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今朝の朝日新聞に、
高橋源一郎の短文が載っていた。
「おやじのせなか」というコラムである。
見出しのように大写しされた横顔は、
年相応に人生の陰影が現われていて、
それまで同い年でありながら、
いつまでも若作りだと癪に障っていたものだから、
どこか、よしよしと肯いてしまうところがあった。
(僕は、狭量な俗物です―笑)
彼は、大学の一年先輩である。
もちろん、深く知り合ったわけではないけれど、
彼のお役を後輩として引き継いだ因縁から、
何だか気にかかる存在ではあった。
もっとも、入学して間もなく、
すっかり大学に嫌気がさしてしまった僕は、
かっこよく言えば放浪の旅、
実際にはエスケープの旅に出てしまったので
彼との関係もそれきりとなった。
二年ほどして大学に戻ってみると、
彼の姿は、もうキャンバスになかった。
彼が作家になったと聞いたのは、
それから十数年たってからだ。
さらに、彼の著した小説を読んだのは、
その時から数年経ったあとだった。
その文中で、彼が一時期失語症であったことを知った。
自分自身、言葉が出せなくなった苦しい期間があったので、
単純な僕は、たちまち彼に親近感を抱いてしまった。
それからは、彼が出す書物を、ほとんど読むようにしてきた。
その度に、……いやはや何とも疲れ果てた(笑)
とは言え、その節操ないストーリー展開や、
てんこ盛りされたパロディーのオンパレードに辟易としながらも、
その背後に、何だか哀しげで必死な彼の眼差しを感じてしまうと、
どうにもやめられない、止まらない、
悪癖を繰り返すように、せっせと読み続けてきた。
一概には言えないだろうけれど、源一郎の書く物語は、
失語症に陥った人物の独白に思えてならない。
言葉を失ったものが、
社会と貸し借り無しのコミュニケートをとろうとすると、
どうも今まで使い慣れてきた言語を、
根底から組み直さなければならない必要に迫られる。
僕自身の体験からは、そんな感じがする。
言葉を失うということは、言語の根幹に関わることなのだ。
吉本隆明流に言わせてもらえれば、
言語のもつ「自己表出」と「指示表出」の乖離。
先日、あるTV番組で、吉本は、「自己表出」と、
「指示表出」の違いを分かりやすいモデルで説明していた。
ここに一本のバラの花が在ったとして、
「ああ、きれいだな」と独り言したとすれば、
それは「自己表出」的言語。
隣りにどなたかいて、「ねぇねぇ、これきれいだね」
と語りかけたら、「指示表出」的言語。
もちろん、失語症とは、後者の言葉を失うことにある。
すぐに分かることは、
「指示表出」には、「自己表出」には無い、
ある種のエネルギーが必要だということだ。
ものの概念や、思想といったものを支えている何か。
アイデンティティーということなのだろうか?
少し違う気もする。
それが欠けてしまうと、根拠を失った言葉は、
発することが出来なくなる。
世界は意味を失い、語ることの無意味さばかりが広がる。
僕の場合、それは、喪失感というものと酷似していた。
源一郎の心の中を正確につかみ取る手だてなど無いけれど、
彼の小説から推し量れるものは、
自虐的に破壊し続ける言葉の洪水の中で、
わずかばかり顔を覗かせる
社会とコミュニケートしたいという
彼の切実な願いであるような気がする。
ナンセンス極まりない文章なのに、
どこかひきつけられてしまうのは、
その辺りが原因しているのだろう。
それにしても、「おやじのせなか」……
彼に対するイメージを覆されてしまった。
思い込みの激しい僕は、
学生時代の彼から、何の苦労も無いボンボン育ち、
「知」ばかりを食らって生きられる、
とんでもない優男だと思っていたのだけれど、
あにはからんや、かなりヘヴィー級な生い立ちである。
まぁ、人生なんてものは、喜劇的ドラマと同じ量だけ、
悲劇的ドラマも繰り広げられるものだ。
しかし、彼に関しては予想外だった。
ただ一点、問題があるとすれば、
「その後、一度だけサシで飲んだことがあります。
店の場所も何を話したかも忘れたけど、
珍しくつぶれた僕をおぶって不自由な足で階段を下りる
父の背だけはおぼえています」(「おやじのせなか」より)
というくだりだ。
父親と酒を酌み交わしたこともなければ、
まして、その背中に負ぶさったことなど皆無な僕としては、
かなり癪に障る。
なにせ、狭量な俗物ときている(笑)
それなのに、また彼の『さようなら、ギャングたち』や
『ゴーストバスターズ』を読み直してみたくなったのは、
何故なのだろう?
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