれば911年に赤い亀が境内にある池からいなくなったが、やがて銅の梵鐘を背負って竜宮城から戻ってきた。そこで現在の山号、寺号に改めたという。 山門は単層の仁王門。
赤い亀が竜宮城より持ち帰ったとう梵鐘は高さ33cmの小型の鐘で、延喜11年の銘があり、重要異文化材だそうです。
今日はここまでにします。
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先日のつづきです。
第八十五番 八栗寺
本尊は聖観世音菩薩。
屋島の東、源平の古戦場を挟み五剣山(375m)の8合目にあります。
空海がここで虚空蔵求聞持法を収め、後(829年)に再訪し開基したということです。
山門は仁王門。
空海は唐へ留学する前に、再度訪れ、仏教を学ぶ念願が叶うかどうかを試すために8個の焼き栗を植えた。芽の出るはずない焼き栗が芽吹いたことから八栗寺へ改名したとのこと。この寺も長宗我部元親により全焼し、江戸時代に無辺上人や高松藩主松平頼重により再興、弘法大師作の聖観自在菩薩を本尊として安置した、とあります。
私たちはケーブルカーで登りました。
第八十六番 志度寺
本尊は 十一面観音。
創建は626年とされている。
山門は仁王門。国指定重要文化財となっています。
志度浦にたどり着いた霊木を凡薗子尼(おおしそのこに)が草庵へ持ち帰り安置し、その霊木から本尊(十一面観音)を作り、堂宇が建立されたという。681年には藤原不比等が増築し、「志度道場」として名づけたという。室町時代には繁栄するが、その後、戦乱により荒廃。生駒親正による支援などを経て、1671年、高松藩主松平氏により再興された。
能楽でも詠まれる藤原家にまつわる悲話があるそうで、藤原房前が母のために建立したと言われる「海士の墓」が並んでいます。
第八十七番 長尾寺
本尊は聖観世音菩薩。
739年に行基により開基。
山門は仁王門。
空海が年頭7日目の夜に護摩符を丘の上より人々に投げ与えたといわれ、毎年1月7日の「福奪い」として今に伝わっている。825年、唐より帰朝した弘法大師によって霊場と定められた。幾度かの兵火により堂宇は失われたが、その都度歴代藩主によって再建されている。
静御前が源義経と別れた後、ここで得度したという。
第八十八番 大窪寺
とうとう最後です。
本尊は薬師如来。
養老年間(717- 724年)に行基が開基し、弘仁年間(810 - 823年)に空海が奥の院の岩窟で虚空蔵求聞持法を修め、薬師如来を刻んで安置したとされている。
山門は仁王門。
四国遍路の長旅を終えた遍路たちは笠や金剛杖をこの寺に納める人も多いとのことです。また古くから女性の登山も許された札所で「女人高野」とも呼ばれるそうです。
結願です。1年3ヶ月。長かったような、短かったような気がします。バスツアーではありましたが、八十八ヶ所を回りきることが出来安堵の気分です。年明けに、高野山へ参り、一連のお参りが終了します。また、続いて、巡礼する人も居られるようでした。来年は閏年で「逆打ち」(八十八番から逆に巡礼)の年なのだそうです。なんでも、御利益が倍、とか。
まあ、又巡るのであれば、別の方法で行きたいと思います。 |



