窯ぐれ日記

こともなき世を面白く・・・

十年目の返信

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十年目の返信―19

  実は、この日にもう一つ、やって置きたいことがあった。昼食を食べ終わると、早々出かけることにした。たびたびうかがうのが、何となく気も引けたけれど、横山さんに会って、どうしてもはっきりさせたい話しがあった。土手を下りきり、横山さんのお宅がある路地に入ると、彼は、ちょうど家の前で打ち水をしていた。僕と目が合い、
「やぁ、よく来たね」
気さくに挨拶してくれた。僕は、少しホッとした。
「たびたびすみません。ちょっと、お聞きしたいことがあって……
あられもなく泣き出してしまった先日のことが蘇る。
「遠慮することはないよ。僕も里子さんも、大歓迎だ。若い人と話をするのは、大好きさ。ちょうど良かった。これから、里子さんと美味しい葛きりを、食べようと思ってたところだ。一緒にどうかね」
彼に促されるまま、お邪魔することにした。里子さんは、顔をくしゃくしゃにすると、やっぱり「まっ、まっ、まっ」と三回叫び、小さな手を打ち合わせた。
「この葛、美味しいのよ。川向こうの須賀の屋さんて、知ってる?」
僕は、かぶりを振った。
「あそこの葛は、本葛で作るの。だからとっても上品なお味で、喉ごしもいいの」
葛から葛粉が取れることは、知っていたけれど、昨日さんざん格闘したつわものから、そんな上等な味が仕上がるとは、とうてい思えなかった。
「ちょっと、待っててね」
と言うと、彼女は台所に戻って、葛きりのしたくを始めた。
この部屋に通されると、本、本、本の山で、それだけでもう、満腹の気分になってしまう。そんな本棚の一冊を眺めていたら、横山さんが、
「君は、どんな本が好きかね?」
と、聞いてきた。少し幼く思われやしないか心配しながら、『トム・ソーヤの冒険』だとか、『十五少年漂流記』だとかの名をあげた。
「なかなか、力強い物語じゃないか。ここにも、君みたいな少年に出会ってもらいたい本は、たくさんある。良かったら、ちょくちょく読みにいらっしゃい」
ほんとうにそう出来れば、素敵だなと思った。横山さんと、里子さんが醸し出す、古くさいけれど柔らかさを失わない人柄は、嫌いじゃなかった。
葛きりは、里子さんが言うように絶品だった。程よい甘さ。喉をすり抜ける爽快感に、あの冷たさ。葛のことを少し見直したい気持ちになった。
「美味しいでしょ」
里子さんは、柔和な目に、笑みをいっぱいたたえている。
「はい。美味しいです。こんな味、初めてです」
僕は、正直に答えた。
「初めてか。そりゃ良かった」
横山さんは、声をたてて笑いながら、
「ところで、君は勉強が好きかね?」
急に、メガネの奥で、瞳の色が濃くなった。僕は、どぎまぎしてしまって、
「好きなのか、嫌いなのか、よく分かりません。でも、学校の勉強は、余り好きじゃないな。独りで、天体の図鑑なんか見てる方がいい」
「そうか。好きか、嫌いか、分からないか。勉強なんてものは、そんなもんだ。自分の興味に合えば好きになるし、合わなきゃ嫌いになる。ただ、ここで大事なことはね、勉強するときには、先生と、生徒がいるってことだ」
話の筋が見えない。
「よく分からないかな。先生ってなんだと思う?」
そう聞かれて、ますます困ってしまった。だって、厳しい先生もいれば、優しい先生もいる。だらしない先生もいれば、几帳面な先生もいる。先生って何だ? と聞かれても、一言で答えられるはずもない。
