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五の上
靖子の身体が、余り丈夫でない事を知ったのは、四度目に彼女の家を訪ねたときのことだ。彼女は、南側の広間に寝かせられていた。傍らで、母親らしき人が、針仕事をしていた。その頃の僕は、かなり人見知りするところがあって、初対面の人の前では、いつも借りてきたネコみたいになってしまう。しかも、母さんぐらいな年齢のおばさんたちだと、借りてきた猫を装っても、突然首根っこをつかまれるなんてことあるだろう。だから、その手の人たちは、避けられるなら、なるべく避けて通りたいと思っていた。「君子、危うきに近寄らず」ってこと。でも、このときは逃げ道があろうはずもなく、途方にくれてしまった。けっきょく、土間に突っ立ったまま、もじもじしているばかりだった。母親は、ちょっとの間いぶかしげに僕を見つめると、たちまち気付いたという風に、
「りょうちゃん? りょうちゃんね。靖子から聞いているよ。どうぞ、お上がりなさい。今日はね、靖子、少し具合が悪いの。いつものことだけどね。人に会えないほどでもないから、上がって、話し相手になってやってよ」
突然なことだったので、なんと返事したらいいのか、困ってしまった。しかし、靖子の顔を早く見たかったし、今の母親の声で眠りから覚めでもしたのか、彼女がこちらをうかがう気配もした。僕は、「失礼します」とだけ言って、部屋に入った。そこは、十畳ほどの広さがあって、大きな仏壇がしつらえられていた。その大げさな構えは、我が家の和だんすの上にちょこんと乗っかっている物とはえらい違いで、それだけでもう、かなり緊張した。鴨居には、いかめしい軍服姿の男だとか、見るからに古くさい着物姿の女だとかの写真が、幾枚も飾られてあった。何人もの初対面の人の目が、僕を見つめている。そう思うと、靖子会いたさばかりに、部屋に入ってしまった自分の軽率さを悔いた。
「あのぅ、僕……」
「知っているよ。お祭りで会ったんでしょう。靖子から聞いてる。さぁさぁ、お座りなさい。冷たいものでも、持って来ようかね」
そう言うと、靖子の母は、そそくさと出て行った。僕は、ようやくホッとして、黒曜石の瞳と向き合うことができた。彼女は、いつもより少し青白い顔をしている。
「やっちゃん、大丈夫か?」
「うん、時々発作が起きるの。喘息のね。急に暑くなったり、寒くなったりが、だめなんだ。風の日も……」
「よく分からないけど、苦しいんだろう?」
「セキがね、止まらなくなる。しまいに、息もできなくなって、死んじゃうんじゃないかって思う。りょうちゃんは、息が出来なくなったことってある?」
「うん。ずっと小さいときだったけどね、川で溺れた。鼻や口から、ガバガバ水が入ってきてさ、その後のことは、よく覚えていないんだ。気付いたら、いとこの姉さんに、助けられてた」
「ふーん、それとはちょっと違うかな。あたしの場合はね、手も足も、縛られたみたいになっちゃう。生き埋めにされたときってあんな風だよ、きっと。必死にもがくけど、だめなの……」
靖子の、そんな動転している姿は、見たくないと思った。というより、見るのが怖かった。
「もう、いいのかい」
「ええ、だいぶ落ち着いた。でも、今日一日は安静だって。寝てなくてはいけないけど、りょうちゃん来てくれて、嬉しいよ」
何だか、背中を押される気がして、
「やっちゃん、あげたいものあるんだ」
「えっ、あたしに」
「うん」
僕は、少しためらいながら、ポケットから小石を取り出した。
「これ、やっちゃんにあげる」
その石は、雫の形をしている乳白色に輝く塊だった。
「昨日、川原で見つけたんだ。綺麗だろう。よく見るとさ、細かいひびがいっぱい入っている。陽に透かして見てごらんよ」
寝巻きの袖口からこぼれ出た靖子の腕は、透きとおるほど白かった。人差し指と、親指で石を挟み、そのまま陽にかざす姿は、何か神々しい儀式を眺めているような気さえした。石は、指の間で不思議な光彩を放っていた。それは、彼女がわずかに動かすたび、光の揺らぎとなって、生き物みたいに脈うった。
「ほんとだ、綺麗。りょうちゃん、ありがとう。これも、あたしの宝物にするね」
「石は、守り神になるんだって」
「じゃあ、あたしの喘息も治してくれるかな」
「絶対だよ。こいつは、今まで見つけた奴の中でも最高だもの」
僕は、少しでも多くの「今」を、靖子の傍にこっそり置いておきたいと願った。
母親が、盆いっぱいにスイカを盛って、戻ってきた。
「おやおや。だいぶ元気になったね。りょうちゃんのおかげかね。さっきまで、死にそうな声を出していたのに」
「そんなことない」
靖子は、ちょっとすねて、口を「へ」の字に曲げた。
「りょうちゃんは、どの辺りに住んでいるんだい?」
僕は、だいたいの地理を、母親に説明して聞かせた。
「その辺だと、丸町の商店街が近いだろう?」
「えっ?」
「あの商店街には、あたしの女学校時代の友達がいる。鳴海屋って言う酒屋さんだけど、知らないかねぇ」
丸町周辺は、再開発という事で、新しいビルが次々に建てられている。丸町商店街なるものも、鳴海屋も、三十年後の世界では、もうその名残りさえ探す事はできない。返事をためらっていると、靖子が助け舟を出してくれた。
「かあさんは、あっち行ってて。りょうちゃんは、あたしに会いに来てくれたのよ」
「はいはい。りょうちゃん、それじゃたんと遊んでいっておくれ」
母親は、スイカを取り分けて濡れた手を、割烹着の裾でぬぐいつつ、笑いながら出て行った。
