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八の上
過去を変えられれば、どんなにいいだろう。横山さんに話をうかがってからというもの、そんなことばかり思いながら過ごした。それまで靖子に会えさえすればウキウキしていた心は、突然色を失い、惨めにしぼんだ。死にゆく人たちと向き合うことが、どれ程むごいことか、それは体験した者でなければ分からない。ばあちゃんが、顔中皺だらけにして「ヒャッ、ヒャッ」と笑うたび、靖子の母の針仕事する後姿を、障子の影に見かけるたび、勝敏の逞しい腕から、夏の陽射しにキラキラ光る水滴がしたたり落ちるたび、その場から逃げ出したい衝動に駆られた。僕の喋る言葉は、何もかも嘘を付いているみたいに空々しく響いた。周りに広がる見慣れた風景は、急によそよそしく他人行儀に思えた。靖子は、「おかしい」と言ったけれど、死んだらみな消えてなくなる。当たり前のことだ。お茂さんの死に顔が、浮かんだり、消えたりした。もう二度と、あんな置いてきぼりの気持ちは味わいたくない。全てに裏切られた約束事のように、焦点の結べない憤りがくすぶり続けた。だからといって、過去はかえられない。いや、変えてはならない。外すことのできない枷が、どうどう巡りの僕を縛り付ける。ここから逃げ出せたら、どんなにかいいだろう。それなのに、靖子の時代へ通い続けることは、やめられなかった。せめて、ベネチアの写真に会いたいという願いだけでも、叶えてあげたい。その思いが、心の中でうずを巻いた。しかし、それさえ後わずかな猶予しか残されていない。この事実の前で、呆然と立ちすくむばかりだ。
そんな僕に一つの光明を与えてくれたのは、ささいな出来事からだった。何の手掛かりも見い出せず、ますますベネチアの写真が遠のく事態に、くさくさしながら家で夕飯を食べていたときのことだ。点けっぱなしにしていたテレビが、春先に壁画発見でセンセーションを巻き起こした、古墳の発掘ドキュメント番組を流していた。僕は見るともなく画面を目で追いながら、義務的に箸を動かした。そのぼんやりとした心の奥で、大木台のことが、魚の小骨みたいに引っ掛かっていた。ここ二、三日、何か屈託を抱えていることに母親的感で気付いたのか、母さんが、僕の方をチラチラ盗み見る。それがかえって、疎ましい。兄たちは、昨夜放った長嶋選手のホームランのこととか、開幕を間近に控えたミュンヘンオリンピックの話に余念がなかった。
テレビは、古墳石室内部の映像を、映し出した。そこは、箱型をした桶のようなところで、周囲に何やら彩り豊かな絵が描かれてあった。その絵は、飛鳥時代のものとは思えぬほど、鮮やかで美しかった。画面が、虎に似た動物の壁画から、きらびやかな衣装に身を包んだ娘達の絵に切り変わった。その寄り添い合う図柄は、仲睦まじく話し込む姿にも見えるし、何かを待ちわびている姿にも見えた。ああ、この娘達は、きっとあの時代に生きていた。笑い、泣き、恋をし、大切な人と出会い、大切な人を失い、そして、自分の願が叶うことを夢見つづけながら生きていた。ふくよかに下ぶくれした顔が、ふいに靖子の顔と重なる。僕は、なんだかサワサワする心の揺れを感じた。
髭面の大学の先生が出てきて、壁画の解説を始めた。絵のモチーフは、中国の故事にちなんだ意味合いがあるということ。また、そこには、故人を死後も守りたいという人々の祈りがあるということ。これほど精妙に描かれたものが、これほど保存状態もよく残されたのは、奇跡に近いということ。そんなことを、かいつまんで話すと、彼は、最後にこう付け加えた。「今は、過去につながっているんです」……
その時、僕の身体に閃光が走った。言葉が稲妻となり、頭を駆け巡った。どうして気付かなかったんだろう。もっと早く、ここへ行き着かなければいけなかった。「今は、過去につながっている」図書館を訪ね歩き資料集めしたところで、大木台のことは何も分からない。僕らの前に立ちふさがる巨大な砦としての大木台の姿は、見えてくるはずもない。存在し、機能していた大木台は、あそこにあるじゃないか。消すことのできない傷跡として、今もあそこにあるじゃないか。こんな道理が、なぜつかめなかったんだろう。余りの嬉しさで不用意に立ち上がったものだから、テーブルの角に、いやというほど膝を打ち付けてしまった。汁物がこぼれ、煮魚の皿が、床に落ちて割れた。母さんからこっぴどく叱られはしたけれど、そんなことはどうでもいい。数学の難問が突然解けるときみたいに、僕の前を塞いでいた扉は開き、その先に迷いのない一筋の道が続いていた。「今」の大木台へ出かけよう。周りに張り巡らされている鉄条網など、たかが知れている。軍隊の水も漏らさぬ警固に比べたら、赤子に対するようなものだ。僕は、難なくその中へ侵入できるだろう。そして、まだ瓦礫が片付けられていないという旧日本軍の通信基地を、目の当たりにすることだろう。きっと、教会堂の跡も、写真が掛けられていた講堂の跡も、残っているに違いない。百パーセントの確信で、そう思った。そこを丹念に調べ上げれば、大木台にもぐりこむ手掛かりはつかめる。それは、必ずある。だって、今は過去につながっているし、過去は今に続いているのだもの。僕は、夢中で考えの筋道を追った。
次の日の朝、明るくなるのも待ちきれずに、愛車にまたがると家を出発した。もちろん、目指すは大木台。僕は、突撃命令を下す将校のように意気盛んだ。大木台につくと、どこか鉄条網に破れ目はないかと、探して歩いた。すぐに、敵陣の綻びは見つかった。大木台の周回コースと、大川からの道がT字にぶつかるところに、車が強く当たった跡だろう、杭がグニャリと曲がり、針金線がたわんで人ひとり充分通り抜けられる隙間があった。水筒や、コンパスや、筆記用具や、ペンライトを入れたリュックを柵の中に放り込むと、辺りの様子に気を配りながら、鉄条網をくぐった。とにかく、敵情視察は、慎重の上にも慎重をきさねばならない。中は、背丈ほどにも伸びた草むらが、行く手をはばんだ。三十年近く、人の手が入らなかった場所だ。想像していた以上に自然は蘇り、溢れかえる命で充満していた。