「先生ってね、読んで字の如しだと思う。先に生まれた。これが、先生であるために最も大切なこと。なんだか、ばかばかしいだろ。先に生まれた、ただそれだけだ」
「おやおや。また貴方の〈先に生まれた〉持論が、始まっちゃった。この人、話し出したら止まらなくなるの。高杉君、ほどほどに聞いてね」
里子さんが茶々を入れても、横山さんは、一向にお構いない。
「先に生まれたってことは、少し余計に過去を持ってることだ。たとえば、君の兄さんたちは、当たり前だけど君の生まれる前のことを体験している。まして、父さんや、母さんになれば、君の三倍も、四倍もたくさんの過去がある。それが、先に生まれたってことだ。僕は、自分より先に生まれた人が、みな先生に見えてしまう。そうすると、世の中、先生だらけになっちゃうけどね」
横山さんと僕は、顔を見合わせて笑った。
「たとえば、僕と君だ。僕は、明治四十三年生まれだから、君に比べたら信じられないくらい分厚い過去がある。盧溝橋事件って知ってるかい?」
僕はうなずきながら、歴史の授業で学んだことを伝えた。
「あの事件がおきたとき、僕は中国大陸にいた。事件が勃発する、目と鼻の先で暮らしていたんだ。一発の銃声で均衡は崩された。でもそれが、どちらからどちらへ飛んだ一発だったかなんてことは、あまり意味ないことなんだな。教科書で教える歴史は、起・承・転・結や、主語・述語・目的語をとても大切にするけどね。実際その渦中に暮らしていると、あの一発が、戦争を目論む獣達のかっこうな餌になった事がよく分かる。獣達にとっては、何でも良かったんだ。きっかけになりさえすればね。そこには起・承・転・結も主語・述語・目的語も必要ない。あるのは、戦争という結果だけだ。
その頃、僕には陳君という中国人の友人がいた。彼は、中国語の通訳をしていてね、仕事がら、両方の陣営と関わりがあったみたいだ。憶測が憶測を生み、戦争という坂を転がり始めると、彼の立場も微妙になってきた。ほら、悪はいつの時代でも、善良な生贄を欲しがるだろう。両方と関わりがあるってことは、両方に疑われることでもあったんだ。彼が、スパイ容疑で逮捕されるのは、もはや時間の問題だった。以前と少しも変わらない、陳君だったのにね。朗らかで友人思いの、陳君だったのにね。彼の仕事が、不運だったと言うほかない。けっきょく、彼は、スパイ罪で逮捕され、厳しい拷問の末、獄中で死んでしまった。僕は、彼に何もしてやれなかった。いや、正確には、何もしなかった。彼と関わることで、自分の身に降りかかる災難が怖くて、僕は、知らん振りを決め込んだんだ。情けないな」
横山さんは、メガネを外すと、心の染みをぬぐうようにレンズを拭いた。その丹念な動作の奥から、不意に、あの虚けた母親の腕の中で、非道な少年達を睨みつけていた男の子の目が蘇る。
「戦争の歴史には、起・承・転・結なんてない。だから、人の道理や、まごころなどが入り込める余地は、ないんだ。シナリオを明かされた芝居みたいに、いつも、結末があるだけ。そいつが、人々の暮らしを飲み込む。もっとも当時は、そんなからくりを、声高に非難することなんて、出来はしなかったけれどね。いつでも、数え切れないほどの後悔から、その人なりのほんとが見えてくる――高杉君、これが過去を持つということだ。君が学んだ盧溝橋事件と、僕が体験した盧溝橋事件とでは、少し違う。どちらが正しいか、正しくないかということじゃなく、生きた記憶を、生きた言葉として語れるのは、どっちかってことだ。それが、先に生まれたものの特権。先生になれる資格だ。僕は、教育とは、生きた記憶、生きた言葉の伝承じゃないかとさえ思っているんだよ。