スイカは、冷たくて美味しかった。僕は、「出っ歯のおかげで、兄弟中、一番早くスイカを食べられるのだ」とか、「スイカと、ブドウの種では、飲み込むとどっちが盲腸になりやすいか」だとか、そんな他愛もないことを、靖子に話して聞かせた。彼女は、ケラケラ笑いながら聞いていた。余り笑いすぎるものだから、また、発作が起きやしないかと、心配になったぐらいだ。
ひとしきり笑うと、靖子は、急に真顔になり、
「りょうちゃん、死んだ人って見たことある?」
と聞いてきた。
「ああ。二年前に、ばあちゃんが死んだよ。近くに住んでたってこともあるけど、いつも、三味線弾いたり、長唄をしたり、元気な人だったろう。それがさ、お棺の中で静かになってた。それも、じっとしてるとか、黙っているとかいう程度じゃないんだ。何だか、今まで見た事もない静かさだった。知らないばあちゃんと、会っているみたいな……」
粉を吹いたような明るさの中で、冷たく、よそよそしく横たわっていたお茂さんの顔が、浮かんだ。
「そうだね。あたしもそんな気がした。半年ほど前、近くの田んぼに、アメリカの飛行機が落ちたんだ。この辺の偵察をしてたって、周りの大人の人たちは言ってた。友達に誘われて、見に行ったけど、それはひどかったよ。機体は黒焦げで、バラバラになってたし、二人の飛行士は、すでに死んでた。あぜ道に寝かせられててね、薄く開いている目が、まだ空を眺めているみたいだった。それなのに、この人たちは、もう人間じゃないんだって気がしたよ。あれが、死ぬってことなんだね。ひとりの人の靴が脱げていて、裸足の指先がギュッと曲がったままなの。それを見てたら、急に身体が震えだして、立っていられなくなっちゃった」
お茂さんの死も、飛行士たちの死も、同じ死には違いなかったけれど、どこか隔たりがあるような気がした。
「それからがだめなんだ。石蹴りしたり、千代紙を折ったり、母さんの手伝いしたりしてても、時々、ギュッとした指先が、浮かんできちゃう。あのときの気持ちが、ゲップしたみたいに出てくる」……
「大丈夫さ。じきに忘れられるよ」
とは言ってみたものの、言葉に力がない。前から、気付いていた。靖子の時代にいながら、どこか映像の中をさ迷い歩いている足場の悪さ。それは、ここにまだ馴染めていないから、ってことばかりでもなさそうなんだ。目の前で僕を見つめる瞳も、紅色に染まる頬も、手を伸ばすと、何の抵抗もなく突き抜けてしまうんじゃないか。これはみんな、夢の中の出来事なんじゃないか。そんな心細さに、いつもとらわれた。そういう僕に、彼女の思いなんて、ほんとうのところは分かりっこない。
話の矛先を変えたくて、周りを見回してみた。靖子の枕元には、いろいろな箱が積まれていた。みな二十センチにも満たない小箱ばかりだったけれど、細長いものもあれば、サイコロみたいにガッチリしたものもある。色も様々で、表には、何やら英語風の文字が印刷されている。
「やっちゃん、その箱何さ?」
「あっ、この箱」
彼女は、ニッと笑った。
「いいでしょ、この箱たち。いつも通っているお医者さんに貰うの。薬や、注射器が入ってた箱。もちろん、外国製よ。ドイツとかスイスが、多いんだって。とても、頑丈にできてるの。中を開けて見てごらんよ」
僕は、一番上に乗っていた濃紺色の箱を、手にとってみた。確かに、作りはかなりしっかりしている。それに、表に貼ってある薄紙も、僕らがよく目にする再生紙とは違って、上等なものである事は分かる。しかも、金泥で印刷された異国の文字は、いやがうえにも高級感を高めるというものだ。中を開けてみて、更に驚いてしまった。ベージュの布地で裏張りがなされていたからだ。そこには、一つ一つのアンプルを入れる溝なのだろう、等間隔に、凸凹まで付けられていた。
「ふーん。かなりすごい箱だね。でも、何でこんなもの集めてるの?」
「何でかな? ……あたし、ちょっとおかしいのかもしれない。今は、こういう時代でしょう。だから、皆は、戦争に勝たなきゃって言う。勝敏兄さんなんかは、気持ちの持ち方一つで、どうにでもなるって言う。それ聞くと、なぜか、お腹がキュッとして、嫌なこと起きそうな気がするんだ。そんな時、箱を開けたり、閉めたりすると、ホッとできるの。中におはじき入れて、音を出してみる。いろんな音がするよ。匂いも嗅いじゃうしね」
やっぱり、矛先は変えられない。
「そんなことしてると、ああ、こんなに丁寧に作られた箱だもの、きっとたくさんの人たちの手が、触っただろうなとか、たくさんの町を、通り過ぎてきただろうなとか、思っちゃう。それはそのまま、この箱たちが覚えている。音や、匂いでね。そう思わない? あたし、寝ていること多いでしょ。外国へ行ってみるの夢なの。箱たちみたいに……」
そう言われてみれば、物言わぬだけ箱の中には生々しい異国が、閉じ込められているように思えた。それは、蓋を開けるたびに、靖子の五感へと降り注ぐのだろう。そして、喘息の発作を抑えるみたいに、日々押し寄せてくる戦争という死の発作を、鎮めてくれていたに違いない。ただ、お茂さんの玉手箱とは比べようもないこの箱たちの空っぽさに、不幸の正体が見え隠れする。実は、何でも良かった。心に翼さえもらえれば……「異国へ、行きたい」ということは、とりもなおさず、「ここで、生きたい」という渇きにも似た願いに他ならなかった。それにしても、当時ほとんどの国が第二次世界大戦に巻き込まれていたのだから、「ホッ」と出来たのは靖子の幼さからか、それとも現実を知っていながら、そう夢みたいだけだったのか、僕には良く分からなかった。