取り付きは、かなり急な傾斜になっていて、辺りに絡まるツタや、木の枝を手掛かりに、少しずつ頂上を目指した。歩き始めてすぐに、半袖、半ズボンで来たことを後悔した。生い繁ったカヤの薄く鋭い葉先きは、腕といわず、足といわず、皮膚が露出しているどこもかしこも、浅く、長く切り裂いた。うっすら血の滲む傷は、いつまでも不快に疼いた。三分の一くらい登った辺りからだろうか、爆撃の時飛び散った瓦礫の屑が、いたるところに転がっていて、ますます足運びを難しくさせた。幾度か滑ったり転んだりしながらも、ようやく傾斜が緩やかになる場所に、たどり着いた。ここから階段状になっている道をさらに登ってゆくと、とつぜん木立が途切れ、頭の上に空間がポッカリと開いた。今日の空も、相変わらず眩しい。その分、今いるところの暗さが際立った。もうひと踏ん張りで、目指す通信基地には着くだろう。水筒の水を、ひと口飲んだ。今まで気付かなかったセミの声が、急に姦しい。夢から覚めたみたいな心持がした。
跡地は、思い描いていたものとずいぶん違った。雑然としていた上、三つあった床跡の境界には、葛のつるが幾重にもおおいかぶさっていた。おかげで、かつてそこにあった建物の形や、大きさを予測するのが、かなり難しかった。でも、そんな泣き言を、言ってはいられない。僕は、早々にこの絡まる野生の命たちを、取り除きにかかった。すぐに汗は噴き出し、目に染みた。葛は、強情に動こうとしなかったけれど、引っ張ったり、寄せたり、千切ったりを繰り返した。とにかく、ここの全様をつかまえなければならない。三時間ほど作業すると、少しずつその姿が現われ始めた。
丘の東側に正門がある。門柱は草むらの中に没していたけれど、その後ろに一本の舗装された道が続いているから、まず間違いない。その道が少し広くなり、突き当たったところに、最初の床跡が残っていた。ここは、後の二つに比べて規模が小さく、敷き詰められた石が、やや新しい。戦時に建てられた通信基地の心臓部に違いない。左隣りには、ほぼ矩形の大きな床が残されていた。こちらは、使われている床の石も古い。それに、祭壇だったような凸凹もあるから、きっと教会堂の跡地だ。隠ぺいを旨とした軍隊の体質は、平和の象徴ともいえる教会堂を、そのままにして残した。隣りにある通信施設をカモフラージュするためにのみ、存続が許されたんだ。
教会堂の脇に、小さな門柱があった。こちらは裏門として、軍の日常的に必要な物資や、食料を、運び入れていたに違いない。
問題の講堂は、二つの建物の裏手にあり、裏門からも隠れるように建てられていた。こんな奥まったところにあっては、人々の意識にのぼることもなく忘れられた存在だっただろう。それは、僕らにとって、なんとも好都合だ。おそらく、三つの建物の中では、最も忍び込みやすい条件を備えている。見て取れた様子から、だいたい、そう結論づけた。さてお次は、どうやって忍び込むかだ。見取り図を手に入れただけでは、何の解決にもならない。忍び込む方法は、また別な問題だ。ここからが難しい。正門より裏門の方が、侵入しやすい事ぐらいは、すぐに分かる。でも、それだけのこと。当時の警固の仕方が分からない限り、入り込めるわけもない。無駄な事だと思いながらも、敷地の境界の辺り、かつてそこに内と外とを分ける頑丈なレンガ塀があったとおぼしき辺りを、何度も行きつ戻りつして考えてみた。ひょっとしたら、何かを見つけられるかもしれない。しかし、そんな虫のいいことは、何も起こらなかった。朝食もとらずに、意気揚々と出かけてきた自分が、バカなお調子者に思えた。お腹は空くし、歩き疲れるし、暑さにはうだるし、ぐったりしてしまった。半分やけっぱちになって、講堂の周りに敷き詰められた回廊のような石畳の上に、寝転がった。疲れきった身体に、石の硬さが心地いい。マシュマロ模様の雲が浮かぶ空をながめていた。
何とかならないかな、やっちゃんを三十年前のここへ連れてくること。きっと、方法はある。僕が見つけられないだけだ。ちょっとした手掛かりでいい。忘れていることはないか? 見落としていることはないか? もう一度、筋道を立てて、考えてみるんだ。
たとえば……警固の兵隊がいたとしても、通信基地すべてを見回れるわけじゃない。だいたい、それは正門や、建物の周りに集中しているだろう。もし、レンガ塀のどこかに、さっき潜り抜けてきた鉄条網と同じような綻びがあったとしたら……いや、時は戦時下だぞ。平和時の鉄条網とは訳が違う。レンガ塀に綻びなど、あるはずもない。
こういうのは、どうだろう。裏門は、きっと物資や食料を運ぶ車が、毎日行き来している。その一台に潜り込んで侵入する。中に入ったら、素早く講堂の裏に身を潜める。だめだ、だめだ。そんなスパイ映画もどきのことは、僕とやっちゃんに、できるわけがない。万事休すとなって、不貞寝していると、なんだかおかしさがこみ上げてきた。やっぱり靖子には何もしてやれない。独り合点して、こんな所まで出かけて来た自分が、妙におかしい。(つづく)
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十年目の返信
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七
あの夜以来、「写真に会いたい」という靖子の言葉が、頭にこびりついて離れない。何とかならないか? いや、何とかしたい。そう思えば思うほど、もう一方の僕が、「どうにもならない」と、諦め顔で呟く。いかに、『戦争を知らない子ども……』でも、軍隊に巣食う巨大な闇は、容易に把握できた。それは、ボロボロのゴムひもみたいに、甚だしく弾力を欠いた仕組みであり、そこから生まれる疑り深い心や、他を受け入れようとしない狭い了見だった。この闇をくぐり抜け、ベネチアの光と風の前に、靖子を立たせることはできるだろうか? 思いは鋼の壁に、幾度となく弾き返された。たとえ相手が子どもであっても、戦争真っ只中の軍事基地が懐を開き、迎え入れてくれるとはとても思えなかった。残された道は、もぐりこむほかにない。その結論にたどり着くと、僕は近所の図書館を、訪ねまわり始めた。少しでも大木台に関係した記事を見つけ、手掛かりにしたかった。
「そんなものあるはずない」と、呆れ顔に断るところもあれば、司書のおじさんが、汗だくになりながら、資料探しを手伝ってくれるところもあった。しかし、それは、「白砂に針を拾う如く」で、知りたかった基地内部の情報など、とうてい見つかるはずもない。
僕は、ほとんど毎日、午後の時間を図書館めぐりに費やした。
何軒目かに訪れた先で、窓口のお姉さんから、耳寄りな話しを聞くことができた。
「ここにはないけれどね、錦町の横山さんて方が、郷土誌を出しているの。確かその本の中に、大木台の通信基地に関する話が、載っていたような気がするな」
「ほんとですか」
僕は、勢い込んで、尋ねた。
「その本、どこへ行けば、見ることできますか」
