窯ぐれ日記

こともなき世を面白く・・・

幽霊君は、友だち

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幽霊君は、友だち―6

外へ出てみると、十人ほどのクラスメイトたちが、インサイドやアウトサイドのパス練習をしていた。サッカー大会まで、あと二十日もない。こんな初歩中の初歩のことしていて、だいじょうぶなのかな? ちょっと心配になった。もっと試合形式の練習をした方がいい。たとえばポジションを考えたパス回しだったり、ワンツー・アンド・シュート練習だったり……もちろん新米の僕は、言い出すことなんて出来ない。三つのグループに分かれて、黙々とボールを蹴り合っていた。そのうち、単純なくり返しに飽きてしまったのか、チューがまたさわぎ始めた。
「ねっねっねー。つまんなくねぇ。もっとさ、かっこいい練習しようよ。鹿内オーシャンズのノッコさんがチームメイトなんだぜ、なんかさ、いいのないの。ロナウドや、メッシがやってるやつ」
 アホまる出しだけど、こんな時にはありがたい。みんなも、「そうだそうだ、ノッコなんかないの?」とか、「ノッコのやってた練習すればさ、強くなれるよ」なんて言い合っている。いつの間にか、「矢野くん」から「ノッコ」になっていた。そう呼ばれるたび、お尻のあたりがむずむずするけど、これで、少しは仲間入りできたんだと思う。どんなにこばまれても、今の僕は、多田小学校、六年二組の矢野健太だ。もう、中神小にもどることはできない。
「そうだなぁ」ちょっと考えるふりをしてから、
「あのさっ、二対二でボールの取りっこしない。ボール持ってる方が、オフェンスで、ボールうばう方が、ディフェンスね。パスしたり、ドリブルしたりして、相手に取られないようにする。これけっこう、試合のとき使えるんだ」と、言ってみる。
「ノッコ、それいい、いい。オフェンスに、ディフェンスだってさ。くー、かっこいい。オレってほらムードで動くタイプだから、やっぱ英語使ってくれないとだめだっつーの」
チューがまき散らす雑音はほうっておいて、僕らは、さっそく取りかかった。「二対二」は、簡単なようでいて難しい。それに、かなりハードだ。敵が目の前でじゃましているし、その網をうまくかいくぐったとしても、もう一人の敵が、パスを渡す味方にベッタリくっ付いて離れない。それだからまた、この二人をうまくかわして、パスできたときの快感は最高だ。やり出すと夢中になる。十分間ほどボールを回していると、汗ぐっしょりになった。やっぱり、サッカーっていい。僕の周りにあるのは、雲母 のようにキラキラした朝の光と、できたてのさわやかな風と、追いかける一つのボールと、そして、新しい仲間……「神谷の席」でこうむったいやな気分は、跡かたもなく消えていた。やっぱり、サッカーっていい。チューのやつも、むだ口をたたかないでボールに食らいついている。というより、「たたく」余裕がない。動きはめちゃくちゃだけど、スピードはあるみたいだ。メッシみたいにはなれなかったとしても、「義男だから、よっし(良っし?)」ぐらいは言ってやれそうな気がする。
始業のチャイムが鳴って教室へもどるとき、
「ノッコ、こんどオレにクライフターン教えてくれよ」と、肩をパンパンたたきながら、じょうきげんのチューが言った。おいおい、三年間鹿内オーシャンズ・ジュニアに入っていた僕でさえ、とてもマスターできない難しいテクニックなんだ。教えられわけないだろ。と思ったけど、「ああ、そのうちな」と答えておいた。その横で、山田くんがていねいに額の汗をふき取っている。最初会ったときふにゃっとして見えたのは、山田くんの身体が、とても柔らかいからだと分かった。柔らかさは、一つの武器だ。うまく使えば、球ぎわすれすれのボールだって、奪い取ることもできる。
「矢野くん、今日の四時間目の体育は、一組との練習試合なんだ。楽しみだね」
「ほんと? 一組って強いの?」
「どうかな。去年は、僕たちが勝った。六年になってからは、まだやっていないから……でも、神谷んのポジションに、矢野くんが入ってくれれば、そんなに違わないんじゃないかなぁ」
 また、神谷だ。ひとこと言っておくけど、僕は鹿内オーシャンズ・ジュニアのレギュラーだったんだぜ。比べて欲しくない。
「そういえばさ、良介、出てこなかったな」
 みんなからヒョロノって呼ばれている、のっぽの平野くんが言った。
「ああ、変だよね。今日、だいたいのポジション、決めるって言ってたのに……どうしちゃったんだろ?」
 キーパーの「タカヤン」こと高杉くんも心配している。
「ビビッたんじゃねーの。ノッコに負けそうでさ。だいたい、良介のやつキャプテンのくせに無責任だよ。夏休みが終わってから、ほとんど練習してないじゃん」
 チューが、ずけずけと言う。ほんとにそうだ。「神谷の席」なんて書いているヒマがあったら、練習の面倒みたほうがいい。そう思うのといっしょに、やっぱりあいつがキャプテンだったのかと、少し気持ちが重たくなった。(つづく)