「こんなこと言うと非国民だね。何でだろう? りょうちゃんには、平気で話せる。他の人には、とっても言えないのにね。時々、正一兄さんの教科書を見せてもらうけど、ベネチアや、ローマの写真を眺めていると、そこに立っているあたしって、想像しちゃうな。でも、今は戦争だから、ぜったいに無理」
「ふーん。ベネチアや、ローマへ行ってみたいんだ」
「そう、行ってみたい。って言うより、行かなきゃならないって気がする……」
僕は思わず、
(あと一年しんぼうすれば、この戦争も終わるよ、やっちゃん。そうなれば、イタリアにだって、ドイツにだって、敵国のアメリカにだって、どこへだって行けるようになる)
と言いそうになり、慌てて口をつぐんだ。(つづく)
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十年目の返信
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四の下
お茂さんが死んだのは、僕が六年生になったばかりの四月のことだ。庭の沈丁花が、甘く匂っていた。あっけない死だった。その日は、三味線教室の日で、時間になっても扉が開かないことを不審に思った当番のお弟子さんが、合鍵で中へ入ってみると、お茂さんは、布団の上で冷たくなっていた。人が誰にも看取られずに死んだ場合、それは、「変死」ということで、監察医なる人物の死因の解明が必要なことを、初めて知った。父さんも母さんも、「死人を調べるなんて、やめて欲しい」とずいぶん食い下がったけれど、決まりは決まり、もちろん聞き入れてもらえなかった。検察官立会いのもとで、急性心不全という診断が下された。病院から、棺に入れられたお茂さんが戻ってきた。それから、我が家は、てんやわんやの大騒動になった。父さんは、葬儀社や、知り合いに電話をかけまくり、母さんは、「部屋の片づけだ。掃除だ」といって、慌しく動き回った。僕ら兄弟は、流れに取り残された三羽のアヒルみたいに、ぼんやりと眺めているばかりだ。次の日、葬儀社や、近所の人たちが集まってくると、ようやく段取りが付き始めた。葬儀社の人は、実にてきぱきと、祭壇を作ったり、花輪を飾ったり、黒白の幕を張り巡らしたりした。それはまるで、学校行事を取り仕切る先生みたいだ。とうさんは、お悔やみに来る人たちに挨拶されると、「母も頑固者でしたので、独りがいいなんて言いはったものだから、今回のような寂しいことになってしまって……」と、愚痴とも、言い訳とも付かないことを繰り返した。母さんは台所で、近所のおばさんたちと、人寄せの準備におおわらわだった。そこから時々、笑い声なども聞こえてきた。お茂さんの死はそっちのけで、何だか訳の分からない行事が進んで行く。 他人 ( ひと ) のことは、とやかく言うまい。なによりも、哀しさもわかず、ちっとも涙も出ない自分が、一番訳が分からなかった。ただ、ボーっとした気分の中で、周りばかりが、目まぐるしく動き回って見えた。四六時中、イライラとしたイガが、転がっている気がした。
通夜が過ぎ、告別式も終わりに近づいた頃、葬儀社の人から、「おばあちゃんに最後のお別れをしなさい」と、白い菊を一本手渡された。そのまま背中を押されるように、棺の前に立った。その時初めて、お茂さんの死に顔を見た。このところ、彼女の家へ出かけていなかったので、久しぶりに会うお茂さんだった。それなのに、そこには、あの怒り顔も、笑い顔もなかった。閉じられていたとはいえ、いつもと変わらないややつり上がった切れ長の目と、薄くキリリとした唇はあるのに、なぜか奇妙に静かで、とても異質なものが投げ出されている、そんな感じがした。これは、僕の知っているお茂さんなんかじゃない。とたんに、恐ろしさとも、憤りともつかない激しい感情にわしづかみされて、手にした菊の花を投げ捨てるように置くと、棺の前を離れた。いたたまれなかった。お別れをするなんて心境には、もちろんならなかった。お茂さんと生前親しかった人たちが、涙ながらに別れを告げている声を後ろで聞きながら、何だか騙されたという思いを、苦々しく噛みしめていた。捨てられた子犬が、路地裏で鳴いている――それが、僕の初めて経験した、お葬式の風景だった。
それから数日して、父さんと、母さんと、僕の三人は、最後の片付けにお茂さんの家へ出かけた。長火鉢や和だんす、ちゃぶ台やテレビなど、大きなものがほとんど片付けられた部屋は、ぽっかりと大口を開けた洞窟みたいだった。もう、お茂さんの匂いはしなかった。父さんは、家の外回りを、母さんは、奥の部屋でお茂さんの衣類を整理した。僕は、歯ブラシや、櫛や、湯飲みなど小さなものを、袋に詰め始めた。しばらくして、何か忘れ物をしているような気がしてきた。何だろう? チラチラと影は浮かぶ。とても大切なもの。いつも、お茂さんと一緒にいて、つやつやと光っていて……そうだ、お札だ。明神さまのお札がない。外にいる父さんへ声をかけた。
「ねえ、お茂さんのお札、どうしたの」
父さんが、大きな植木鉢を両手にぶら下げながら、顔をのぞかせた。
「ああ、あれか。あのお札は、じいちゃんのだったからさ、ばあちゃんは、手放したくないだろうと思ってね。棺の中へ一緒に入れてやったよ」
お葬式以来ずっと絡まり続けていた糸が、少しほどけた気がした。その時、二人を呼ぶ声がした。奥の部屋に入ってみると、母さんが押入れをのぞき込みながら、なにやら中のものを物色している。