「そうねぇ、発行した部数も少なかったみたいだし、直接横山さんのお家を訪ねてみたら? そこなら、確実にあるしね」
彼女は、ウインクするように笑った。
「住所が分かると思うから、調べてあげる。ちょっと待ってて」
しばらくして、お姉さんは大きな地図をヒラヒラさせながら、戻ってきた。それを、カウンターに広げると、メモ用紙を見ながら、
「錦町か……ほらここ。大川中央橋を渡った向こう側ね。上溝二四七五っていうんだから、えーと、ここ、ここら辺」
彼女が指差すところをのぞき込んだ。そこは、中央橋を渡ってすぐ右に折れ、少し上流へのぼった、小学校と隣り合わせる辺りだった。ここなら分かる。僕は、威勢良く礼の言葉を述べると、図書館を飛び出した。すこしでも早く手がかりをつかみたい。愛車にまたがり、夢中でペダルを漕いだ。相変わらず真夏の太陽は、頭上からジリジリ照り付けていたけれど、心の中は、それまでのしこりが融けるように軽くなった。
(ひょっとしたら、何か見つけられるかもしれない)
横山さんの家は、市道から少し下った路地の一番奥にあった。戦前から、そこに建ち続けていた風格があり、周りの板塀は、かなり古びて艶のない飴色をしていた。少しためらいながら呼び鈴を押した。返事がない。
(電話で連絡してから、来なきゃいけなかったかな)
ちょっと気にはなったけれど、もう一度、呼び鈴を押してみる。やっと、中に人の動く気配がして、門口から初老の婦人が顔をのぞかせた。立っていたのが中学生だったものだから、びっくりしたに違いない。口を手で押さえる仕草をすると、
「何か、ごようですか」
驚くほど豊かな白髪の下で、優しげな目が笑っている。
「あっ、あの、高杉って言います」
「高杉君?」
「はい。図書館で、横山さんが郷土誌を出されたって、聞いたもので……」
「ええ。出しましたよ」
「僕、いま、戦争中大木台にあった通信施設について調べてるんです。で、もし良かったら、ご本を見させていただけませんか」
初めての人なのに、いつもより緊張しないで話せた。それは、この人から発散している、どこにも棘のない「丸まっこさ」のおかげかも知れない。
「まっ、まっ、まっ」
奥さんは、立て続けに三回叫ぶと、小さな手を打ち合わせた。
「さぁさ、お入りなさい。こんな若いお客様は、久しぶり」
促されて部屋にはいると、そこは八畳ほどの落ち着いた和室だった。
掃き出しの窓の外には、夏の容赦のない陽射しが踊っていた。床の間には、僕の知らない薄紅色の花が生けられていた。掛け軸には、何と読んだらいいのか分からない一枚の書が掛けられてあった。でも、こんな感じは嫌いじゃない。僕の中に眠っている何か、普段は気付くこともない何かが、この部屋の色合いと溶け合って、安らいでゆく気がする。奥さんの出してくれた麦茶を飲みながら、ぼんやりそんなことを思っていると、隣りの部屋から、ボサボサ頭の男の人が、ヌッと現われた。額には、深い皺が刻まれていたけれど、メガネの奥の目は、若々しい。
「やぁ、よく来たね。大木台のことを、調べているんだって?」
「ええ、夏休みの課題にしようと思って……」
僕は、少しの嘘をついた。
「それはいい。若い人が昔を知ることは、どんな時代でも、大切だからね。この本だけど、そこのテーブルを貸すから、必要な事はメモしてゆきたまえ」
横山さんは、ウグイス色の冊子を手渡しながら、そう言った。
「君がメモしている間、僕は、里子さんに髪でも刈ってもらおう。もし、分からないところがあったら、何でも質問するんだよ」
僕は、恐縮しながらうなずいた。
「おーい、里子さん。僕の髪を切ってくれないかね」
奥の部屋に向かってそう声をかけると、
「はい、はい。高杉君、ごめんなさいね。このおじさんは、大人なのに床屋へ行くのが大嫌い。だから、いつもおばさんが床屋さん」
と言いながら、奥さんが入ってきた。縁側に簡単な床屋風椅子をしつらえて、二人は髪を刈り始めた。
「もうちょっと、右を向いて。動いちゃだめ、鋏が危ないでしょ」
里子さんの注意を、しおらしく聞いている横山さんは、何だかできの悪い生徒に思えて、おかしかった。僕は、ウグイス色の郷土誌のページを開いた。
横山さんは、髪を刈られながら、いろいろな話をしてくれた。自分は、大学の教育学部の先生をしていたこと。そこを退官して時間ができたものだから、郷土誌を書く気になったこと。この近辺の歴史は、中央から少し離れているから、おもしろいこと。江戸時代には、庶民の口を養う食料庫であったこと。特に、大川の周辺は、豊かな水量、肥沃な土壌のおかげで、屈指の米産地であったこと……余り夢中になって話し出したものだから、
「あなた。高杉君は、大木台のことを調べに来たのよ。お勉強の邪魔になるじゃありませんか」
里子さんにたしなめられ、自分の頭をペンペンはたきながら、ペロリと舌を出した。
つかの間、静かな時間が流れた。柱時計が刻む音と、里子さんが鋏を使う音のほか、何も聞こえない。僕は、大木台という言葉に集中して、ページをめくり続けた。簡単な基地の見取り図があるかもしれない。軍の警固を記した箇所があるかもしれない。そんな淡い期待がなかったわけじゃない。しかし、軍の機密に関わることを、一介の教育者が知ろうはずもなく、大木台のページを、どんなにためつすがめつ探しても、求めている情報は、得られなかった。
大木台の最後のページを開いたときのことだった。そこにおぞましい文字を見つけて、立ちすくんでしまった。分かっていながら、忘れていたいもの。それは、考えるだけで、ひょっとしたら現実の衣をまとってしまう。考えさえしなければ、いつまでも遠いままでいてくれる。だから、今まで目をそらしてきた――「大木台空襲」それは、黒雲となって、僕をおおい尽くした。昭和十九年八月××日……残された日にちは、あと、十日余りしかない。無意識のうちに短い叫び声を上げてしまったみたいだ。
「どうした?」横山さんが、心配そうに声をかけてきた。顔を上げると、里子さんも驚いた様子で見つめている。僕は、取り繕う事もできずに、ただ、「大木台空襲」と呟いた。
「ああ、大木台空襲か。昭和十九年八月××日の事だ」
横山さんはそう言いながら、何故かつらそうな顔をした。