何も難しい事はない。自分をごまかさず、過去としっかり向き合いさえすればいい。この間、君は大木台の事を調べに、ここへ来たね。資料で調べられること、教科書で学べることは、知識でしかない。知識だけでは、七十歳のおじいちゃんも、十歳の少年も、同じ言葉を話すほかなくなる。もちろん、僕は知識が必要ないなんてこと言ってるんじゃない。知識だけでは、その人の人生を豊かには支えられない。そう、言いたいんだ。七十歳のおじいちゃんと、十歳の少年の使う言葉は、おのずと違っていい。だから、おじいちゃんは、少年に語り続けなきゃいけない。生きた記憶、生きた言葉としてね。それが、先に生まれた者の使命だ。僕の大木台と、君の大木台は違うし、また違うことに意味があるってことさ」
僕は思わず「同じ大木台の過去を、生きています」と、言いそうになって口をつぐんだ。
「あなた、もうその辺でストップ。高杉君が、困ってるじゃありませんか」
里子さんの一言に、横山さんは、恐縮して頭を掻いた。
「すまん、すまん。ついしゃべりだすと、止まらなくてね。若い人と話すのは、実に楽しい。そう、忘れるところだった。高杉君、君は何か聞きに来たんじゃないのか」
ようやく、思い出してくれた。生唾を一つ飲み込むと、思いきって切り出した。
「ええ。その大木台のことなんです。この間、空襲で亡くなられた学生さんのこと、話されてましたよね」
「ああ、正一君のことだね」
「その方の弟と、妹は、その後どうなったんでしょう? 何か、気になっちゃって……よかったら、話してもらえませんか」
「勝敏君か。彼が、火傷を負って見つけられたことは、話しただろう」
僕は、うなずく。
「彼の火傷は思ってた以上にひどくてね、その痛みや発熱は、想像を絶するものだったに違いない。彼は、ほんとによく耐えていた。何度か見舞ったときも、泣き言一つ言わなかった。それに、妹のことは、あのうわ言で呼び続けたとき以来、一言も口にしなくなった。彼には不思議と、彼女がどこかで生きてるって思いが、あったみたいだ。きっと、信じたい気持ちが、そうさせたのだろう。一度だけそんな姿を見たことがある。病院の廊下から、彼を覗いたときのことだ。ベッドで独り横になっていてね、周りには看護婦も、医者もいなかった。それなのに、そこには誰かがいた。確かにいた。そして、彼の表情を見る限りでは、声なき声で、誰かとおしゃべりしているのが分かった。高熱による幻覚が、彼をそうさせたのかもしれない。でも、言葉にならない分だけ、なんだかとてもはっきりそう感じたんだ」
 「誰か」とは、靖子じゃない。勝敏が話しかけていたのは、きっと僕だ。何を伝えたかったのか? ……おこりのような身震いが這いのぼってきた。
「二週間ほどたったとき、火傷による感染症が悪化して、彼も、肉親のあとを追うように、逝ってしまった。何だか人間の正しさってものを、根こそぎ奪われてしまったようでね、たまらなく悔しかった。その後、僕も妹のことが気になって、地区の人や、親族の方に話を聞いてまわったけど、とうとう彼女の亡き骸は、見つけられなかったそうだ。その痕跡さえも、まったくなかったらしい。今も人知れず、どこかで苔むしているのかと思うと、胸が痛んでならない……」
それとなく覚悟はしていた。ただ、そうはっきり聞かせられると、やっぱり身体の芯が崩れるような、激しい疲れを覚えた。とは言え、これですべての準備は整い、心は、逃げ道もなく決まった。何よりも、横山さん夫妻と巡り会わせてくれた天の采配には、感謝するほかなかった。 
 