「奥のほうに、大きな行李があるのよ。お父さん、引っ張り出してくれない。おばあちゃんの宝物が、ザックザック入っているかも知れないよ」
相変わらず、お気楽な人だ。そう思いながら、僕もちょっとワクワクした。父さんが力任せに引き出すと、それは竹のひごで編んだ、見るからに古びた飴色の行李だった。蓋を開けると、強い樟脳の匂いがした。その中には、こぼれるほどの昭夫少年が詰まっていた。父さんは、小さい子供がそうするように、行李の前で行儀良く正座した。上のほうには、着古した幼い頃のズボンやシャツが、きちんとたたまれて収められていた。その下には、たどたどしい平仮名ばかりで書いた日記帳や、甲、乙、丙なんて不思議なランクで分かれている通知表が、黄色いシミ付きのまま積み重ねられ、一番底に、ひと組の小さな茶碗と箸が、何重にも布でくるんでしまわれていた。その茶碗には、ちょっとこっけいな戦闘機の絵がプリントされている。父さんは、茶碗を懐かしそうに両手で撫でた。
「初めて、父ちゃんに買ってもらったものなんだ。縁日に行ってね。あれが、父ちゃんと、母ちゃんと、三人で出かけた最後だったかもしれない。母ちゃん、こんなものまで取っておいたんだな……」
父さんは、「アハハ」と力なく笑い、何だか眩しいように目をホチホチさせると、そのまま俯いてしまった。それまで空っぽだった部屋に、何かが満ちてくる気配がした。膝の上でギュッと握られた父さんの手の甲に、ポタリ、ポタリと雫がたれた。肩が、こきざみに震えている。父さんは、泣いていた。その肩を、母さんが後ろからそっと抱いた。母さんも泣いていた。僕も泣いた。あの時はじめて、お茂さんの死は、ほんとうの揺るがしようのない出来事として、僕の身体の隅々にまで、沁み渡った気がする。母さんが、ぽつりと、「これは、おばあちゃんの玉手箱だね」と言った。たしかに、彼女の人生を色とりどりに詰め込んだ玉手箱に違いなかった。僕は、心の中でこっそり、「お茂さんの玉手箱」と言い直した。
その後しばらくの間、「お茂さんの玉手箱」は、我が家の話題の主役だった。父さんは、みんなから冷やかされたり、笑われたりしながら、まんざらでもなさそうにニコニコしていた。ほろ酔い機嫌の時などは、玉手箱の前にちょこんと座って、「これは、初めてデパートの食堂に行った時、着ていたいっちょうらだ。あの時は、母さんも、ずいぶんおめかししていたな」とか、「そうそう、この宿題のときだよ。時計の計算が面倒くさくてさ、そろばんでやったら、全部ばってん。お前のいい加減なところが許せないって、こっぴどくものさしで叩かれたっけ」とかブツブツ漏らしながら、ひとり悦に入っていた。ところが、み月、よ月とたつうちに、茶の間で「お茂さんの玉手箱」の話しを持ち出す回数は、めっきり少なくなり、それにつれて、お茂さんの姿も、我が家から遠のいていった。これが、「去るもの日々に疎し」ということ? それにしても、余りに早すぎやしないか。って、かく言う僕も、お茂さんのことを思い出すのが、ふた月にいっぺん、み月にいっぺんになってしまった。母さんなどは、自分が命名したくせに「お荷物なんだよね。捨てるわけにもいかないし」なんて、行李のことをいつの間にか邪魔者扱いしている。無責任極まりない。
……
そんな「お茂さんの玉手箱」を、ふっと思い出した。あの中には、父さんが子供の頃に着たズボンやシャツが、溢れるほど詰まっていた。その中から僕に合う服が見つかれば、これほど靖子の時代へ出かけるのにピッタリなものはない。行李を開いたときの記憶を、呼び覚ましてみた。父さんのたった一回、金賞をもらった作文やら、ちんちん電車を描いた絵やらは覚えていても、服のこととなると、ほとんど思い出せない。何だか、小さい子供用ばかりだったような気もする。もう少し、しっかり見ておけば良かった。でも、こういう事態を迎えるとは、あの時には思いもしなかったんだから仕方ない。とにかく、玉手箱を探すことだ。そして、今度はじっくりと品定め。きっとその中には、中学生の僕に合う服もあるだろう。
リビングルームに山積みされている、まだ荷も解かれていない引越し用ダンボール箱の奥に、行李は、ひっそりと置かれていた。引っ張り出して、さっそく蓋を開けてみる。二年前と同じ強い樟脳の匂いがした。おやおや、口では「お荷物だ」なんて言っておきながら、母さんは、この箱を大切に守っていたんだ。毎年のように、樟脳を入れ替えていたんだ。良い意味の「口とは裏腹」ってことだろうけれど、そんな風に恩着せがましくしないのがこの人の素敵なところだと、僕は、つねづね思っている。もちろん口に出しては、絶対に言わない。
中身は予想したとおり、昭夫少年が小学校一、二年生になる頃までの服がほとんどだった。それにもめげず探しているうちに、ピッタリとはいかないまでも、どうにか着られるものを数点見つけた。長ズボン一着に、半ズボンが二着。一着は、吊りバンドがあって、なかなかおしゃれだ。あと、半そでのYシャツ二枚と、国民服のような上着。これだけあれば、充分だろう。いろいろな組み合わせで、なんとかやって行けそうだ。さっそくリュックに詰めると、ずい道のある神社へ出かけた。ここの祠に、今まで集めた昭和十九年用グッズを隠してある。古着の何点か――これだって、玉手箱の本物と組み合わせれば、充分に使える。あと、去年まで学校の上履きにしていたズック靴を、泥で染めたもの二足。それから、小物として横丁の駄菓子屋で購入したメンコとベーゴマ。これらに昭夫少年の服が加われば、鬼に金棒だ。僕はここで、昭和十九年の少年に変身する。お茂さんの残してくれた父さんの服を着て、あの「パーン」と小気味良く響く柏手の音を背中に受けながら、靖子の待つ世界へ、時代の溝を飛び越えて行く。(つづく)