幽霊君は、友だち―5

 教室に入ると、もう、大下マリちゃんは来ていた。
「おはよう」はずかしそうに、にっこり笑った。いいな。やっぱりいい。サラサラの髪は肩まであり、色白で、目や鼻や口が、子ウサギみたいに小さくまとまっている。背は低いし、顔も幼いから、五年生、いや四年生って言ってもおかしくない。美奈子とは、おお違いだ。こんなマリちゃんも、ある日とつぜん背がずんずん伸びて……美奈子みたいに、わけの分からない泣き方を、するようになるんだろうか。そんなことを思いながらイスに座ろうとしたら、そこに、一枚のコピー用紙がはり付けてあった。へたくそなマジックの文字で、「神谷の席」って書いてある。背中でマリちゃんが、「あっ」と小さく叫んだ。「なんなのさ、これ?」だれに言うでもなくつぶやいた時、マリちゃんの手が後ろからにゅっと伸びてきて、へたくそな文字をはがし取った。マリちゃんにしては、ずいぶん乱暴なことをする。「あれっ」とふり返ってみると、今にも泣き出しそうなマリちゃんがいた。
「神谷の席って、なんなの?」
 聞いても返事が返ってこない。
「神谷って、人の名前?」
 ようやく、「うん」とうなずいてから、
「神谷くんね、夏休みに死んじゃった」と、言った。
「えっ、死んじゃったって、あの 死んじゃった?」
 なんてバカなことを聞いているんだろう、僕は。
「そう、死んじゃったって、あの 死んじゃった」
 マリちゃんまで、変になっている。
「矢野くん、大川の土手を歩いて学校に来るでしょう?」
「ああ」
「その途中にね、大名淵っていう、とっても川の深くなったところがあるの」
 たしか登校途中で、そんな名前を耳にした。
「そこで、おぼれて死んじゃった。とつぜんだったでしょう、なんだかウソみたいな気がした。この間まで元気にサッカーボール追いかけてたのに、給食のとき、良介くんと牛乳の早飲みしてたのに、授業中に、パラパラマンガ作ってみせてくれたのに……あたし、となりの席だったから、そんな神谷くんがいなくなったなんて、信じられなかった。だって、転校したり、病気で入院してるんじゃないもんね。さがしたって、どこにもいないんだもんね。もう会えないんだもんね。それって、とっても変。みんなも同じだと思う。神谷くんの席って、そういうことなの」
 マリちゃんの話を聞きながら、だんだんムシャクシャしてきた。
(そういうことって、どういうこと? そりゃぁ、神谷ってやつはかわいそうだけどさ、僕だって、うれしくってこの学校に転校したんじゃないよ。ガンちゃんや、美奈子や、みんなと別れたくなんかなかったし、何より鹿内オーシャンズ・ジュニアをやめたくなかった。それに、そいつが死んだのは、僕のせいでも何でもない)
 わけもなく泣きたくなることがあるように、わけもなく腹が立つことってある。とにかく、とつぜん沈没してしまうこのクラスのなぞも、だれが、「神谷の席」って書いたのかも、分かった気がした。前の方から、ハリネズミのそうぞうしい声がした。
「山ちゃん、なっ、なっ、お願い。算数の宿題見せて。神さま、仏さま、山ちゃんさま」
 頭の上で、手をこすり合わせている。クソバエみたいなやつだ。僕はいやな気持ちをけ飛ばしたくて、
「山田くん、サッカーに行こうよ」と、声をかけた。
「ノッコからもお願いして。たのむっち」
 チューのなさけない声が、返ってきた。マリちゃんは、どうしていいか分からないような顔をしながら、さっきのコピー用紙を、たたんだり開いたり、たたんだり開いたりしている。(つづく)
 