それにしてもあの日、靖子に会うまでの残された時間を、僕は、どうやって過ごしたのだろう? いま思い返しても、分からない。横山さんのお宅を失礼してからの記憶が、まったく抜け落ちている。きっと、いつもと変わらず愛車に油を差したり、マンガ本を読んだり、兄たちと野球中継を観て過ごしていたに違いない。ただ、その部分だけが風化し、ポッカリと穴が開いている。それは、あとに続いた時間が、いかに濃密で、かけがえないものだったかの証にすぎない。(つづく)

十年目の返信―18

                          九  
 
 
次の日は、朝から少し変だった。「平常心、平常心」と、念仏のように唱えても、それは頭の上を素通りするばかりで、ちっとも心に落ちてこない。起き抜けに、上の兄さんのTシャツを間違えて着込み、こっぴどく頭をはたかれた。朝食のとき、納豆にソースをかけてしまい、今度は母さんに呆れられた。「だめだ、だめだ、こんなことじゃ」いくら自分をたしなめても、なんだか尻のあたりがスカスカとして落ち着かない。靖子とは、今夜十時に彼女の家の裏庭で、落ち合う約束をしていた。昨日の帰りに寄り道して、あの大木台へ続く穴の入り口は、調べてきてある。ありがたいことに、今より潅木が生い繁っているものだから、入り口の所在は、もっと分かりにくくなっていた。あの様子では、軍隊が気付いていることは、まずあるまい。準備は、ほぼ整った。持ち物だって、朝からもう四回も確かめてある。
コンパスに、ペンライト二本。一本は、靖子用。今時の物を持っていっては、僕の正体がバレやしないか、ちょっと引っ掛かったけれど、(そんなことは、もうどうでもいい)という気がした。それに、バレたら、バレたときのことだ。食べ物は、えびす屋のクラッカーに、ファーストのチョコレート。これには、きっとびっくりする。まんまるい目玉をもっとまんまるくして、歓声を上げるかもしれない。いけない、いけない。歓声なんてもってのほか。僕らは、ピクニックへ行くんじゃないんだ。いわば、日本軍に二人だけの戦いを挑むんだからな。それから、腹薬(これは、緊張すると急にお腹が痛くなる僕のため)と、切り傷用のバンドエイド。こちらもきっと、昭和十九年にはなかっただろう。でも、もしものために用意しておかなくちゃ。バンドエイドは、止血帯にもなるしね。後は……発炎筒。考えたくないけれど、最悪の事態を招いたときに使う。これぐらいしか、武器になるものは、思い浮かばなかったんだ。昨日の夜、こっそり父さんの自動車からくすねてきた。全体的には、何となく遠足風グッズになったけれど、何事も気持ちが肝心さ。僕とやっちゃんは、これで立派に日本軍に立ち向かってみせる。そんなソワソワした気分で、僕は午前中を過ごした。(つづく)
             