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僕は、「えっ?」という顔をした。
「といっても、あの人の背嚢と、その中にこのお札が一枚入っていただけ。とうとう、本人はもどらずじまいさ。背嚢って知ってるかい?」
僕は、かぶりを振った。
「背嚢っていうのはね、兵隊さんの背負うリックみたいなものだと思えばいい。おじいちゃんの背嚢は、それこそ泥まみれのぼろぼろだった。きっと、山や、海や、ジャングルで、おじいちゃんと一緒に戦ったんだろうね。背負うところに名前が書いてあって、それが微かに読めた。高杉作治上等兵ってね。ああ、あの人だと思ったよ。それに、このお札だ」
お茂さんは、手にした明神さまのお札を、目の前に掲げるようにした。 「つやつやして、きれいなものだろう。あの人と、あたしの懐でみがかれたようなもんさ。兵隊に行く前、あの人は、魚河岸の仲買人をしていたからね、朝が早い。どんなときでも、三時には起きて、この火鉢の前で一服する。それから、神棚の上にこのお札をのせて、深々とおじぎをしてから柏手を打つんだ。一回きり。たった一回きり、パーンとね。その音が、実に小気味よかった。その音を聞くだけで、今日も一日がんばれるって力が湧いたものだよ。戦後の惨めで情けない暮らしから抜け出したいと思ったら、無性にあの柏手の音が聞きたくなった。それで、あたしも真似をしてみたんだ。パーンというあの人の音が聞きたいばかりにね。そのおかげだけじゃないだろうけどさ、それからは、歯を食いしばって、いろいろなことがやれたよ。昭夫もいたしね。しばらくして、若い頃に習った長唄と三味線を生かせないかと、今の教室を開くことにしたんだ。まあ、贅沢は出来なかったけれど、何とか人並みには、暮らしてこられたのかな。だからね、泣いていたって何も変わりゃぁしない。明神さまのお札と一緒に、パーンと前に出るこったよ。人間、気風が大事だからね。おやおや、あたしとしたことが、長々とお喋りしちまった」
ちょっと照れくさそうに言うと、お茂さんは、あの取って置きの顔で、笑いかけてくれた。(つづく) |
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四の上
「お茂さん」とは、父さんの母親、僕にしてみれば、祖母にあたる人だ。彼女は、僕ら兄弟がもの心つく年頃になるとすぐに、「あたしのことは、お茂さんって呼ぶんだよ」と、命じた。周りにいる友だちの中で、自分の祖母をそんな風に呼んでいる者は一人もいなかったから、その呼び方は、少し常識から外れることだったのかもしれない。特に、母さんは、それを嫌がった。
「おばあちゃんにも、困ったもんだわ。孫たちに、〈お茂さん〉は、ないでしょう。〈おばあちゃん〉でなくてもいいからさ、せめて、〈茂子さん〉ぐらいにして欲しい。あなたから、何とか言ってやってよ」
と、父さんにこぼした。はたして、父さんがそのことを、お茂さんに伝えたか、どうか……僕は、知らない。ただ、その後もずっと、「お茂さん」に変わりがなかったのだから、彼女はその呼び方を、「困ったもんだ」とも、「孫たちにふさわしくない」とも、思わなかったのだろう。だから今でも、僕らは親しみと、懐かしさを込めて、「お茂さん」――そう呼ぶ。それに、いつも着物をしゃきっと着こなしていたお茂さんには、その呼び方のほうががぴったりだった気もする。
彼女は、僕ら家族が住んでいた家のすぐ近くで、独り暮らしをしていた。父さんが、
「母さんもいい年なんだから、ぼちぼち、みんなと一緒に暮らさないか」
と、勧めても、
「あたしは、ここが一番。長唄と三味線のお稽古もあるしね。生徒さんのためにも、ここを離れることは出来ないよ。それに、お前の所は、すぐ傍じゃないか……」
と、聞き入れなかった。もっとも、その頃の我が家の住宅事情では、お茂さんが入り込める余地など、これっぽっちもなかったと思う。また、父さんがそう勧めるのは、息子としてのちょっと後ろめたいリップサービスであることぐらい、どこかで感付いていたのかもしれない。とにかく、お茂さんは、独り暮らしを押し通した。
僕がまだ小学校の低学年だった頃、母さんが外へ働きに出ていたので、学校から帰ると、ほとんど毎日のようにお茂さんのところで過ごした。遊ぶのも、ちょっと早めの夕ご飯を食べるのも、お風呂に入るのも、みんな彼女と一緒だった。といっても、お茂さんは、そこらにいる「孫の手を取り、足を取り」といったおばあちゃんたちとは、一味も、二味も違った。長火鉢の前できちんと正座をすると、僕のしていることを、ただ黙って眺めている。時々、思い出したように懐からつやつやな木のお札を取り出すと、少し煙たい顔付きをしながら、「パーン」と柏手を叩いたりもした。
「お茂さん。その札なぁに?」
と、僕が聞くと、
「これは、とってもご利益のある明神さまのお札だよ」
と答える。
「ご利益って何さ」
「ご利益ってぇのはね、お願いをかなえてもらえるってことだよ」