「今でも忘れられない。ちょうど今日のように、あの日も暑い日だった。夜になっても、少しも涼しくならなくてね。八時ごろだったかな、突然B29の編隊が、夜空を埋め尽くした。後は、爆弾と焼夷弾の雨あられさ。川向こうは、瞬く間に火の海となってしまった。人間の愚かさの化身のように、炎はたけり狂った。それまで、空襲など受けたことのなかった地域だけに、被害が甚大になったのかもしれない。人のささやかな愛や、夢なんて、実にあっけなく潰されてしまうものなんだな。それも、同じ人間の手によってね。あのときほど、人を憎いと思ったことはない。人を愛しいと思ったことはない。あの空襲で、僕は、一人の大切な学生を失った。今の大学の教育学部は、その頃、師範学校と言っていてね、彼は、そこの本科二年生になったばかりだった。黒目のまさった瞳の綺麗な青年で、それが、とても印象に残っている。彼は、大木台近くの出身だった。空襲のあったあの日、地域の氏神さんの祭りがあるってことで、たまたま実家に帰っていたんだな。人間の運、不運なんてものは、紙一重だ。その祭りが、一日早かったら、いや、空襲が半日遅ければ、若い命は、失われずにすんだかもしれない……」
僕の心臓は、音が聞こえるほどドキドキした。
「彼は、新しい教育というものに、若者らしい情熱で向かい合っていた。でも、ご時世は鬼畜米英だろ。学校でも欧米の新しい教育書は、ほとんど読めなくなっていた。それで、僕が戦前手に入れていた洋書を、ここへよく読みに来ていたんだ。近所という事もあったしね。もちろんそれらの本は、新しいなんて物じゃなかった。しかし、彼には、十分だったんだろう。そこから自由というものの匂い、人間の尊厳の香りを、嗅ぐことができたからだ。いま君が座っているその場所で、彼も、そうやってメモを取りながら読んでいた。もっとも最後のころは、勤労動員で、勉強どころじゃなくなっていたけれどね」
それまで陽射しの溢れる庭を黙って見つめていた里子さんが、たまらずに目頭を押さえた。
「彼の家は、爆弾の直撃を受けた。その時家にいた四人は、即死だったらしい。皮肉なことだ。彼の憧れていた西欧文明に、殺されたようなものだからね。たしか、彼には君ぐらいな歳の弟がいて……何て名前だったかな?」
「勝敏君よ」
里子さんが、こちらを振り向きながら答えた。
「そう、勝敏君といった。もう一人妹君もいてね、彼ら二人は、その時祭りに行っていたみたいだ。勝敏君は、祭り会場の傍で、大火傷を負って見つかった。肉親をいっぺんに亡くしてしまった彼が不憫で、僕は、すぐ見舞いに行った。少しでも、彼を元気付けられればと、思ったんだ。意識はまだ完全には戻っていなくてね、うわ言のように、妹の名前を呼び続けていたっけ……」
僕は、漏れでそうになる嗚咽を、必死にこらえた。これは、何かの冗談だ。こんな事あるはずがない。たった一人の生き証人みたいな横山さんと、僕が巡り会うなんて……きっと夢を見ている。それも、とびっきり悪い夢。ひどく暑い日が続いたし、やっちゃんのことばかり思っていたから、どうかしちゃったんだ。僕は、とうとうこらえきれずに泣き出した。
「すまん、すまん。おじさんは、話が暗くなっていけない。君を泣かせてしまった」
横山さんは、慌てて謝った。里子さんは、僕の後ろにまわると、優しく背中をさすってくれた。僕はただ、かぶりを振りながら、泣き続けることしかできなかった。(つづく)
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六の下
風呂から上がると、夕げのしたくは、すっかり整っていた。裸電灯の下に、昭和十九年の日本の食卓が広がる。野菜の天ぷら、獲ってきたハヤとフナの味噌煮、おからの和え物、漬物と汁物、そして芋の入ったご飯。芋の入ったご飯を、このとき初めて食べた。珍しさも手伝ってか、家の母さんがときどき思い出してはけなすほど、ひどい味には思えなかった。ところが、やっぱり靖子も苦手みたいで、母親の目を盗んでは、隣りに座っている僕の茶碗の中へ、芋だけをこっそり入れてよこした。彼女は、好き嫌いがけっこうあって、食事中、繰り返しばあちゃんや、母親から注意されていた。その都度、ふくれたり、鼻声になったり。そんな甘えた素振りを見るたび、靖子の新しい一面をのぞくようで、少しドキドキした。
「ほんとに靖子は、ねんねだからね。りょうちゃん、呆れるでしょ」
答えに困っていると、
「りょうちゃんは、妹が欲しいって言ったもん。だから、いいよね」
僕に、相槌を求める。
「靖。妹がいいったって、誰でもいい訳じゃないぞ」
今度は、勝敏の横槍に、にらみ返す。
「靖子、父さんがいれば、許してくれないよ。今日は仕事が遅いから。それに……」
ちょっと冷やかすように、「りょうちゃんのせいかな」と、母親が言う。せっかく直った靖子の機嫌は、また元に戻ってしまった。ばあちゃんが、愉快そうに「ヒャッ、ヒャッ」と笑った。
食事のあと、勝敏は近くの道場へ、剣道の練習に出かけた。僕と靖子は、花火をする事にした。台所の方から、食器を洗う音が聞こえる。ようやく動き始めた夜気が、気持ちいい。いつの間にか浴衣に着替えた靖子が、両手に蚊遣りと線香花火をぶら下げて、外へ出てきた。あの祭りのときの姿だ。淡いブルーの生地に黄色い花小紋。それは今のはずなのに、何だか過ぎ去った映像を観るみたいに懐かしい。僕らは、縁台に腰掛けて、はぜる火花の軌跡を眺めていた。靖子が、ポツリと言う。
「りょうちゃん。りょうちゃんの夢って何?」
「夢か、余り考えた事ないな。ちっちゃい頃は、大工になりたかった。それも、母さんが、家が欲しい、家が欲しいって、言ってばかりいたからね」
彼女の小刻みな笑の波が、触れている肩から伝わってきた。
「その内、医者になりたくなって、今は星のことに興味あるかな」
「星って、空の?」
「そう。太陽とか、月とか、火星とか、北斗七星とか、カシオペヤってやつ」
「ふーん、大きすぎちゃって、想像つかない」
「先生にね、宇宙の成り立ちを聞いた。最初は、ほんの小さな一粒だったんだって。米粒なんかよりも、もっともっとね。知らないかな?」
靖子は、かぶりを振った。
「そんな小さな粒が、ある時大爆発を起こして、風船のように膨らみだしたんだ。すさまじい勢いだったらしいよ。そして、百五十億年後に、今のような宇宙になった。すごいだろ」
「なんだか、呆れちゃう話だね。日本の起源より、ずっと前なんだ……」
「ほんと、呆れちゃう。だけど、もしそうして今の宇宙ができたならさ、この世界にある物は、みんな兄弟ってことになる。だって最初は、小さな一粒だったんだもの」
線香花火が、最後の瞬きを残すと、闇の中に暗く沈んだ。
「だから、この線香花火も、僕も兄弟。今日獲ってきたハヤもフナも、さっき食べた芋ご飯もね」
ちょっと、僕はウキウキしてきた。
「りょうちゃんと、あたしもね」
「そうさ、今から何万年か前には、やっちゃんの細胞と、僕の細胞は、同じ身体で生きていたかもしれない」
