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「その時」の始まりを恐れていながら、「その時」の来襲を、どこかで受け入れていたのかもしれない。とつぜん、夜の闇に甲高い空襲警報のサイレンが鳴り渡ると、「その時」は、約束された斧となり、僕らの頭上に振り下ろされた。祭り会場はクモの子を散らすような騒ぎになった。それまで、華やいだ気分ひとつに包まれていたものが、てんでに千切れ、右往左往している。僕は、混乱する輪の中へ飛び込んだ。とにかく、靖子を見つけなくてはいけない。逃げ惑う人たちに何度か突き飛ばされながら、やぐらの傍まで来てみると、彼女はそこに、何だかポカンとして、突っ立っていた。僕は、その手をわしづかみ、闇雲に走り出した。頭には、あのずい道のことしかなかった。あそこまでたどり着ければ、助かる。無我夢中で走った。「下駄が新しいから、歩きづらい」と言っていたのが、チラっと頭をよぎったけれど、そんなことは、かまっていられない。もし走れなくなったら、僕がおぶえばいい。ところが、彼女は、何も言わずについてくる。「どうしたの? どこへ行くの?」と、問いかけてこないのは、不思議といえば不思議だったけれど、「それでいいんだ」という思いがした。「だから、助かる」という確信もあった。靖子の荒い息遣いが、何よりも、全てを了解している証拠だった。
空襲警報のサイレンは、ますます急を告げ、叫び声や、わめき声がいっしょくたになって、ワァーン、ワァーンと響く。やがて、頭上を圧するように、B29の爆音が近づいてきた。辺りを鉛色一色に塗りつぶす不気味な轟きだった。
(この手さえ離さなければ、やっちゃんと一緒に、「今」へ飛び込める)
淡い月の光の中で、本物とも、影とも見分けがつかない物たちが、現われたり、消えたりした。橋も渡った。草いきれのするあぜ道を、横切った。背後から気持ちの悪い金属音が、立て続けに聞こえた。何かが落下する音。まるで、夜空を引き裂いて登場するデーモン。白い牙がヒュルヒュルとうなり、カッと開いた口の奥から真っ赤な舌がのぞいている――爆弾と焼夷弾だ。もちろん、その音は聞いたことなどなかったけれど、僕には、すぐ分かった。数秒後、腹に響く炸裂音と共に、火柱が上がった。もう一刻の猶予もできない。
気付くと、泣きながら走っていた。涙が頬を横に伝って、飛び散った。いまさらながら、自分の不甲斐なさが腹立たしかった。「泣いたって、何も変わりゃあしない……」口の中で、お茂さんの言葉を呪文のように唱えた。僕らは、希望に向かって走っているんじゃないのか? (二人とも「今」へは辿りつけないかもしれない)そんな不吉な思いは幾度も襲ってきたけれど、それ以上に、靖子といられる喜びが泉の如く心を満たした。
木立のすき間から、用水池が見えた。表面は、油を流したみたいに鈍く光っている。あそこを右に曲がれば、ずい道はすぐそこにある。ここまで来れば、もう九分九厘、時間の壁は越えられると思った。その時、遠くの火柱とは違う不自然な明るさを、近くに感じた。振り返ると、靖子の足元で、小さな炎が燃え上がっている。一瞬、何が起きたか理解できなかった。そんなはずはない。駆け抜けたところに、火の手は上がっていなかった。僕らは、上手く潜り抜けてきたはずだ。それなのに彼女の足元が、燃えている。信じられない光景だった。自在に舌を伸ばす炎は、すでに浴衣の裾まで、燃え広がっていた。僕は動転してしまい、何度も素手で炎をつかまえようとした。
「やっちゃん。燃えてるぞ。消すんだ。早く消すんだ」
それなのに、返事がない。顔は、能面のようで表情がなくなっていた。
(やっちゃん。何かしゃべってくれ。「怖い」でも、「助けて」でもいい。何でそんなに静かなんだ。お願いだ。お願いだから、僕に何かしゃべってください)
じっさい、この炎には尋常でないものがあった。さっきから手で触れているのに、ちっとも熱さを感じない。そのうえ、炎に照らし出された砂利道――それまで、しっかり足の裏を支えていたはずの砂利道が、だんだんと透きとおり始めている。何てこった。点々と散らばる小石も、道端を縁取る青々とした夏草も、薄い上皮だけを残し、中身が無くなっている。靖子の世界が、消えかかっていた。そこから覗き込める砂利道の底は、何度も、何度も黒を塗り重ねたような真っ暗闇が支配していた。まるで足元に広がる奈落。B29 よりもっと恐ろしい敵が、眼前に立ちふさがっていることを知った。それは、彼女をとらえ、向こうの世界に連れ去ろうとしている。負けるものか。靖子を右の腕に抱きかかえた。こうすれば、いかな魔王でも、二人を引き離すことはできまい。やっちゃんと僕は、一心同体だ。ずい道の入り口が、見えてきた。あとひと息でいい。ここさえ抜ければ、彼女の未来が待ち受けている……
しかし、そんな願いをあざ笑うように、靖子を包む炎は、彼女の胸や腕までも焼き尽くしていった。過去は、少しずつ、少しずつ、煙りになって夜空へと消えた。
二人を引き離そうとする非情な力に、僕は懸命に呼びかけた。
「お願いします。やっちゃんをこのまま、僕と一緒に行かせてください。僕の住む今の世界に、行かせてください。僕がそれに値しない人間なら、一生懸命変わりますから。許してもらえるような人間になりますから。どうか、一緒に行かせてください。母さんに、生意気な口答えはしません。朝は、ひとりで起きます。歯も、毎日欠かさず磨きます。許してくれるならば、兄さんたちと、喧嘩もしません。すぐすねて、他人(ひと)のせいにしません。宿題を忘れても、平気でいたりしません。買い食いもしません。嘘もつきません。お願いです。このつないだ手を、引き離さないでください。やっちゃんを、僕の傍にいさせてください。やっちゃんに、未来をください」
炎は益々勢いを強め、靖子の顔の輪郭をも飲み込もうとしていた。その中で、あの黒曜石の瞳だけが、僕とつながる唯一の証のように輝いていた。そしてその時、彼女は、仄かに笑った。揺らめく炎の中で、確かに笑った。
「りょうちゃん、ありがとう。りょうちゃんのこと、けして忘れない」
それが、靖子と僕が交わした最後の言葉だった。
その刹那、激しい力で突き飛ばされると、僕は不覚にも気を失ってしまった。
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十年目の返信
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