窯ぐれ日記

こともなき世を面白く・・・

十年目の返信

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十年目の返信(完)

読みやすいように、ナンバーどおりにしました。
(完)にした後も、ちょっとずつ手直ししていたのですが、
これでほんとのお終い。

十年目の返信―28

                            
 
 
 
 ここで『十年目の返信』は、終わっていた。ボクは、泣きたいような、笑いたいような、へんてこりんな気持ちにつかまえられた。何かが、ざわざわしている。ジグソーパズルの最後のピースがはめられない、そんな気分だ。高杉亮という人は、今ごろどこで、どうしているだろう? 父さんと同じぐらいの年齢だから、きっとボクぐらいの子供がいて、「べんきょうしろよ」とか、「ゲームはほどほどに」とか、「夜更かしするんじゃないぞ」なんて、小言ばかり言ってるかもしれない。そして、やっちゃんは……
降り注ぐ木漏れ日が、水玉のような細かいうろこ模様を、地面の上にばらまいている。遠くで、昼時を告げるチャイムの音もする。時間がたつのを、すっかり忘れていた。ついでに、釣りのことも、すっかり忘れていた。あれから一度も、水面をよぎる魚の影や、飛び跳ねる水しぶきを思い出さずに、『十年目の返信』を読み切ってしまった。ボクにしてみれば、奇跡に近いことなんだ。
 
お終いのページを閉じ、原稿用紙の束を整えてから、さっきのビニール袋に入れもどした。そのとき、むしょうに祠の中を覗いてみたくなった。もしかしたら、亮の使っていた昭和十九年グッズとやらが、まだ残っているかもしれない。半分ちょうつがいが壊れかけている観音開きの扉を開けると、中はクモの巣だらけの空っぽで、ひとり竜神様が祭られているだけだった。(やっぱりな)ちょっとがっかりしながら、もっと奥に目を凝らす。一段下がった床張りの隅に、ぽつんと一つの塊が置かれていた。それは、竜をかたどった御神体から隠れるようにしてあった。心ある人のお供え物にしては小さすぎるし、かといって、子供のいたずらにしては行儀良すぎる。「おや」っという気持ちのまま、その塊を手にしたとたん、ボクの胸は、雑巾を絞るように締め付けられ、ゾワ、ゾワと、全身が波立った。ほら、暗闇で背中からニュッと捉まれたときみたいに。しばらくの間、手の震えが止まらなかった。だってそいつは、亮が靖子にあげたあの小石と、そっくり同じに見えたんだもの。「雫のような白い石」――間違いはない。どこかが肯く。やっぱり、夢や幻じゃなかった。それにしても、「手に取れば、温かさがしみ出してくる石」そう日記には書いてあった。だとしたら、肌身離さず大切にしていたはずだ。それなのに、ここにあるのはなぜ? 思いもしなかった人に、思いもしなかった場所で出くわしてしまったみたいな、つじつまの合わない目まいを感じた。そんなぐるぐる回る気持ちを落ち着かせたくて、そっと両手に包み込んでみる。手のひらの中で、そいつは、疑いようもなく「ここにいる」と告げていた。折り紙をおったり、スイカを食べたり、ベネチアの風景を眺めたり、夏祭りで踊ったりしたとき、いつも二人と一緒だった直径五センチにも満たない涙型した小石。そのなじんだ温かさの先から、ふいに生々しい息づかいや、喋り方や、仕草や、匂いが立ち上がった。たちまち、一人の少女が現われた。神かけてもいい。それは、本物の靖子だった。出会ったこともないのに、ボクには分かった。黒目がちな瞳の気配が、ボクを見つめる。お日様に焼かれた香ばしいおかっぱ頭の匂いが、鼻をくすぐる。目には見えないけれど、確かにいる……
 