幽霊君は友だち―4

                                 
 
 
 
 次の日、学校へ来てみて、びっくりしてしまった。校庭が、鹿内ゴールデン街の歩行者天国状態になっている。その中を、いくつものサッカーボールが、右へ、左へ飛びかっていた。グラウンドのまん中へんでは、上級生と思われる数グループが陣地を取って、パスを回したり、ドリブルで抜く練習をしている。右側のゴールポストではペナルティーキック、左側のゴールポストではキーパーの特訓中みたいだ。上級生が取り残したすき間に、下級生たちのちょこまかと動き回る姿も見える。「パスを回せ!」「ヘッディング、ヘッディング!」「シュート決めろよ!」なんてわめき声もいせいよく響いて、身体が自然にムズムズしてきた。久しぶりに見るサッカーだ。この前ボールにさわったのは、ガンちゃんたちとお別れ試合をしたときだった。すべてが終了してから、ガンちゃんは、「オレのこと忘れるなよ。また会おうな」と言って、手を差し出した。僕は、その手をギュッとにぎり返しながら、「うん」としか答えられなかった。涙が出そうになった……いや、ほんとはちょっとこぼれた。だから、目にゴミが入ったふりをしてごまかした。あれ、ガンちゃんにはバレていたかもしれない。水曜日の今日は、二時から鹿内オーシャンズ・ジュニアの練習がある。ガンちゃんは、僕に代わる相棒を、見つけられただろうか? 見つかれば、いいなと思う。見つからなければ、いいなと思う。なんだかこの頃、僕の心はいつも二つに分かれて、ゆらゆらしている。
 そんなことをぼんやり考えていたら、いきなり背中をどやされた。
「矢野くん、お・は・よ」
 山田くんだ。昨日、多田小学校の決まりをいろいろ教えてくれた。太っているわけでもないのに、なんだかふにゃっとした感じがする。親切そうな小さな目をショボショボさせながら、ゆっくりとしゃべる。今までの友達にはいなかったタイプだ。明日のことを話していても、おとといあたりから返事が返ってくるような気がした。
「あっ、おはよ。昨日は、ありがとう。それにしても、すごいね」
「何が?」
「校庭」
「ああ、広いだろう。野球だったら、二面とれる」
「そうじゃなくて、この人数」
「人数ね、ほんとにすごいなぁ。ほとんど全校の皆が出てるんじゃない」
ひとごとのように言う。僕は、ちょっといらいらしながら、(聞きたいのは、そんなことじゃない)と、心の中でつぶやいた。
「二組は、どこかで練習してるの?」
「うーん」のんきそうにあたりを見回して、山田くんは言った。
「ほら、あそこ。だいたいいつも、鉄棒のそばなんだ」
 そっちへ向かって、「おーい」と手を振ると、ニ、三人が、手をあげて答えた。
「山ちゃん、早く出て来いよ」なんて声もする。「オーケー」って合図をバンザイのかっこうでかえし、僕らは昇降口にいそいだ。げた箱にクツを入れている時、尻をペンペンとはたかれた。(またかよ)ふり返ると、髪の毛がツンツンしていて、目玉がキョロキョロしていて、前歯の二本が、ニョキッとつき出した、まるでハリネズミそっくりのちびすけが立っていた。昨日、「納豆にマヨネーズかけて食べたことある?」って聞いてきた変なやつ。
「ノッコ、おっはー」
 ノッコって、だれだよ。ひょっとして、僕のこと?
「ああ、ノッコいい。矢野くんだから、矢野ッコ、ノッコね。なるほどなぁ」
 山田くんが、のんびり感心している。
「ねっ、ねっ、ね。いいだろ。オレって、あだ名付ける天才。オレは、チューね」(やっぱりな)
「中山義男だから、チュー。なんだかあたりまえで、つまんねーの。もうちっとひねり欲しいけどさ、まっ、自分のあだ名は、自分で付けられないから、いた仕方ごじゃりません」
 どうでもいいけど、良くしゃべる。今まで山田くんのスローペースに合わせていたものだから、ちょっと目まいがする。
「んでさー、ノッコ。トンカツにジャム付けて食ったことある?」(またかよ)
「ないけど」
「こんど、ぜってー試してごらん。うまいんだってこれが。ほんと、ほんと、ほんとだってばさー」
 うるさいって、「五月蠅(はえ)」って書くけど、きっとこいつの祖先は、ハエだ。それも、とびっきり元気なクソバエ。(つづく)