それがどんなお願いなのか僕にはわからなかったけれど、無関心でいて、ちょっぴり祈りが込められたこの空間は、とても居心地が良かった。そして、僕がいたずらをしたり、元気がなかったり、ダダをこねたりしたりすると、口ぐせのように「人間、気風がだいじだからね」と、小さい者には、どうも要領を得ない言葉を口にした。おかしな話だけれど、四年生になるまで、この「気風」と「切符」を取り違えて思っていた。おかげで、「電車でお出かけ」という時など、なくしたら大変だとばかりに切符を固く握りしめているものだから、目的地に着く頃には、すっかりしわくちゃの汗まみれになってしまい、いつも母さんから叱られたりした。とにかく、切符は大切なもの。無くすなどもってのほか。そんなことをしたら、嘘をつかなくても、きっとえん魔様に舌を抜かれる。そう固く信じていた。僕なりに、彼女の教えを、忠実に守ろうとしていた。
お茂さんは、周りにいる他の女の人たちに比べて、口数が少なかっただろうと思う。ただ、短く、歯切れ良く繰り出される喋りは、素通りすることなく、いつも心に残った。それに、あの笑顔だ。彼女は、どちらかといえばきつい顔付きをしていた。面長な顔立ちに、薄い唇と、ややつりあがった切れ長の目。普段の顔をしていても、何だか怒っているようにしか見えなかった。その怒り顔が、話を終えるたびに崩れた。どこに隠れていたのだろうと思うくらい可愛らしく、愛嬌のある笑顔がこぼれ出た。あの顔がみたいばかりに、その頃の僕は、「ねぇ、ねぇ……」と、話をせがんでいたようでならない。
あれは、ぼちぼち梅雨も終わりに近づいた頃だった。垣根に巻きついた朝顔の花が、一つ、二つ、咲き始めていた。それは、春の盛りに、お茂さんと一緒に種を蒔いたものだ。
「夏休みの頃になれば、垣根はきれいな べべ を着たようになるさ」
彼女は、日に日に背を伸ばす朝顔を見るたびに、そう言った。
朝から降り続いた雨は、夕方になってようやく上がり、モヤがかかっているとはいえ、明るさが戻ってきた。水分をたっぷり含んだ空気のせいか、西に傾いた太陽が、熟れきったトマトのように、ブヨブヨと歪んで見える。そのうっとうしさを一緒に背負って来たわけでもないけれど、僕は学校から帰ると、お茂さんの前で、地団太を踏みながら泣き始めた。原因は、友人たちにひどいことを言われたか、仲間はずれにでもされたか……はっきり思い出せないくらいだから、たいした諍いではなかったのだろう。とにかく、泣き続けた。それなのに、彼女は知らん振りを決めこんでいる。相手にもしてくれない。その冷ややかさにますます腹が立ってきて、僕は激しく泣きじゃくった。終いに、自分ではどうにも止めようがなくなってしまった。しゃくり上げがおさまらずに、息をするのも苦しいぐらいだ。
「いい加減におしよ。いつまでそうやって泣いているんだい。泣いたって、何も変わりゃあしないよ」
お茂さんは、ぴしゃりと言った。
「いいかい、どうして泣いたのか、思い出してごらん。それが許せることだったら、きれいさっぱり忘れちまいな。どうしても許せなかったら、こんなとこで泣いていないで、相手に向かっていく他にないだろう」
「ヒック、ヒック。だって、僕は、ヒック、悪くないもん」
「だからさ、悪くないんだったら、あたしのところで、泣くことはないだろう」
「お茂さんは、何も分からないんだ。お茂さんだって、泣くことあるでしょう」
……
変な間があいた。「おやっ」という思いで、お茂さんに目をやると、彼女は、何だかぼんやりした顔で、夕日の差し込む障子窓を見つめていた。
「あったさ、ずっと前のことだけれどね。たった一回きり、どうしようもなく泣いたことがある」
彼女は、懐からいつものお札を取り出すと、手で包み込むようにしながら、話し始めた。
「昭夫が……あっ、お前の父さんだけどね、昭夫が父親を亡くしたのは、ちょうどお前ぐらいな年頃だったよ。昭夫の父親というのは、もちろんお前のおじいちゃんのことさ」
祖父が早くに亡くなったことは知っていたけれど、父さんがまだ、僕ぐらいに小さかった頃だったとは知らなかった。泣きじゃくるのはおさまっても、胸が、ザワザワした。
「あの人は、この前の戦争で死んだんだよ。もっとも最初は、行方が分からなくなったという知らせだったけれどね。まだ戦争が、始まったばかりの頃だった。当時は、日本中が〈勝てる。勝てる〉とお祭り騒ぎしていて、何だか、自分のところにだけ不幸が舞い込んだのが、信じられなかった。あの人にも、あたしにも身寄りというものがなかったから、あの人を失えば、この世で頼れるのは、小さな昭夫だけになってしまう。それなのに、兵隊一人の行方を捜して欲しいとしつこく頼むのは、何となく気がひけた。何でだろう。ほんとは、心配で、不安で、心細くてならなかったのにね。あたしの、やせがまんかね」
お茂さんは、いとおしそうに何度も明神さまのお札をなでた。その動きにつれて袂が揺れるたび、辺りにはお茂さんの匂いが漂った。
「それからずっと、お前の父さんと二人きりで、やってきたんだよ。戦争中も、戦争が終わってからも……あちらこちらで日本軍が負けるようになってくると、暮らしの方も、どんどんひどくなってきた。今の人には信じられないだろうけれど、お店に行っても、食べる物も、着る物も、普段使う物も、ほとんどないんだからね。お米や味噌、醤油。それに、石鹸や油などは、配給といって、それぞれの切符が配られる。その切符で、決められた量しか買うことが出来ないんだ」
(ああ、それでお茂さんは、切符が大事だって言うんだな)納得がいった。
「戦争中は、それでも良かった。不自由しながらも、まだ食べる物も、そこそこにはあった。それに、あの人は、きっと生きて帰ってくるという思いがしたしね。行方不明になっただけで、戦死したわけじゃなかったんだからね。何よりも、それが心の支えだった。