りょうちゃん。ひょっとしたらあの時――炎に包まれながら、「今」をめざしていたあの時、やっちゃんは、ここにやって来れたんじゃないかな。亮という人間のどこかに貼りついて、時代の溝を飛び越えていたんじゃないかな。そして今でも、ベネチアの抜けるような青空の下で君が手を振るのを、ずっと待ち続けているんじゃないかな。
 
微かな風に騒ぎたった木漏れ日の中で、白い小石が、「コクリ」とうなずくように見えた。
        
  
(完)
 
 
―震災で亡くなられた方々のご冥福と、被災された方々の一日も早い復興を祈ります―

十年目の返信―27

                     エピローグ
 
 
大学の帰りに、ビルの谷間から沈む夕日を眺めたとき、夜更けに独り、研究室の片隅で、宇宙の呟きに耳を傾けているとき、ふっと、あの夏のことが蘇る。靖子と過ごした十年前の短い夏の日々が、心に浮かんでくる。三十光年彼方の星が、「今」を瞬くのと同じように、靖子は、時の架け橋を飛び越えて、僕の前に現われた。あれはきっと、どこにも身の置き場所がなかった僕の見た、「永遠」というもののきらめきだったのだろう。それが証拠に、彼女のディテールは、どんどん風化してしまうというのに、あの時一緒にすくった水の冷たさや、つないだ手の温かさは、昨日のことのように、鮮やかなままだ。
 
あれから一度だけ、大木台を訪ねたことがある。高校生になったばかりのころ。どうしても、ペンダントのその後が知りたくなった。彼の地は、あの頃のまま葛の葉が生い繁り、ちっぽけな「しるし」を埋めた場所など、捜し出すのはとても無理に思えた。ところが、講堂の跡地に立ってみると、かつての一場面が、ありありと蘇えってくるみたいで、何となくその場所が分かってしまった。さっそく、掘り起こしてみる。すっかり錆び付き、光沢を失ったペンダントが現われた。何度か蓋を開けようと試みたけれど、錆がまわってしまったのか、かたくなに口を閉ざして開かない。仕方ないので、両手に包み込んだまま、しばらく目を閉じて、じっとしていた。これを埋めたとき、靖子が子ウサギのように食んでいた言葉とは、何だったのだろう? あの二人に語りかけた最後の言葉とは、何だったのだろう? サワサワと風が生まれた。それは、僕の足元から身を起こすと、らせん状にうずを巻いて、台地の四方へと広がっていった。遠くで木々のざわめきが聴こえる。一瞬、瞼の裏にベネチアの街並みが、浮かび上がった。ここは、決して夢や幻なんかじゃなかった。ペンダントは、あの時からずっと、在り続けてくれた。その想いが、心を突き上げてくる。それでもう充分だった。変わらない風景の流れを、今いちど動作でなぞるように、僕は、ペンダントを元あった場所に埋め戻した……
そんな大木台も、数年ほど前に都市化の波に洗われ、今ではすっかり様変わりした。台地をおおい尽くした緑は姿を消して、その上にまばゆいばかりの西洋風住宅が、軒を連ねている。靖子が守りとおしたペンダントの二人や、壁画に描き込まれた遠いベネチアの人々が、その後どうなってしまったのか、もちろん知る由もない。けれど、ほんとに起きてしまった出来事は、消すことなんてできない。彼らが笑い、泣き、そして互いに支えあった暮らしは、どこかにちゃんとある。三十光年の先か、あるいは、もっと彼方に。
 