「ばあちゃんも?」
僕らは、声を出して笑った。台所で食器の触れ合う音がやみ、ばあちゃんと靖子の母が、呆れ顔でこちらをうかがう様子が、伝わってくる。
「りょうちゃんは、偉いね。あたしと二年しか違わないのに。あたしは、ちっぽけだな。こんな身体でしょ。だから、夢を持つ前に、これもできない、あれもできないって思っちゃう」
「そんなことないさ。それに、身体は絶対よくなる」
「ありがとう。でも、今やれることは限られてるな。この間も話したけど、あたし、外国へ行ってみたい。箱や、教科書の写真でない、本物のね」
僕はまた、(あと、一年待てば……)という衝動に駆られ、言葉を飲み込んだ。
「きっと、身体もこのままじゃないだろうし、戦争もいつかは終わるでしょう。それでもあたしは、外国へ行けないだろうって気がする。何故だか分からないけど、そう思うの。ほんとうのベネチアやローマは、歩けない……」
そのころ靖子を閉じ込めていた「死」と隣り合わせの日々は、ボディーブローを入れるボクサーのように、じわじわと彼女の心を消耗させていた。そこから眺める「オリーブの繁る国」は、もはや現実感覚でとらえられないほど、遥かに遠い。僕の胸を、チクチクと茨が刺した。
「だからね、いま一番の夢は、大きな写真を見ること」
「えっ、写真って何さ?」
「父さんに聞いたんだけど、大木台に軍の基地があるでしょう」
「ああ。通信の基地だろう」
「あそこ、前は教会堂だったの。この間父さんが施設見学に行ったとき、教会は昔のまま残されていてね、その講堂に大きなベネチアの風景写真が掛けられてあったんだって。ほんの少ししかのぞけなかったけど、それは美しい水辺の景色で、父さんでさえウットリしたっていうんだから、すごいよね。そこにはきっと、ここにない全てが揃っている、そんな気がする。それに……」
靖子は、ちょっと言いよどむと、心を決めたとばかり小さく一つうなずいて、あとを続けた。
「りょうちゃん、絶対に内緒よ。これ見てくれる」
と言いながら、帯の奥から、銀色に輝くペンダントを取り出した。僕は、話しの行く先が見えないことに戸惑いながらも、彼女の心に隠れている一番深くが流れ出てくる気がして、少し身構えた。
「あのね、田んぼに墜落したアメリカの飛行機を見に行ったって、話したでしょう。そのときに見つけたの。気持ちが悪くなってかがみ込んだとき、飛行士の足元に落ちていた。
こっそり持ってきちゃった。蓋を開けてみたら、中に写真が入っていたの。小さな舟の上で、腕を組んだ二人の外人が写っていた。男の人と女の人だったけど、とても幸せそうにニコニコしてたよ。その舟がね、変な形をしていて、今まで見たこともない。でね、正一兄さんに聞いてみた。もちろん、これを見せるわけにはいかないから、あたしが絵に描いてね」
手渡されたゲームコインほどのペンダントの蓋を開けると、確かに写真がはめ込まれていた。ろうそくの火を近づけてみると、小舟の艫に座った二人の人物が浮かび上がった。ぼんやりしたろうそくの明かりでは、表情まで見定めることは出来なかったが、周りの華やいだ景色や、腕を組んだ二人の姿から、柔らかく和んだ空気が伝わってくる。
「死んだ飛行士の物みたいだね」
「そう。どちらかのだよね、きっと。正一兄さん、絵を見ながら、これはイタリアのゴンドラという舟だって、教えてくれた。ベネチアという運河が多い町で、水上の乗り合い自動車みたいな仕事をしてるってこともね。その時初めて、ベネチアという町のことを知ったんだ。それから、毎日毎日、蓋を開けてこの写真ばかり眺めていたな。なぜだか、この人たちとあたしが、だんだん重なってくるみたいだった。二人の笑顔に、あたしまで染まる気がした。そしてね、あんなところで、冷たくなって、硬くなって、じっと動かなくなっていたのは、ほんとの僕じゃない。ほんとの僕は、ここにいるよって、写真の中の飛行士さんが、話しかけてきた。そのとき、ああ、そうかって、分かった。ゴンドラの上で女の人と腕を組んでいたこのときが、死んだ飛行士さんには、一番幸せだったことやね、今でもそこで、ちゃんと生きているに違いないってこともね。だってそうでしょう。こうして、りょうちゃんと話している、笑ったり、泣いたり出来るあたしが、死ぬと消えてなくなっちゃうなんておかしい。石ころみたくカチカチに固まって、それから、ドロドロに溶けてなくなっちゃうなんて、おかしいもの。飛行士さんも同じことだよ。そうしたら、この写真をどうしても元のところへ返したくなった。というより返さなくちゃいけないって気がしてきた。ぎゅっと曲がった足の指のままじゃだめだってね。本当のべネチアには、とても行けないでしょう。そんな時、父さんの話を聞いたの」
靖子は、届かぬ願いを蹴り出すように、足をぶらぶらさせた。
「あたし、教会堂の写真に会ってみたいな」
闇夜の奥で、寝ぼけたセミが、一声「ジィ」と鳴いた。(つづく)
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六の上
「おい、おまえ、りょうだろ」
野太い声に振り向いたとき、いがぐり頭にこんがり日焼けした顔から、白い歯がこぼれた。それが、勝敏との出会いだった。年恰好は僕とたいして違わないのに、自転車のサドルに、どっかりと腰掛けている姿は、ずいぶん大人びて見えた。この間の少年達のことが、フッと頭をよぎり、暗く冷たい塊が、喉元にこみ上げてきた。
「おまえ、時々靖子のところに、遊びに来てるんだって。母さんから聞いたよ。あいつ、ちょっと変わってるだろ。六年生にもなって、箱集めてたり、ヒヨコ飼っていたりさ」
「そんなことない」って、言いたかったけれど、やっぱり何も言えずにもじもじしていた。
「まっ、身体丈夫じゃないしな。友達も少ないから、また来てやってくれよ」
僕は、黙ってうなずいた。
「これから、大川に魚とりに行くけど、一緒にくるか?」
改めて見れば、下は海パン、上はシャツだけ。手には、水中メガネと、よく研ぎ澄まされた三本歯のモリを持っていた。
「大名淵には、一メートルの大ナマズがいるよ」
祭りの日の靖子の話を思い出した。水の心地いい冷たさや、雲母のようにきらめく光線や、そこを悠然として泳ぐ魚たちのことが、蘇ってきた。僕は、急に川が恋しくなった。
「行きたいな。でも、僕、水着もって来てない」
「ちょっと待ってろ。兄きのお古だけど、家にあるから。靖子には、おまえが来たこと内緒な。あいつに話すと、一緒に来たがるから。まだ、本調子じゃないんだ」