十年目の返信―17

                           ☆ 
 
靖子の日記より】
 
 八月××日 (木) 晴
 
まさか、あの写真を見ることが出来るなんて、ほんとに、ほんとに、見ることが出来るなんて……
りょうちゃんのおかげだ。飛行士さんの首飾りを見つけたとき、「コトリ」と景色の転がる予感に、胸がドキドキしたのを覚えている。だってその首飾りは、あぜに積まれた枯れ草の奥で、あたしを待っているみたいに光っていたんだもの。あの予感は、当たっていたんだ。こうしてりょうちゃんに会えたのが、何よりのしょうこだ。
あの頃は、一番つらいときだった。仲良しの妙子ちゃんが転校して、あたしは、正真正めいの独りぼっちになった。もちろん、遊んだり、軽い話をする友達は何人かいたけれど、心の壁を外して話せるのは、妙子ちゃんだけだった。妙子ちゃんは、五年生の女子では大柄なほうで、日に焼けた真ん丸い顔の中の目は、いつもニコニコと笑っていた。体操が得意中の得意。鉄棒の連続前回りなんか男子と同じぐらい出来る。いつもやる前に、「よーっしゃ」ってかけ声をかけるものだから、皆も勇気がモリモリわいてきて、何でも出来そうな気がした。あたしとは正反対な性格。あたしは、いじいじと内にこもってばかりいる。そんなあたしたちが仲良しになったのは、あの出来事のあとだ。
五年生の秋の遠足は、稲刈りのお手伝いに山之郷地区へ向かい、それをすませてから、神尾山でお弁当をいただくことになっていた。その日、妙子ちゃんは遠足の班長だったのに、学校を休んだ。次の日、登校してきた彼女は、今までの妙子ちゃんじゃなくなっていた。目を真っ赤に泣きはらし、何だか身体もひと回り小さくなったみたいに見えた。人気者だから、いつもは磁石で引き寄せられるように友達が集まっていたのに、その日ばかりは、一日中、しょんぼりと独りきりだった。いく日かして、近所の子から、遠足の日、妙子ちゃんの家が大そう動だったことを、聞かされた。彼女のお父さんが、憲兵に連れて行かれたんだ。お父さんは、中学校の国語の先生をしていた。受け持っている生徒たちの前で「この戦争が、早く終わればいい。君たちは兵隊に行っても、決して死に急いじゃいけない」というようなことを話したらしい。これは大人たちのうわさ話だから、ほんとのところは分からない。とにかくその日を境にして、妙子ちゃんの家族には、「非国民」という札が貼られた。学校へ来ても、それまでの磁石の力はすっかりなくなり、あの人なつこいニコニコ顔は、消えてしまった。皆は手のひらを返したように、妙子ちゃんをさけて知らんぷりした。あたしが、今までそうされてきたように……休み時間になると、教室にあたしと妙子ちゃんの二人が、ぽつんと残されることが多くなった。あたしたちはすぐ打ちとけて、仲良しになった。それまでにも、ちょっとしたおしゃべりならすることはあった。だけど、それはたいてい妙子ちゃんの方からで、「元気になってよかったね」とか、「今日、顔色悪いけどだいじょうぶ?」なんて声をかけられたりすると、あたしは何だかおどおどしてしまって、下ばかり向いていた。それが、二人だけになったんだもの。周りの人の目を気にしないで、心置きなく話すことが出来た。妙子ちゃんを知れば知るほど、あたしは、ずんずん彼女にひかれていった。妙子ちゃんて、ほんとにすごい。何でも怖がらずに挑戦する。もっとも、見てる方からすれば、ヒヤヒヤの連続だった。一度など、「やっちゃん、ここを目をつぶってあたしが渡り切れば、きっと父さんは帰ってくる。見ててね」って言うと、背たけほどもある石垣の上を、ほんとに歩き出しちゃった。こっちが、目をつぶっていたいぐらいだ。草笛の吹き方や、しの竹鉄砲の作り方や、野うさぎを捕まえるわなの仕かけ方などを教わったのも、妙子ちゃんだ。それはみんな男の子の遊びだから、彼女と仲良しにならなかったら、あたしは今でも、何もできなかっただろう。