靖子のおかげで知り合えた横山さんのお宅には、今でも時々お邪魔している。たいていの場合、「過去と今と未来」が混ぜこぜとなったたくさんの蔵書に埋もれて、しばしのタイムトラベルを楽しむ。靖子と、靖子につながる全てを焼失している今、ここは、あの頃の彼女を辿れる数少ない窓口の一つだった。床の間の花も、掛け軸も、掃き出しの窓から眺められる小ぢんまりとした庭の風景も、大木台の残影の中で、みな靖子とつながりあっていた。僕は、頬杖をつく彼女の息遣いを遠くに感じながら、本のページをめくり続ける。
それに飽きると、縁側に出て、横山さんと将棋を指した。最初の頃は、飛車、角落ちでも敵わなかったのに、この頃では、三回に一回ぐらいは、僕が勝つ。「まいった、まいった。悔しいな」と言いながら、彼は余り残念そうでもない。なぜなら、僕らにとって「将棋を指す」ことは、一種儀式みたいなものだからだ。こうして向かい合う二人には、世代の違いや、立場の違いを越えて、いつも涼やかな風が吹き通っている。僕らは、飛車を飛ばし、桂馬を駆けさせながら、多くのことを語り合った。その中から、どれほど人生の機微といったものを学んだか知れない。横山さんは、変わることない生きた記憶、生きた言葉の語り部であり続けてくれた。里子さんは、そんな僕らを、時には「おやおや」といった呆れ顔で見つめながら、やっぱり柔和な目には、いっぱいの笑みをたたえている。そう、彼女は、今でも会うたびに、「まっ、まっ、まっ」と三回叫ぶと、小さな手を叩いて、僕を向かい入れてくれるんだ。ここばかりは、少しも変わらない時間が流れていた。
それから、これはちょっと話しにくいことだけれど、「泣いたって、何も変わりゃあしないよ」――あの教訓は、生かされていない。今でも、僕はよく泣く。でもきっと、そう諭したお茂さんも、僕の知らないところでは溺れるほど泣いていたんじゃないかと思う。そうでなければ、柏手の音が、あんなに小気味良く響くはずはなかった。だから、泣いて、泣き疲れたあとに「泣いたって、何も変わらない」と、一歩前に進むことができればそれでいい。毎度のことながら、自分に都合よく答えを出す性格は、そのままみたいだ。
けっきょく、「ひと夏の不思議な体験」は、誰にも話すことができなかった。横山さんや、里子さんにでさえ……おそらく、これからも話さずに、時を積み重ねてゆくのだろう。
…………………
 
ここまで書いてきて、僕は自分のうかつさにようやく気付いた。返事することばかり夢中で、後のことはまったく考えていなかった。この返信を靖子に届ける方法なんてあるのだろうか? 彼女のもとを訪ねられる配達人なんているのだろうか? 向こう見ずに始めてしまうのは、いつものことだ。ただ相変わらずとはいえ、今度ばかりはかなり難しい。書き上げたものをどうすればいいか、さっぱり見当が付かなかった。
(とりあえず、机の引き出しにしまっておこうか)と、思ったりもした。でも、それはできない。彼女から手渡された「十年後のりょうちゃんへ」は、ずっと重荷になっていたし、(何とかしなくては……)という焦りが、やり残した夏休みの宿題みたいに、まとわり付いて離れなかった。
あのころの靖子は、僕について何も知らなかった。たしかに、正体を明かせない理由はあったけれど、彼女と出会って僕が何を思い、迷い、苦しみ、そしてどう決心したか、伝える努力だけでもしておかなくちゃいけない。いろいろ考えあぐねた末に、僕と彼女を結び付けてくれたずい道のある神社、それも、昭和十九年グッズを隠していた祠に思いあたった。あそこなら、郵便ポストの役ぐらいは、引き受けてくれるかもしれない。もちろん、十分な解決とは言えなかったけれど、その先は、考えないことにした。届けられるかどうかなんて、答えの出るはずがない。僕が飛び込めたように、運良く時代の扉は開くかもしれないし、永遠に閉じられたままかもしれない。とにかく、この便りをあの祠に託してみるだけだ。今のところ、それしか方法は思い浮かばなかった。それにしても、僕と靖子の距離は、遠くへだったってしまった。三十光年の先か、あるいはもっと彼方に。
 
やっちゃん。これが僕からの十年目の返信です。情けないことに、君との約束を全部は果たせなかった。僕が叶えられたのは、今もこうして君を忘れないでいられることだけみたいだ。(つづく)
            