言うが早いか、彼は家へ取って返した。草の蒸された匂いが、足元から立ちのぼってくる。まだ経験した事もない「モリ突き」の様を、想像してみた。
……僕は、この界隈では、名の知れた素潜りの名人。愛用のモリを手にすると、大きく一息飲み込んで、水に飛び込む。僕の周りで、サイダーのような泡が騒ぎ立つ。一かき、二かき、身体は、ずんずん底へ近づく。水は透明なのに、辺りは暗くなる。川底には、大きな岩がゴロゴロしていた。そんな岩と岩の隙間に、魚は潜んでいるんだ。すばやく、なおかつ、注意深く一つ一つの隙間を確かめる。大岩が崩れてできた溝のような割れ目に、ギョロリと光る魚の目玉を見つける。あの大ナマズだ。冷静に狙いを定めると、引き絞ったモリを発射する。この放つときの呼吸ってもんが、難しい。ちょうどいい瞬間があって、それを外すと、どんな名人でも仕損じる。モリは手を離れているはずなのに、命中した手ごたえは、不思議と伝わってくる。僕は、凱旋する兵士のように、射抜いた大ナマズを高々と掲げながら、水面に浮上するんだ……
「さっ、行こうぜ」
もどって来た勝敏は、少し息を弾ませながら、僕を促した。自転車は、黒塗りのガッチリしたタイプで、今では商店の配達に使うほか、余り見かけなくなった車種のものだ。見るからに荷台は乗り心地悪く、尻が痛くなりそうだった。彼は、あぜ道に積まれた刈り草の束を抱えると、それを荷台にのせた。
「これで、少しは尻が助かるだろう」
余り期待はできなかったけれど、「ありがとう」と、僕は言った。
凸凹道を走りながら、勝敏はいろいろな話をした。父さんは、軍需工場で機械の設計技師をしていること。それほど広くない田と畑は、ばあちゃんと母さんが耕していること。もちろん休みには、子供達も手伝うこと。兄の正一は、教師になることを夢見ていること。自分は、予科練に入って、戦闘機乗りになりたいこと。内心では、母さんがその事を反対していること。妹の靖子は、小さい頃から喘息がひどくて、家族がそれに振り回されてきたこと。それでも妹は、可愛くてならないこと……
大川の河川敷は、「今」とさほど変わらない風景が、広がっていた。細かく見渡せば、古い写真を眺めたときみたいに、そこから時代の匂いは、立ちのぼってくるに違いないけれど、そんな情緒を詮索してみたところで、何になるだろう? なぜなら、この時、僕の目の前に広がっていた過去は、とうてい、アルバムの中におとなしく治まってくれたりなど、しそうもなかった。
勝敏は、土手の下にある橋脚のたもとに自転車を止めた。すでに、数人の少年達が、大名淵に集結していた。驚いたことに、彼らのほとんどが、相撲取りのようなふんどし姿だった。昔はふんどしで泳いでいたと聞いたことはあったが、その姿を見るのは初めてだった。
「おーい、清二。今日は、いそうか?」
勝敏が大声をかける。清二と呼ばれた少年が、こちらを振り向きざま、指で○印を描いてみせる。
「りょう、今日は大漁だぞ」
白い歯が笑った。僕は、ここへ来て、少し心配になった。泳ぐ事はかなりできる。去年も、学校の水泳大会で、入賞したぐらいだ。長い距離も泳げる。でも、川で潜るのは、経験した事がない。さっきまで、たいした違いはないだろうと、たかをくくっていたけれど、急に心細くなってきたんだ。
大名淵は、四〜五メートルの水深があり、ここらでは、一番深い澱みとされていた。水の色も濃い青色をたたえていて、王者の風格そのものだった。そこへ次々と、裸の少年達が飛び込む。水しぶきの向こうから、石に跳ね返る八月の強い陽射しや、コロコロ転がる笑い声が、木霊してきた。
「何がいる?」
「鯉が多いみたいだよ。あと、バカッパヤかな」
「そうか。でっかい鯉に会えるといいんだけどな」
勝敏は、耳穴に唾で栓をしながら言った。
「りょう、そこで見てろよ。一回もぐってくるから」
モリを構えると、その姿勢のまま大名淵の底へ消えていった。その姿はまるで、無駄のない機械の動きそのものに見えた。長い時間が過ぎたように思えた。でもあれは、たかだか二分ぐらいのことだったのだろう。彼が再び水面に浮かび上がってきたとき、モリの先には二十センチほどの魚が、体をくねらせ、きらめいていた。それを刃先から外すと、無造作にこちらへ放ってよこす。
「バカッパヤじゃ、しょうがないぜ。鯉ね、鯉」
そう叫んで、彼は再び水中に消えた。そんなことを数回繰り返したけれど、鯉はなかなか仕留められなかった。
「りょうもやってみるか?」
さすがの勝敏も少々疲れたのか、紫色になった唇を、カタカタ言わせながら、声をかけてきた。
「いいけど、潜れるかな? 初めてなんだ」
「難しくないよ。泳ぐのとたいして違わない。底の方にさ、気持ちをグッと集めて、そこへ向かって潜ってゆけばいい。まず、モリを持たないでやってごらん」
水は、思いのほか冷たかった。緊張しているせいか、いつもより手足がぎこちなく動いた。思いきって頭を下へ向けてみたけれど、上手くいかない。身体が沈まないんだ。手足を夢中でバタつかせても、お尻の辺りがプカリと浮かび上がって、水面をただバシャバシャやっているだけだ。何度挑戦しても、勝敏のように一直線の槍となって、潜ることは出来なかった。少年達がおもしろがってはやし立てる姿が、水中から見える。それを止めている勝敏の姿も見える。浮かび上がるたび、彼がアドバイスをくれるけれど、聞くのと、やるのとでは大違いだ。
「もう少し、身体の力ぬいてな。そんなに、手足バタバタさせちゃだめだ」
「もっと大きく、ゆっくり手は動かさなきゃ。足は自然についてくる」
「頭と足は、一直線に、一直線に……」
けっきょく僕がもぐれるようになったのは、水面わずか数十センチのところまでだったろう。寒さと、疲れで、川原へへたり込んでしまった。陽に暖められた石は、冷え切った身体に心地よかった。入道雲に囲まれた空の青さが、目に染みた。これほど、もぐる事が難しいとは……大ナマズとの距離が、遥か遠くに感じられた。僕は、靖子に何もしてやれない。できないどころか、ピエロのように道化を振りまくだけだ。つくづく、自分が情けなかった。勝敏は、「初めてにしちゃぁ、いいとこまでいったぜ」って、慰めてくれるけれど、慰められれば、ますます情けない。彼の優しさは分かっていながら、それが鬱陶しい。不機嫌に黙りこんでしまった。
獲物は、ハヤ数匹にフナが二匹。鯉はとうとう捕まえられず、何だか盛り上がらない帰り道、勝敏が、予科練の唄を教えてくれた。
「若い血潮の予科練の 七つボタンは桜にいかり