「目をつぶって石垣を渡る」おまじないの効き目があったか、どうかは分からないけれど、それから程なくして、妙子ちゃんのお父さんは帰ってきた。「ボロボロになってた」妙子ちゃんは言う。前歯の何本かが折れ、身体はアザだらけだったそうだ。「母さん、悔しくて泣いた。父さんはさ、どんなことをされても、信念は曲げないって言ったよ。あたし、父さんは立派だと思う。だって、当たり前のことを、当たり前に言っただけだものね」彼女は、そう言って唇をかんだ。「信念を曲げない」とは、どういうことなのか、余り良く分からない。おそらくは、妙子ちゃんのお父さんの生き方みたいなものだろうと思う。それは、こんな時代では、とても生きづらい気もした。だからその言葉には、もっと不幸を呼び寄せてしまいそうな不吉な臭いがした。あたしの心配は、残念ながら的中した。それから、どんどんいやなことばかりが起きた。妙子ちゃんの机の中に、腐った魚が入っていたことがある。筆箱が割られたことも……上ばきがかくされるなんて、しょっちゅうだった。それでも妙子ちゃんは、平然としていた。顔をしっかり上げ、前を見すえるようにして歩いた。あたしだったらそんな真似、絶対に出来ない。すぐ気持ちが崩れて、ぜんそくを理由に学校を休んでいた、きっと。妙子ちゃんも、お父さんに負けないくらい立派だ。でもどうして、こういう人たちは許されないのだろう。そのうち、目つきの悪い男たちが、妙子ちゃんの家族の周りをうろつき始めると、いやがらせは、ますますひどくなった。いやな胸さわぎがした。そんな日の放課後のこと、男子教室の裏で、高等科のいじめっ子数人が待ち伏せていた。あたしたちは逃げる間もなく、つかまってしまった。もちろんねらいは妙子ちゃんだったから、あたしは、すぐに放された。「あっちへ行ってろ。告げ口するんじゃないぞ」中のひとりが、おどしてみせた。きっと、勝兄の手前があったからに違いない。勝兄は、高等科で一目置かれていた。いじめはいつも、弱い者の方ばかりを向いている。妙子ちゃんは、ランドセルをつかまれると、何度も何度も、地面に叩きつけられた。終いにランドセルの肩ひもがちぎれ、その拍子に横飛びするようなかっこうで倒れると、そのまま動かなくなった。あたしは、怖くて震えるばかりだ。いじめっ子たちは、倒れた妙子ちゃんの身体の上に、泥をけり上げながらかけ始めた。たちまち、彼女の頭から足の先まで、泥まみれになった。彼らは聞くにたえない汚らしい言葉を浴びせかけると、震えているあたしに、「告げ口するんじゃないぞ」と、またすごんで見せてから、立ち去っていった。あたしは、急いで妙子ちゃんのところへかけ寄り、身体に被っている泥を、夢中で払いのけた。「妙子ちゃんは、泥で汚されるような人じゃないんだから。あんた達より、何倍も、何倍もきれいなんだから」心の中で、そう叫んだ。涙が止めようもなくあふれてきて、「ごめんね、ごめんね。妙子ちゃん、ごめんね……」と、くり返していた。妙子ちゃんは、黙ってうつむいたままだった。あの時あたしは、何を謝っていたのだろう。自分の臆病さ? ひきょうないじめ? そんなことをけしかける戦争?  ……しばらくしてから、彼女はひょいと立ち上がると、不思議なくらいカラッとした声で言った。「やっちゃん、あやまることないよ。あんたは、あたしのたった一人の味方なんだからさ」そして、何かへ呼びかけるように遠くへ向かって、「よっしゃー、よっしゃー」と、かけ声をかけ始めた。今まで泣いていたのが嘘みたいに、あたしも何だか愉快になってきて、妙子ちゃんと一緒に「よっしゃー」を合唱した。思わず顔を見合わせて、笑ってしまった。二人は家へ帰り着くまで、ずっとそう叫びながら歩いた。途中ですれ違ったおばさんが、びっくりしたような顔をして、あたしたちを見ていた。
六年生になるのを待たないで、妙子ちゃんは、お父さんの実家がある岡山へ越していった。周りの大人たちは、「そりゃあそうだろう。居られるわけがない」とか、「やっぱり逃げ出したか。あんなことしちゃあな」とか、勝手なことを言い合った。家の父さんと母さんが、その話をさけるようにしていてくれたことが、せめてもの救いだった。あたしは、妙子ちゃんのお父さんが、逃げたとは思わない。「信念を曲げない」ことが、実家で農業を続けることだったんだと思う。そうは思うけど……けっきょく、あたしはまた、独りぼっちになっちゃった。そんな時、あの首飾りを見つけた。(つづく)