戦争が、終わってからがひどかったよ。日本は、戦争に負けて、めちゃくちゃになっちまった。毎日の暮らしも、人の心も。それに、あの人の消息は依然分からなかった。もうだめだろうって諦めがあった。日に日に、食べる物はなくなり、何とか買出しに行っても、おそろしく高い値段をふっかけられて、とても手に入れることなんてできやしなかった。一日、昭夫と二人で茶碗一杯のご飯、コッペパンを半分ずつ、なんて日もあった。その内、それさえ食べられなくなってね、道端の草をむしって食べたりしたけれど、余りの苦さに吐き出すほかなかった。それでも、口の中に何かを入れて、噛んでいるだけで安心できた。そうしないと、飢えの怖さで、気が狂いそうになるんだよ。昭夫は、見る見るやせ細ってくるし、目ばかりがギラギラしてね、一日中ぼんやりと屈んで、動こうともしない。これじゃいけないと思っても、どうすることも出来ないんだ。あれほど、せっぱ詰ったことはないよ。とにかく、昭夫の手を引いて、町の中をあてもなく歩きまわった。このまま何もしなかったら、この子も、あたしも死んじまうってね。あのときが、限界だったのかもしれない。突き当たりに一軒の乾物屋があって、その店先に大豆が紙袋に入れて置いてあった。大豆って知ってるだろう。お前の大好きな豆腐を作るお豆さ」
僕は、うなずく。
「言い訳するつもりはないよ。だけどあの時は、人さまの物を盗むという気持ちは、これっぽっちもなかった。そこに、あたしたちを生かしてくれる食べ物がある。ただそれだけだった。気付いたときは、紙袋を引っつかんで、昭夫を抱きかかえるように、夢中で駆け出していた。橋の下まで逃げてくると、紙袋を破くのももどかしく、大豆をがつがつと食べ始めた。生でだよ。決して美味しいものじゃなかった。硬いし、味はないしね。それでも、手を止めることは出来なかった。しばらくして、自分の盗んだ豆を、昭夫が一心に噛んでいる音に、気付いたんだ。変な言い方だけど、余り食べることに夢中で、そんな音さえ聞き漏らしていたんだね。何だかそれは、必死な動物のなき声みたいだった。我に返る思いがしたよ。子供にこんな辛いことをさせている……胸が、裂かれるように痛んだ。それが分かったとたんに、自分がつくづく情けなくなってね、情けなくって、情けなくって、オイオイ声を上げて泣いちまった。大人のくせに、恥ずかしげもなく大声を上げてね。そしたら、昭夫の手があたしの袖を引っ張るんだ。あのとき、あたしを見上げていた怯えるような、すがるような昭夫の目は、生涯忘れることが出来ない……お豆さんの代金は、お金ができてから、ちゃんと返しに行ったよ。ごめんなさいって。もちろん、謝って許されることじゃないけれどね。それから程なくして、おじいちゃんが帰ってきたんだ」(つづく)
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三
それにしても、おかしな話だ。あのグニャリと歪む「時代の溝」のほかは、これといって変わり映えのないトンネルを潜るだけで、三十年の時間を、行ったり、来たり出来るなんて。普通、そういう場面設定では、もうちょっとスリルとサスペンスがあってしかるべきだろう? たとえば、帰り道がなくなってしまうとか、途中で時間の森に迷い込んでしまうとか……それなのに、僕の場合は、となりの公園へ出かける気軽さで、トンネルを抜けさえすれば、そこに、三十年前の日本、戦争まっただ中の日本があった。もっとも、最初のうちは、ドキドキものだった。外に出たとたん、身体が砂になって跡かたもなく消えてしまうんじゃないかとか、ほんとはハエ男になっているのに、気付いていないのは自分だけなんじゃないかとか……まあ、そういった類いの心配で、思わず目をつぶってしまうこともあった。ところが、残念ながらというか、幸いにもというか、そんな突拍子のない出来事は、起こる気配もなく、いつまで経っても、僕は、僕、そのままだった。ちょっと気になることと言えば、トンネルを抜け出るたび、なぜか身体の内側が、外へ飛び出すという余り嬉しくないイメージに、つかまえられてしまうことぐらいだ。僕の胃や腸、脳みそや心臓とおぼしき物たちが、理科室の生体模型を見るよりも、はるかに生々しく、鮮やかな色合いで、口から溢れ出た。それは、ちょん切られたことも気付かずにうごめいているトカゲの尻尾みたいで、言いようもない気味悪さに溢れていた。そのうえ、なんの前触れもなく湧き上がるものだから、慣れるまで、かなりアタフタしてしまった。でも、靖子の時代の光を浴び、風に吹かれさえすれば、その気分は、たちまち中和してくれた。不安がなくなると、いつものお調子者が顔を出して、それまでの退屈だった夏休みを取り戻すみたいに、靖子の家へ通いだした。
彼女の時代へ出かけるとき、特に心掛けなければならないのは、「今どきのものを持ち込まない」ということだった。うっかりしていれば、たちまち化けの皮がはがれて、昭和十九年に暮らす「普通の少年」ではいられなくなる。とは言っても、昭和四十七年は、いつも背後霊のようにまとわりついていたし、隙あらば勝手にしゃべり出そうとするので困った。たしかに、三十年という隔たりは、周りの風景を、すっかり変えてしまうほどの歩幅があった。その一歩さえあれば、はいはいしていた赤ん坊は、自分の足でちゃんと人生を歩ける一丁前の大人になるし、オリンピックだって、七回も観戦できる。ひと昔を十年とするならば、昔が三回も重ねられた「大昔」ということだ。ましてや、片方は戦争中で、もう一方は、平和にどっぷり浸かった「今」というのだから、ただごとじゃない。何の気なしに漏らした言葉の端々や、使い慣れている素振りの一こまにでさえ、この隔たりは、遠慮会釈もなく顔をのぞかせた。ことに、当時(昭和四十七年代)の流行り言葉は、僕を悩ませた。その頃、仲間うちで会話するときに、必ずといっていいほど登場する「決め台詞」みたいなものがあった。それは、「シェー」(動作付き)だったり、「やったぜ、ベービー」だったり、「あつとおどろく、タメゴロウ」……だったりした。靖子と話しをしているとき、それらがポロリとこぼれ出そうになった。