十年目の返信―26

 「その時」の始まりを恐れていながら、「その時」の来襲を、どこかで受け入れていたのかもしれない。とつぜん、夜の闇に甲高い空襲警報のサイレンが鳴り渡ると、「その時」は、約束された斧となり、僕らの頭上に振り下ろされた。祭り会場はクモの子を散らすような騒ぎになった。それまで、華やいだ気分ひとつに包まれていたものが、てんでに千切れ、右往左往している。僕は、混乱する輪の中へ飛び込んだ。とにかく、靖子を見つけなくてはいけない。逃げ惑う人たちに何度か突き飛ばされながら、やぐらの傍まで来てみると、彼女はそこに、何だかポカンとして、突っ立っていた。僕は、その手をわしづかみ、闇雲に走り出した。頭には、あのずい道のことしかなかった。あそこまでたどり着ければ、助かる。無我夢中で走った。「下駄が新しいから、歩きづらい」と言っていたのが、チラっと頭をよぎったけれど、そんなことは、かまっていられない。もし走れなくなったら、僕がおぶえばいい。ところが、彼女は、何も言わずについてくる。「どうしたの? どこへ行くの?」と、問いかけてこないのは、不思議といえば不思議だったけれど、「それでいいんだ」という思いがした。「だから、助かる」という確信もあった。靖子の荒い息遣いが、何よりも、全てを了解している証拠だった。
空襲警報のサイレンは、ますます急を告げ、叫び声や、わめき声がいっしょくたになって、ワァーン、ワァーンと響く。やがて、頭上を圧するように、B29の爆音が近づいてきた。辺りを鉛色一色に塗りつぶす不気味な轟きだった。
(この手さえ離さなければ、やっちゃんと一緒に、「今」へ飛び込める)
淡い月の光の中で、本物とも、影とも見分けがつかない物たちが、現われたり、消えたりした。橋も渡った。草いきれのするあぜ道を、横切った。背後から気持ちの悪い金属音が、立て続けに聞こえた。何かが落下する音。まるで、夜空を引き裂いて登場するデーモン。白い牙がヒュルヒュルとうなり、カッと開いた口の奥から真っ赤な舌がのぞいている――爆弾と焼夷弾だ。もちろん、その音は聞いたことなどなかったけれど、僕には、すぐ分かった。数秒後、腹に響く炸裂音と共に、火柱が上がった。もう一刻の猶予もできない。
気付くと、泣きながら走っていた。涙が頬を横に伝って、飛び散った。いまさらながら、自分の不甲斐なさが腹立たしかった。「泣いたって、何も変わりゃあしない……」口の中で、お茂さんの言葉を呪文のように唱えた。僕らは、希望に向かって走っているんじゃないのか? (二人とも「今」へは辿りつけないかもしれない)そんな不吉な思いは幾度も襲ってきたけれど、それ以上に、靖子といられる喜びが泉の如く心を満たした。
木立のすき間から、用水池が見えた。表面は、油を流したみたいに鈍く光っている。あそこを右に曲がれば、ずい道はすぐそこにある。ここまで来れば、もう九分九厘、時間の壁は越えられると思った。その時、遠くの火柱とは違う不自然な明るさを、近くに感じた。振り返ると、靖子の足元で、小さな炎が燃え上がっている。一瞬、何が起きたか理解できなかった。そんなはずはない。駆け抜けたところに、火の手は上がっていなかった。僕らは、上手く潜り抜けてきたはずだ。それなのに彼女の足元が、燃えている。信じられない光景だった。自在に舌を伸ばす炎は、すでに浴衣の裾まで、燃え広がっていた。僕は動転してしまい、何度も素手で炎をつかまえようとした。