十年目の返信―16

                       八の下
 
 
彼女の家に着いたのは、だいぶ陽が西に傾いた頃だった。大木台で、思わぬ時間を潰してしまった。勝手口から中へ入ると、ばあちゃんが目ざとく見つけ、ふかした芋をザルにいっぱい盛って出してくれた。僕のミミズバレした手足を見ると、
「ありゃ、りょうちゃん。やぶこきしてきたみたいだな。どうした?」
目の奥が踊っている。
「ちょっと、探検してきました」
「探検とは剛毅な。腹も減ったろ。芋でも食べなさい」
僕は、激しい空腹感に襲われ、芋にかぶりついた。なにせ、朝から何も食べていなかった。余り慌てて飲み込んだものだから、喉に詰まらせてひどくむせた。
「行軍中の兵隊さんみたいだな」
そう言うと、ばあちゃんは、「ヒャッ、ヒャッ」と笑った。
靖子を探して家の裏へ回ってみると、彼女は、鶏小屋の前でヒヨコ達と遊んでいた。
「やっちゃん」
そう呼ぶと、小走りにやってくる。靖子の走り方はいつも几帳面で、しっかり腕をくの字に曲げて構えるものだから、なんだか操り人形の動きを見ているようにぎこちない。僕は、そんな彼女の走り方を、いつも可愛いと思ってしまうんだ。
「何? 今日は、来るの遅かったね」
そして、やっぱり僕の切り傷だらけの手足に気付くと、
「りょうちゃん。その傷どうしたの?」
「大木台へ行って来た」
靖子は、「えっ?」という顔をする。いけない。今日いってきたのは、昭和四十七年の大木台なんだ。急ぐ気持ちを抑えて、少し言いなおした。
「大木台へ行く道を、探してきた」
もちろん、これでも彼女はキョトンとしている。僕は、最初から話をする事にした。
「やっちゃん。やっちゃんは、この間、大木台の講堂に掛けられてるベネチアの写真に、会いたいって言ったよね」
彼女は、小さい子供のように、「こくり」とする。
「あれからずっと、その事が気になってたんだ。何とか、その写真と会える方法はないかってね。ひょっとしたら、できるかもしれないよ」
目が、キラキラ輝き始めた。
「下郷に地蔵堂があるだろう? そのわきを流れている川の崖のところにね、穴が開いてた。その穴をくぐって行ったらさ、通信基地の裏に出る事ができたんだ。それも、あの講堂のすぐ横にだぜ」
「ほんと! すごいよ、りょうちゃん。そんなことってあるんだね」
靖子は、じっとしていられないって風に、胸の前で、幾度も両の手を握り返した。
「やっちゃん。冒険してみる気あるかい? もしその勇気があるなら、僕と一緒に行こう。その穴をくぐって、講堂に出て、そして、あの写真を見るんだ」
彼女は、僕の言葉を、しっかり飲み込むようにうなずくと、
「もしできるなら、やってみたい。あたしはやっぱり、ベネチアの写真を見てみたい。見なくちゃいけないって気がする。そして、飛行士さん達の思い出を、元の場所に返してあげるの。あたし一人じゃ、とても無理だと諦めていたんだ。方法も分からなかったしね。りょうちゃんと一緒なら、やれる。りょうちゃんと一緒なら、何でもできるって気がする」
後戻りできない一歩は、踏み出された。
「よし、やろう。そんなに間もないから……
靖子がまた?(ハテナ)という顔をしたけれど、もちろん、説明するわけにはいかない。ほんとうはもう一度、あの穴の下見をしておきたかった。でも、その余裕はないだろう。
「なるべく早い方がいい。明日できるかい? できるなら、明日の夜、決行しよう」
「夜にするの? 昼間じゃだめ?」
ちょっと怯え顔になっても、僕は、頑として受け付けない。
「夜じゃなきゃだめだ。あそこを守っている兵隊達がいるだろ。やっぱり、忍び込むのは、昼より夜の方が見つけられずらい。それに、夜ならば、講堂に潜んでいることもできる。夜が明けてから、写真を見ればいい。兵隊達が、起きだす前に、穴を抜け、もとの場所へ帰ってくる。どう考えても、それしか方法がないんだ。やっちゃん、覚悟を決めてさ、パーンと前に出ようよ」
 お茂さんの懐かしい口調をまねてみた。正直言えば、小便をちびりそうなほど怖かった。警備兵に捕まるところを想像するだけでも、身体中の毛穴が縮み上がった。だから、この時代のどこかで生きている、あの気丈で、いつだって怯まないお茂さんの神通力を、少しでも分けてもらいたかった。靖子は、固くうなずいて、僕をじっと見つめ返した。(つづく)
                 