幽霊君は、友だち―3

「矢野くんはね、お父さんの仕事のつごうで、この町に越してきたの」
 みどり先生の声が、下を向いている僕の頭の上をす通りする。
「前は、鹿内(しかない)市に住んでいたんだよ。
そこに鹿内オーシャンズっていうJリーグのサッカークラブあるでしょう。
矢野くんは、そのクラブにある小学生チームのレギュラーだったんだぞー」
「おお」とか、「すげぇ」って声が、
教室のあちらこちらで、わき上がった。
僕は、ちょっとうれしくなって、頭を少し持ち上げた。
サザエさんも、そう悪くはない。
「ちぇっ、鹿内オーシャンズね。しがないおっさんず、じゃねぇの」
 また、あいつだ。
みどり先生は、「こら」ってにが笑いをうかべながら、話をつづけた。
「もうじき、校内サッカー大会があるでしょ。
矢野くんにも、がんばってもらおうね。
今年は、二組ぜったいブイ。ガンバレ、ガンバレ、にーくーみっ」
 顔の前で、指で作ったVの字をゆらゆらしてみせた。
ほんとに、サザエさんそっくりだ。
その時、また天邪鬼の声がした。
さっきとはちがって、せっぱつまった悲鳴みたいに聞こえる。
「あいつがいなくちゃ、だめだ! あいつがいなくちゃ、勝てっこない!
勝ったって、おもしろくない」
 とたんに、教室中が深い海のように、静まりかえった。
せっかく潜水艦から脱出できそうだったのに、
今度はみんなの方が、潜水艦よりもっともっと深い海の底に、
沈んでしまったみたいだ。
サザエさんのVサインまで、風がない時の旗になって、
だらりと下がっている。
なんなんだ、このクラスは? とつぜん、沈没。
?(ハテナ)が、うずまいた。それに、あいつって、だれ?……
キョロキョロとあたりを見回してみれば、
シクシクと泣き出した女の子もいる。
先生は、大きな目を開いて、教室の後ろにはられた
「六年二組、わんぱくクラス」なんて標語を見ているけど、
ほんとは何も見ていない、きっと。
なんだか僕のまわりで、わけの分からないことばかりが起こる。
機関銃の連射みたいにしゃべる先生はいるし、
鹿内オーシャンズを、「しがないおっさんず」って言う天邪鬼はいるし、
とつぜん海の底に沈没するクラスはあるし……
それに、だれだか分からないあいつ
 チョンチョンと左ひじをつつかれ横を向くと、
そこに少しこまったようなマリちゃんの顔があった。
「なに?」
「あの、あのー」ちょっと言葉をつまらせながら、
「矢野くんて、すごい。サッカー、がんばってね」
 やっとそれだけ言うと、
半分しか開いていないどびらみたいなさびしい顔で笑った。
 いい。マリちゃんて、いい。美奈子の次ぐらいに、いい。
このクラスでちゃんとしているのは、
マリちゃんぐらいしかいないような気がした。
でもきっと美奈子なら、こんな時にはもっと豪華に笑ってくれて、
ウインクまでおまけしてくれたかもしれない。
そう思うと、また泣きそうになった。今度は、わけが分からない涙……
 