「こぼしてはいけない、こぼしてはいけない」
と、思えば思うほど、心の中の天邪鬼が、「やっちまえよ」と誘惑する。何だか、のどの奥に猛烈な痒いところがあり、それを捕まえることも、掻くことも出来ないもどかしさに、心が目眩した。今思い返すと、そんなためらいや、戸惑いを、靖子は、うすうす気付いていたのかもしれない。
「りょうちゃん、びっくりしちゃうこと教えてあげる」
靖子と知り合ってまだ間のない頃、地面に大きな木陰を広げている桜の木の下で、そう話しかけられた。二人で、折り紙をしていたときのことだ。(もっとも、好きこのんでそれに参加していたわけじゃない)彼女の指は、休まず鶴を折りながら、黒い瞳は、クルクルと踊った。
「何さ?」
僕は、ちょっと身構える。
「あのね、蚕って知ってる?」
「ああ、名前だけは知ってる。それから絹糸を作るんだろう。母さんから教えてもらった」
「うん、蚕の繭からね、生糸ができる」
「糸を作っちゃうって、すごいよな。蚕って、どんな格好してるんだろう」
「なんて言ったらいいかな。りょうちゃんは、芋虫って見たことある?」
「見たことあるよ。モンシロチョウや、アゲハの幼虫だろ。あのプニュプニュしたやつ」
靖子が、プッと吹き出した。
(えっ、何か変なこと言ったか?)
「プニュプニュって、おかしい」
(しまった。プニュプニュは、だめだったんだ)
「でも、そんな感じがするね。そう、少し硬めだけど芋虫にそっくりだよ」
何とかセーフ。
「で、その蚕がどうしたのさ」
「昨日の晩ね、お隣りのじいちゃんが、どんぶりに蚕のサナギをいっぱい入れて、持って来てくれた。お隣りは、蚕飼っているから、いつもそうしてくれる。ばあちゃんも、母さんも、大喜びだよ」
「ふーん。やっちゃんちでも蚕、飼っているんだ」
「違うよ。食べるのにね」
「嘘っ」
……
「あっとおどろくタメゴロウ」と言いそうになって、あわてて止めた。おそらく気を抜いていれば、今度は完全なアウトだった。
「ほんとだよ。お蚕さんのサナギを、炒めたり、煮たりして食べる。あたしは、苦手だけどね。咬むとクチャってするんだもの。それに、見た目がすごいし……今は食べる物がないから、何でも食べなくちゃ、って言われるけど、あの感じがだめ」
早く、この話題はお終いにしたかった。
「隣りのじいちゃんは、すごいの。煮たり、焼いたりしない。この間、近所の子供たちを集めて、実演してくれた。まゆ玉を破いて中から生きたサナギをつまみ出すとね、そのまま口に放り込んで、ムシャムシャ食べちゃった」
いつもだったら、ここで「シェー」のポーズを決めたいところだ。
(危ない、危ない)
こんな気疲れする会話をしていたのでは、思うように指先が動くはずもない。僕が折っていた鶴は、見るも無残なプテラノドン(翼竜)みたいになってしまった。
「りょうちゃんて、不器用ね」
靖子は、こともなげに、少し意地悪く言い放った。
三十年の言葉の壁は、時々、こうした試練を与えたけれど、それにもまして僕を苦しめたのは、服装だった。言葉や、習慣の違いからくる失敗だったら、よほどのことでない限り、すぐに消え去ってくれる。それに、何度か失敗を重ねてみれば、だいたいのコツも、飲み込める。しかし、服装だと、そうはいかない。僕が動くたびに、「失敗」はこぼれ落ちる。例えそれが、最先端のファッションでなかったとしても、昭和四十七年の服装は、靖子の時代に、「変な感じ」をまき散らし続けるに違いない。隠しおおせるものじゃない。逆さまに言えば、テレビなどで昔の場面が流れている時の「同じに見えても、どこか変!」っていうあの感じ。これは、いただけない。とりあえず、僕は手持ちの服の中から、古そうな物を選び出すことにした。実は、ずい道のある神社で靖子と再会したときのスタイルが、けっこう昭和十九年になじんでくれた、そういうこともある。あの時の下は、バミューダ風の綿パン。上は、何の飾りもない白のTシャツ。綿パンは、兄のお古で、元々は褐色をしていたものが、何度か洗ううちにすっかり色落ちして、カーキ色になってしまった。靖子の時代の色、カーキ色。それが幸いした。おかげで、彼女は何の疑いも差しはさまずに、僕を受け入れてくれた。そうはいっても、着古したものなんてそうそうあるものじゃない。その上、無地というのはほんのわずかで、ほとんどが英語のロゴ入りか、キャラクターのイラスト入りだった。ミッキーマウスが描かれたTシャツに、BIG-JOHNのジーパンなんて、どう見たっておかしい。僕は、ほとほとまいってしまった。そんな時、ふっと、「お茂さんの玉手箱」を思い出したんだ。お茂さんの想いが、タイムカプセルのように詰まった箱。ひょっとすると、あの玉手箱なら、何とかしてくれるかもしれない……(つづく)
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