 

十年目の返信―15

 それにしても、喉が渇く。朝から何も食べていないせいかもしれない。リュックから水筒を引っ張り出し、キャップを開けたとき、一匹のアブが、身体にまとわり付いて来た。こんな時に、うるさい奴だ。いつもより邪険になって、追い払った。それなのに、払っても、払っても、なかなか逃げない。(しつこい奴だな)ますます身体にまとわりついてくるものだから、思わず腕を振りまわしてしまった。相変わらずのうっかり屋で、手にした水筒のことを、すっかり忘れていた。押さえつけられたものが噴き出るように、飲み口から大量の水が飛び出した。(ああもったいない。貴重な水なのに)こぼれた水は、乾ききった石に吸い込まれてゆく。(なんて素早く吸い込むんだろう。まるで、僕が飲んでいるみたいだ)それは、「ごく、ごく」音が聞えはしないかと思えるほど、ずんずん地中に染み込んた。(なんだか、変じゃないか、これ)はっきりしないモヤモヤが、僕の中で形を作った。どう見ても、吸い込まれ方が、早すぎる。それは、ザルに水を注いだときのようだ。得体の知れない予感につかまれて、残りの水筒の水を、ぶちまけてみた。水は、同じ速い速度で、目地の間に浸透した。間違いない。この石は、ザルだ。何のためかは知らないけれど、石の下は、ザルと同じ空っぽになっている。胸を突く驚きで、一瞬、暑さも、眩しさも、セミ時雨も、引き潮のように遠のいた。急いで、石が動かないものか試してみた。一メートル四方の敷石は、思いのほか軽く外側へずれた。案の定、石の下は、人間一人がくぐれるほどの竪穴が、ポッカリと開いていた。そのうえ、下へと続く鉄梯子まで、かけられている。なんてことだ! ……口から飛び出しそうになる動悸を抑えながら、梯子を降りた。ペンライトを持ってきて、運が良かった。もちろん穴の中は、鼻をつままれても分からないほどの真っ暗闇が、支配していた。これは、いったい何のために作られた穴なんだろう? もしこのまま続いていて、どこかへ抜けられるとしたら……降りきった所から、広い横穴になっていた。何年も閉じ込められていた空気は、土の精をじゅうぶん吸い込んで、冷たく発酵していた。いたるところから、湧き水が滴り落ちていたけれど、外仕事で火照った身体には気持ちいい。冷蔵庫の中は、こんなものかと思う。ペンライトに浮かび上がる世界は、まるで影絵みたいに揺らいだ。どうか、この穴がどこまでも続き、外界へとつながっていますように。どうか、やっちゃんの夢へとつながっていますように。僕は、懸命に祈りながら歩いた。曲がり角が来るたび、一枚一枚、試練が剥がされてゆく思いがした。どれ程、歩いただろう。前方からまだらに射しこむ陽の光を見たとき、自分の目算が当たっていた事を確信した。「今」は、確かに過去へとつながっていた。靖子の笑顔が浮かぶ。軍隊という老獪にして堅固な胴体に風穴が開き、その向こうに、光り溢れる異国の水辺の風景が、蜃気楼のように立ちあがった。
出口は、簡単に板が打ちつけてあるだけで、外へ出てみると、そこは小さな川の岸辺だった。川に削りとられてできた崖の、横腹に開いた穴。人目につかないこんなところが出口だった幸運に、思わず手を合わせた。間違いない。この穴は、抜け道としてつけられたものだ。おそらく、教会堂が作られたとき、緊急な避難路として掘られたものだろう。後は、軍隊に没収された折、この穴が発見されていなかった事を祈るばかりだ。そのことは、靖子の時代へ行って確かめるほかない。一か八かだ。
僕は、再び穴に戻ると、大木台へと向かった。(つづく)
                        

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