「やっちゃん。燃えてるぞ。消すんだ。早く消すんだ」
それなのに、返事がない。顔は、能面のようで表情がなくなっていた。
(やっちゃん。何かしゃべってくれ。「怖い」でも、「助けて」でもいい。何でそんなに静かなんだ。お願いだ。お願いだから、僕に何かしゃべってください)
じっさい、この炎には尋常でないものがあった。さっきから手で触れているのに、ちっとも熱さを感じない。そのうえ、炎に照らし出された砂利道――それまで、しっかり足の裏を支えていたはずの砂利道が、だんだんと透きとおり始めている。何てこった。点々と散らばる小石も、道端を縁取る青々とした夏草も、薄い上皮だけを残し、中身が無くなっている。靖子の世界が、消えかかっていた。そこから覗き込める砂利道の底は、何度も、何度も黒を塗り重ねたような真っ暗闇が支配していた。まるで足元に広がる奈落。B29 よりもっと恐ろしい敵が、眼前に立ちふさがっていることを知った。それは、彼女をとらえ、向こうの世界に連れ去ろうとしている。負けるものか。靖子を右の腕に抱きかかえた。こうすれば、いかな魔王でも、二人を引き離すことはできまい。やっちゃんと僕は、一心同体だ。ずい道の入り口が、見えてきた。あとひと息でいい。ここさえ抜ければ、彼女の未来が待ち受けている……
しかし、そんな願いをあざ笑うように、靖子を包む炎は、彼女の胸や腕までも焼き尽くしていった。過去は、少しずつ、少しずつ、煙りになって夜空へと消えた。
二人を引き離そうとする非情な力に、僕は懸命に呼びかけた。
「お願いします。やっちゃんをこのまま、僕と一緒に行かせてください。僕の住む今の世界に、行かせてください。僕がそれに値しない人間なら、一生懸命変わりますから。許してもらえるような人間になりますから。どうか、一緒に行かせてください。母さんに、生意気な口答えはしません。朝は、ひとりで起きます。歯も、毎日欠かさず磨きます。許してくれるならば、兄さんたちと、喧嘩もしません。すぐすねて、他人(ひと)のせいにしません。宿題を忘れても、平気でいたりしません。買い食いもしません。嘘もつきません。お願いです。このつないだ手を、引き離さないでください。やっちゃんを、僕の傍にいさせてください。やっちゃんに、未来をください」
炎は益々勢いを強め、靖子の顔の輪郭をも飲み込もうとしていた。その中で、あの黒曜石の瞳だけが、僕とつながる唯一の証のように輝いていた。そしてその時、彼女は、仄かに笑った。揺らめく炎の中で、確かに笑った。
「りょうちゃん、ありがとう。りょうちゃんのこと、けして忘れない」
それが、靖子と僕が交わした最後の言葉だった。
その刹那、激しい力で突き飛ばされると、僕は不覚にも気を失ってしまった。
 