 沈没したクラスは、すぐに浮かび上がった。
それから放課後まで、中神小とたいして違わない一日がすぎた。
学校なんて、たいていそんなもんだ。
いつもと変わらない「勉強、トイレ、勉強、遊び、勉強、トイレ、
勉強、給食、勉強、そしておしまいの会」を重ねたサンドイッチ。
いろいろあっても、ちゃんと元どおりになる。
休み時間が来るたびに、何人かの男子が集まってきては、
「どこに住んでるの?」とか、「サッカーのポジションは?」とか、
「好きなゲーム・ソフトは何?」とか、僕を質問ぜめにした。
中には、「納豆にさ、マヨネーズかけたことある?」なんて、
へんてこりんなこと聞くやつもいた。
ちょっとこれ、マンガに出てくる
「転校生登場」の場面とそっくりじゃない? 
ぼくは、ようやくホッとできた。
でも……あいつは、無視している。かんぜんに、無視している。
知らんぷりを決めこんでいるくせに、
「天邪鬼」こと良介からは、針みたいなビームが、
僕の方へビシバシ飛んできた。
どうしてそうなるのか分からなかったけど、
そっちがその気なら、こっちだってその気だ。
いずれ、あいつとは一戦まじえなくちゃならないだろう。
そんな気がした。(つづく)
美奈子とは、小さいころからずっといっしょだった。家が同じマンションの下の階だったって事もあるし、どういうわけだか、アップル幼稚園でも、中神小でも、クラスがいつも同じだった。小さかったころは、色黒で、ガリガリにやせていて、目玉もギョロギョロしていて、ちょっと『トトロ』に出てくるまっ黒クロスケに似ていた。気が強いくせに、弱虫なものだから、男子にかまわれたりすると、すぐにビービー泣きはじめる。泣きながら、僕の後をくっついて歩いてばかりいた。そのたびに、みんなから「ヒューヒュー、あついね」とか「チューして、なぐさめてやれよ」なんて、ひやかされた。たしか、ガンちゃんと取っ組み合いの一戦をまじえたのも、それが原因だったと思う。ほんとに、めいわくな話だ。そんな美奈子が、五年生の秋ごろから急にでかくなった。あっという間に、背はおいぬくし、おっぱいも……なんだかふくらんでいる。いつの間にか、なさけない妹というより、しっかり者のお姉さんぽくなって、なんとなく話しづらい。それに、まっ黒クロスケだと思っていた目玉も、よくよく見れば少女マンガのヒロインみたいに、パッチリ、キラキラって言えなくもない。笑うとできるえくぼだって、かなりかわいい。僕は、少し変になっちゃったのかもしれない。ビービー泣きながら後を追いかけていた美奈子は、どこかへ消えてしまった。
 あれは、九月の半ば、全校水泳大会が始まる前の日だったと思う。そうじ当番のとき、あいかわらずガンちゃんとふざけ合っていた。そのころ、僕らの定番メニューは、テレビでやっていたスポーツ選手の物まねの物まね。「ブンチャカ、ブンチャブンチャ」と歌いながら、ほうきバットをふりまわしたり、ぞうきんボールでフリーキックを決めるかっこうをした。その日は、「石川遼のドライバー・ショットのまねをしようぜ」ということになって、指のあわせ方はどうだとか、ボールはこう置いて、素振りは二回ね、腰、腰、腰がだいじよ、などとワイワイやり合っていた。
「健ちゃん、いいかげんにしなさいよ! 先生に、言いつけるからね。引っ越すからって、大目に見たりしなからね」
 美奈子のきつい声。かわいくない。これは、いつものことだ。僕らは、ヘラヘラ笑いながら、聞き流していた。美奈子の声は、近づいてくる救急車みたいに、だんだん高くなる。これも、いつものこと。(うるさいなー)と思いながら、心がどんどんくすぐったくなるのは、なぜだろう? そして、しまいに「うっせーんだよ」と言いながら、僕は、ぬれぞうきんボールを、ほうきドライバーで打つまねをした……そのつもりだった。そこが、遼くんとのできの違いで、まねしたつもりのほうきに、ぬれぞうきんがドンピシャリと当たってしまった。ぞうきんは、みごとな放物線をえがいて、美奈子の顔にペシャリ。「何すんのよ!」美奈子が、怖い顔をしてつめよってきた。(しまった)という気持ちがそうさせたのか、僕は思わず両手をつき出してしまった。その手のひらに、こんどは胸のふくらみがグニャリ。(あちゃぁ)ガンちゃんが、ぎょっとした顔で僕らを見た。やってはいけないことって、たしかにある。ただそれが、人によってちょっとずつずれるから、むずかしい。あわてて手を引っこめたけれど、もうおそかった。美奈子はその場にしゃがみこむと、胸をおさえながら声を出さずに泣き始めた。いつものように、「健太、ゆるさないからね!」と、つかみかかって来るものとばかり思っていた。なんで? どうして? まさか泣きだすなんて……かなりびっくりした。僕は、今まで何十回、何百回と、美奈子の泣くすがたを見てきた。でも、そんな泣き方を見るのは、初めてだった。なぐさめようもない、こっちまでが悲しくなるような泣き方だった。
 それっきり、美奈子とは一言もしゃべっていない。引越しの日、母さんから、
「美奈ちゃんに、さよならして来なさい」
 と言われても、無視した。見送りに来てくれたガンちゃんと目が合って、(これでいいんだよな)と、小さくうなづきあった。それが、男というもんだ。(つづく)
 

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