今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ でかい希望の雲が湧く」―若鷲の唄― 彼は、腕で調子を取りながら、何度も、何度も繰り返し歌い続けた。その一途さは、どこか石を投げていた少年達と、相通じるところがあった。その曲は、彼らの心を一色に染めあげ、奮い立たせるために作られたものに違いないけれど、僕には、哀しい子守唄のように聞こえた。
門口から続く小道で、靖子は頬をふくらませながら待っていた。
「勝兄も、りょうちゃんもずるい。あたしを置いて、川へいっちゃうなんて」
「置いていったわけじゃないさ。おまえまだ、本調子じゃないだろ。無理、無理。今日の川原なんて、灼熱地獄。なっ、りょう。そうだったよな」
勝敏が言いわけしても、曲がった臍は、なかなか戻らない。途方にくれていると、
「勝、今日は何が獲れたかい?」
しわがれたばあちゃんの声がした。渡りに船とばかりに、僕らは勝手口に飛び込んだ。
「バカッパヤとフナがちょっと。ぜんぜんだめだった」
「そうかい。ハヤもフナも、味噌で煮付けるかね。りょうちゃん、川は面白かったろう。おやまぁ、一日ですっかり田舎の子になったね」
僕の水中メガネ形に焼け残っている日焼けした顔をのぞき込みながら、ばあちゃんは言った。
「今夜は、ここでご飯食べておいきよ」
「そうね、それがいいよ。靖子も喜ぶし。ただ、連絡しないと、お家の人が心配するかね」
さい箸を持ったまま靖子の母が横合いから顔を出す。揚げ物でもしているのか、腹の虫を刺激する香ばしい匂いが、漂ってくる。
「あの、大丈夫です。今日はお祭りに行くって、母には言ってきたし。だいたい八時ごろまでに帰れれば……」
「それで決まりね。りょうちゃんは、あたしの隣りに座るんだからね。勝兄と話してばかりいたら、だめだから」
靖子は、すっかり機嫌を直した様子で、はしゃいでいる。僕と勝敏は、思わず顔を見合わせてしまった。
「さぁさぁ、そうと決まれば、勝、りょうちゃんとお風呂にお入り」
ばあちゃんが促すと、靖子が黄色い声で、「あたしも、入る」……そんなことはできる訳もなく、言い出した本人が、赤くなって俯いている。
湯船は、時代劇などで、時々見かける丸型のものだった。いつもの調子に入ろうとすると、勝敏が慌てて止めた。
「りょう、だめだ。そのまま入ると、足火傷するぞ。この板を沈めて、その上に乗っかる」
板を沈めるのは、ちょっとしたこつがいたけれど、沈めてしまえば落ち着いて、足元から伝わる木肌の感触も、何だか優しい。今日一日「潜り」の挑戦でこうむったいろいろな痛手が、湯船の中に溶け出してゆくようだった。僕らは、互いの背中を流し合ったり、おさな子みたく手ぬぐいで空気玉を作り、それを湯船の中で破裂させては、「わー、屁をこいた。臭い、臭い」などと言い合って、はしゃいだ。すっかり、馴染んだ頃、
「りょう、歌合戦しないか?」
急に、勝敏がそんなことを言った。
「えっ、歌合戦? ……」
「うん、歌合戦。おれから歌うからさ、りょうが続けろよ。何曲歌えるか、勝負だからな」
勝敏の声は、力強く、そのうえメリハリもあった。彼の歌う唄は、ほとんどが分からなかった。おそらく、軍歌という類いのものだったのだろう。また、僕の歌う唄も、彼には未知なるものだった。僕は、なるべく時代が分からない歌謡曲を選んで、歌った。
「ふーん、何だか今の曲じゃないみたいだ。おまえ、どこか変なとこあるな。そんな唄、知っていたりさ。哀しそうなの多いけど、おれ、好きだな。こんど、教えてくれよ」
勝敏の探るような口ぶりに、ちょっとドキリとした。(つづく)
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五の下
「あたしってこんな身体でしょう。だから、何の役にも立てない。それなのに、ここから逃げることばかり考えちゃう。罰当たりだね」
すだれを透かして、西に傾いた陽の光がまだらに射し込み、ヒグラシの声が、遠く、近くさざ波みたいに響いていた。僕らは何だか、切なくなって黙った。 その日の帰り道、信じられない光景を目の当たりにした。
「寄り道してみようか」……そんな、ちょっとした出来心が招いた結果だった。
湧き水の流れる側溝に沿って靖子の家から下って来ると、T字路に突き当たる。いつもは、左へ曲がるけれど、そこを右に折れ、小一時間ほど歩けば、隣りの地区になる。さすがに、ここまで足を延ばしたことはなかった。その界隈は、大木台通信所の出入り口にあたっていて、基地の為に開かれたような町並が続いていた。道沿いは、こじんまりとした商店街で、魚屋や、乾物屋が、軒を連ねている。夕げ時ということもあり、そこそこの人通りがあった。女は、もんぺ姿。男は、ほとんどがカーキ色した国民服を着ていた。中には、サーベルを腰に下げた軍人の姿も見受けられる。行き交う人はみな、映画の登場人物みたいに思えた。その中で僕だけ一人が、このスクリーンを眺められる観客だった。靖子の傍にいると、こうした現実味の乏しい感触が、腹立たしくてならないのに、ここでは、なぜか心地いい。身勝手なものだ。とにかく、心ゆくまで「時の異邦人」に浸りきることが出来た。それは、隠れて悪戯しているときの無責任な「ときめき」感にも似ている。僕は、そんな気分をもっと転がしたくて、店先から漂ってくる匂いや、客を呼び込む売り子達の声を、たっぷりと浴びながら歩いた。
商店街が少し途切れる辺りに、掲示板が立てられていた。面には、お決まりの「忠心愛国」とか、「一億総火の玉」とか、「鬼畜米英」の文字が、躍っていた。その掲示板の前に、一人の女が、息子とおぼしき五、六歳ぐらいの男の子の背中を抱くようにして、立っていた。周りを取り囲んで、数人の少年達が、何やら口々に叫び声を上げている。
(面白い商いでもしているのかもしれない)
興味をそそられ近づいてみると、それは、とんでもない思い違いだと知らされた。間近にした女は、どこか焦点の定まらない目つきをしていて、辺りの状況を、よく飲み込めていない風だった。着ている服もちぐはぐで、もんぺの上にだらしなく垂れ下がっているシャツの裾は、ボロ布のように千切れているし、履いている下駄も、左右がバラバラだった。彼女からは、明らかに尋常な者でない雰囲気が、漂っていた。子供の方は、母親とは対照的に、抱きすくめられている腕の奥から、きつい視線を、叫び声をあげる少年達の輪の中へ投げつけていた。それはまるで、小動物が、あこぎな敵と立ち向かうみたいに……というのも、女とその子どもに浴びせられている言葉は、率直な好奇心の雄叫びなんてものじゃなく、屈折した蔑みと、笑いに満ちていた。