目を覚ましたとき、「今」(神社側)に開いているずい道の前に倒れていた。夜は白み始めていて、頬にあたる朝露の冷たさが心地よかった。「ハッ」として起き上がり、辺りを見回したけれど靖子の姿は見当たらなかった。ずい道の中も覗もいた。僕と靖子の世界を結んでいた、たった一つの道、たった一つの架け橋は、入り口から数メートルのところで閉じられ、ただの洞穴になってしまっていた。もう二度と、会えない。僕は、得体の知れない底なしの寂しさに襲われ、何度も地面へ頭を打ちつけながら泣いた。その時のことだ。自分の右手が、ポケットの中で何かをしっかり握り締めていることに気付いた。余り強くつかんでいたものだから、しびれて指先の感覚がなくなっている。恐る恐る開いたそこには、靖子から手渡された日記帳が、まるで彼女の化身のように小さく丸まっていた。(つづく)

十年目の返信―25

                        十二
 
 
昭和十九年八月××日。その日は、あっけなくやってきた。
ああでもない、こうでもないと、思い煩う僕の気持などお構いもなく、いつもと同じ時間が、いつもと同じ速さで、リズムを刻んだ。靖子とは、六時に祭りの会場で落ち合う約束をした。「それまで、用事がある」と、僕は嘘をついた。とにかく、その瞬間――生と死を分かつわずかな隙間に、全てをかけたかった。そのためには、引き絞った矢のように、その時を待つしかない。
氏神さまの境内には、六時少し前に着いた。参道には、あの日と同じようにいくつかの露店が、店開きの準備を始めていた。もちろん、時が時だけにわずかな軒数しかない。その分、華やぎを懸命に演出しようとする売り子たちの努力が、かえって会場の侘しさを募らせた。店先に並ぶ品々も、「今」とは比べものにならないくらい乏しい。それでも、「贅沢は敵。盆踊りなどもってのほか」とする風潮の中、先祖から変わらず続く盆の行事を、滞りなく行いたいというこの地区の人々の心意気は、伝わってくるものがあった。それに、ここは靖子と初めて出会った場所。あの夜の風景そのままに、香具師のだみ声が飛び交い、アセチレン灯の甘ったるい匂いが、辺りに漂う。あそこの灯篭も、この参道の敷石も、みんな同じだ。ただ一つ違うのは、爆撃を受ける前の本殿が、そこにはまだ、焼失せずにあった。
「一巡りしたんだ」
泣き出したい気持ちで、そう思った。空気を優しく切り裂いて舞っていた靖子の姿が、果てしなく遠くにも、すぐ目と鼻の先にいるみたいにも感じられた。人の思いを閉じ込める残酷な環。靖子が、三十年間廻り続けている時間の環。それを断ち切って、彼女を救い出さなければいけない。身の引き締まる緊張で、少し武者震いがでた。
明るさの残る空に、宵待ちの月がかかっていた。早く出すぎた月は、宵になることを心待ちする。その光は、天に薄紙を貼り付けたみたいで、いかにも頼りなげだ。それは、どこか靖子の身の上にも似ていた。時は容赦なく流れ、人々は、ただそれに翻弄されるばかりだ。宵待ちに生まれてしまった定めを、甘んじて受けなければいけないのか? その無慈悲な流れに、僕は今、くさびを打ち込もうとしている。
(過去を変えるなんて、許されるのだろうか?)
何度も浮かび上がった不安が、再び頭を持ち上げる……いや、あの月だって、時が過ぎれば天頂にこうこうと輝くじゃないか。
 
「りょうちゃん」
背中をたたかれて我に返ると、そこに浴衣姿の靖子がいた。計画を、気取られてはいけない。僕は、どうにか平静を装った。
「ちょっと、早く来すぎちゃったかな。店もまだこれからだね。杏の甘酢漬けが、あるといいんだけど……
「あっ、あたしもそれ好き。でも、この頃あんまり見ないな。豆かすの煎餅とか、麦こがしの練り菓子みたいなもんばっかり。なんだか、がっかりしちゃう」
と言いながら、色とりどりの千代紙の束を、手にとって眺めている。
三々五々、人々は集まり始めた。その人ごみの中に、僕は、勝敏の姿を探していた。
「勝ちゃんは、来ないのか?」
「うん。途中まで一緒だったんだけど、清二君にね、ムササビの巣を見に行かないかって誘われたの」
僕は、がっかりした。ひょっとしたら、勝敏も一緒に逃げてくれるかもしれない。そんな淡い期待があった。僕一人では越えられない山も、彼とタッグが組めれば、鬼に金棒。靖子を守りきることはできる。そんな虫のいいことも思っていた。時は、非情だ。靖子と勝敏は、再び会うことのない別々の道を、歩き出している。運命の歯車は、間違いなく動き始めた。
すっかり日は落ちて、盆踊り会場が賑わい出した。いくら侘しいといっても、浴衣姿の老若男女が、やぐらの周りを十重二十重と取り巻き、踊り出す頃になると、華やいだ気分が、辺りにみなぎり始める。僕らは、植え込みとの境界に置かれている縁石に腰を下ろして、その様子を眺めていた。
「何だか、前にもこんなことあったね。夢で見たのかな? 思い出せない」
ほうずきを指でもてあそびながら、靖子が言った。
(あったさ。ずっと先のことだけどね)
そう言いたかったけれど、口に出しては、
「やっちゃんとは、一緒にいろんなことしたからな」
とだけ言った。彼女の中で、未来へ行った記憶が消えかかっていた。
「ほんとね。でも、九月になったら、りょうちゃんは向こうでしょ。つまらなくなるね。新しい家は、もうできたの?」
「ああ。このあいだ行ったときは、周りの塀を作っていた。それで、お終いだって。部屋に入ってみたけど、よその家に来てるみたいで、落ち着かなかった」
「じき慣れるよ。それより、りょうちゃんの家、遊びに行ってもいいかな?」
甘酸っぱいかたまりが胸にこみ上げてきて、思わず叫びそうになった。やっちゃんと過ごしている「今」。勉強の見せ合いっこしたり、ミレーユでチョコレートパフェ食べたり(そうだ、やっちゃんの鼻に、ピエロみたくチョコレート付けてやろう。きっと怒るだろう。笑いながら、怒るだろう)、愛車に二人乗りで、サイクリングしたり……思い描くだけでも心が小さな鈴になり、「チリ、チリ」と震える。鼻がツンとして、涙が出そうになった。いけない。こんな気弱じゃ、時の非情に打ち勝つことなんかできない。
「いいさ。絶対にね」
余り大きな声を出したものだから、彼女は、驚いて僕の顔を覗き込んだ。踊りの輪は更に広がり、人々の熱気が、うず巻きながら夜空へ立ちのぼっていた。
「ねぇ、りょうちゃん。これ、もらってくれる」
 ふいに、靖子が言った。袂から取り出したのは、「十年後の手紙」を熱心に書き込んでいたあの日記帳だった。突然だったので、僕の方はギクリとした。
「もらえないよ。大切なものだろう」
 慌てて断った。受け取ってしまったら、それが靖子との完全な別れになってしまいそうな気がした。
「ううん、りょうちゃんに持っていてもらいたいの。ほら、前にも言ったけど、これからしょちゅうは会えなくなるでしょう。だから、あたしの代わり。りょうちゃんが、白い石をくれたみたいにね」
 そう言うと、今度は懐から小石を取り出して見せた。
「でもさ……」いろいろな理由をつけて拒んでみたけれど、彼女は、「うん」と言わなかった。とうとう、僕は承知しないわけにいかなくなった。
「それじゃあ預かっとくけど、十年後にこの日記いっしょに読もうな。かならず……
コクリとうなずくと、靖子は透きとおるような顔で笑った。
この後にやってくる阿鼻叫喚を、誰が想像できただろう。何度大声を上げて、ふりかかる危険を皆に伝えたいと思ったかしれない。しかし、「そんなことをしたら、全てがお終いになる」という恐怖心が、僕の口をふさいだ。せめて、靖子だけでも守ることが出来れば……
「りょうちゃん。踊らない?」
 いま気付いたとばかりに、はしゃいだ声で言う。
「ああ。ここで見てるよ。やっちゃん、行って来なよ」
「なんだ、つまらない。踊ればいいのに。わからなかったら、あたし教えてやるよ」
彼女が、可愛らしく目配せしても、手を引っ張って誘っても、僕はその気にならなかった。
(ごめん。今は、それどころじゃないんだ。君をこの時代から救うために、気持ちをじっとひと処に集めておきたい)
自分の度量のなさを恥じながら、心の中でそう詫びた。靖子は、しぶしぶ輪の中へかけて行った。踊りが巡ってくるたび、彼女は手を振って合図をよこした。(大丈夫。君を見失いはしない)それに答えながら、刻々と迫りくる運命の時に、じりじりしていた。(つづく)
             

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