「アカ女! あほ女!」
「死んじまえ!」
「おまえのとうちゃんは、売国奴だぞ!」
「戦争反対して、国を売った非国民!」
「兵隊にも行かないで、牢屋に入れられた悪人だからな」
「悪人の子! 悪人の子!」
「表に出てくるんじゃねぇよ!」
「糞 (くそ )でも食らってろ!」
……
聞くに堪えなかった。それまでのふわふわした「ときめき」感は、たちまち冷水を浴びせられたように萎んだ。自らが吐き出す言葉に煽られて、少年達は、石や棒切れを投げ始めた。女にあたる鈍い音がした。人間が、人間を打ち砕く音。人間を辱める不快な音。それは、空恐ろしく、また哀しく響いた。女の額が破れ、たちまち血が噴き出した。それなのに、彼女は、相変わらずぼんやりと宙に浮いた眼差しをしている。それでも、母親としての本能が、そうさせるのだろう。身体は、我が子をしっかりかばって、抱え込むようにしゃがみ込んだ。男の子は、けして泣かなかった。血を見た少年達は、益々興奮した面持ちで、居丈高になる。浴びせかける言葉の調子は、もはや狂乱に近かった。親子は、道端に捨てられた石ころのように、じっとして動かなくなった。どうしてだか分からなかったけれど、ほんの一瞬、二人の顔がお茂さんと、昭夫少年に思えた。何でこんなことがあっていいのだろう? 目眩するほどの怒りでわなないているのに、足がすくみ、何も出来ないでいる僕がいた。そんな自分を、もう一人の僕が、哀れんでいる。助けを求めたくて辺りを見回しても、遠巻きに見ている大人達はいるのに、彼らは、何も関わろうとしなかった。もちろん、少年達を止めようとする気配など、さらさらない。無表情のまま、口の端に微かな笑みを浮かべる者さえいた。僕は、鳩尾の辺りから湧き上がって来る饐えた苦味に耐え切れず、胃の中の物を吐いた。電柱の影に屈んで、絞るように吐き続けた。口から噴き出した物は、血の色をして、地面に醜い染みを作った。その中に、スイカの黒い種が、悪意の結晶のように散らばっている。ケラケラと笑う靖子の顔が浮かんだ。その顔は、たちまち般若みたいな形相になって、異国の箱を開け始めた。何かに取り憑かれた者のように、靖子は、ひたすら蓋を開け続けた。
☆
【靖子の日記より】
八月××日 (月) くもり
とうとう、しゃべっちゃった。でも、何だかホッとした。ひきょう者だと思われても、かくしたままにしておくよりいいもの。あたしの正直な気持ち。ここから逃げ出したい。りょうちゃんは、勝兄みたいに怒ったりしなかった。何となくだまって聞いてくれる、そんな気はしていたんだ。
それにしても、りょうちゃんて、ちょっと変なところがある。時々、おかしな言葉使いしたり、あたりまえなことを知らなかったり……この間もそうだ。父さんの大事にしているゲートルの話しをしたら、困ったような顔をして「それ、お湯わかす道具だろう」なんて言うから、思わず笑っちゃった。父さんの大事にしているヤカン? 足に巻くゲートルを、お湯をわかす道具だなんて、とんちんかんもいいところだ。それに……たびたび遊びに来てくれるけれど、勤労動員へは行かなくていいのかな。母さんと、いつも話している。「都会の子だし、引っ越して来て間もないから」って、母さんは言う。何もやることがないなんて、ほんとに不思議だ。正一兄さんや、勝兄に比べると、信じられない。兄さんたちは、夏休みだというのに、朝から晩まで、学徒勤労動員で働きっぱなしだ。工場で、飛行機の部品を作ったり、防空ごうを掘ったり、農作業をしたり……だから、時たまにしか家へは帰ってこない。あたしたち国民学校の六年生だってそうだ。学校のある時は、授業が午前中だけ。あとは、仕事場みたいになった教室で兵隊さんのはち巻をぬうか、校庭の畑を耕すかしている。それなのに、りょうちゃんときたら、川原で石を拾っていたりするんだもの。あたしのためにって、そりゃあうれしかったけど、やっぱりどこか変だ。でも、そんな風だから、何でも話せるってこともある。たとえば……「今は、お国のためにがまんしなくちゃいけない」って、大人は言う。ほんとにそうなのかな? 食べる物は、おもうように手に入らない。学校では満足な勉強もしないで、戦争のために働いてばかりいる。言いたいことだって、人の目を気にしながらこそこそとしゃべる。それが、お国のため? だとしたら、お国って何なのだろう。
はち巻作りや、畑のお仕事は、普通の人ならなんなくこなすけれど、ぜんそくのあたしには、時々つらいことがある。それで、「休み、休み」になっちゃう。そんなあたしのことを、学校の皆がどう思っているか、だいたい分かる。面と向かっては言わなくても、あたしの顔を見ると、変な目配せをしてうなずきあっている。きっと、「身体のせいにして、ずるしてる」って、陰で悪口言い合ってるんだ。そう思うあたしって、いやな子だな。でも一度だけ、級長の美津子さんから、はっきり言われた。「あなたのせいで、あたしたちの班が一番遅くなる。無理して学校に来なくていいから……」お仕事には一日の達成目標があって、それに届かないと級長さんが叱られる。足手まといなあたしは、ほんとにすまないと思う。だけどそれは、あたしがみんなのじゃまをしているいけない子だっていうこと? 何だか教室中に意地悪ないばらがつるを伸ばしていて、ちょっとでも動くと、あたしの身体からたくさんの血が流れる気がした。それからほとんど学校へ行けなくなった。身体はそれほどでもないのに、心がしばられたみたいに動かなくなる。父さんや、母さんには申し訳ないと思う。それなのに、うそをついて、ほんとのずる休みしちゃう。今は、身体の悪い人や、家の事情で皆と同じに出来ない人が、肩身のせまい思いをしなけりゃならない。そんな人は、このお国には、必要ないってことなのかな? 必要ないから、いなくていいってことなのかな? 死んでもかまわないってことなのかな?
勝兄は、お国のために死ぬのは名誉なことだって言うけど、死ぬって、そんなにきれいなことではないような気がする。この間、道ばたで猫が死んでいた。何だか、おせんべいみたいにぺっちゃんこ。お腹だけがパンパンにふくらんで、目や口の周りから、ウジがわき出していた。「シャク、シャク、シャク、シャク」食べる音が聞こえるみたいだった。身体は半分腐りかけていて、がまんできない臭いがした。あれが、死ぬってこと? だったら……絶対にいやだ。あたしってやっぱり、どうしようもない非国民かもしれない。 (つづく)
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