窯ぐれ日記

こともなき世を面白く・・・

3.11が突きつけるもの

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爺のつぶやき

はなはだ恐縮してしまうが、
今回は爺バカ丸出しの話である。
先週の水曜日に息子夫婦が孫娘を連れて帰省した。
五月の連休以来だから三ヶ月ぶりになる。
実は、「孫は可愛い」という通説を、馬鹿にしていたきらいがある。
ところが、現実となってみれば、目尻は下がりっぱなし、
鼻の下は伸びっぱなしで、自分自身あきれ返るばかりだ。
それにしても、赤子の成長は目をみはるものがある。
 
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三ヶ月前には、ただ寝転がってむずかるか、ニコニコするか、
おっぱいを欲しがるだけだったのに、
来月に一才を迎える今では、一人で「えんちゃ」ができる。
欲しいものは掴める。物まねをする。
ツボを心得たみたいに笑う。言葉らしき音を発する。
目に意味が込められている。(おそらく)
いやはや、人間という種は、
驚くべき成長を秘めた生き物なのだと、しみじみ思う。
これは、神から人間だけに授けられた
理性(ロゴス)というものが成せるわざなのだろう。
 
理性は、生涯人間を人間たらしめる資質の一つであり続ける。
そのもっとも純粋培養された表現形式は、科学的思考にある。
科学は、いつも僕らを後押しする推進力であったし、
人間社会を守る最強の武器でもあった。
ところがこの頃、その科学がおかしい。
原発事故に端を発し露呈された原子力の問題。
このまま進めばバイオハザードの現実的危険を
招来しかねない遺伝子組み換えの問題……等々。
一見すると、「輝かしい未来」みたいな臭いを漂わせているくせに、
よくよく嗅いでみれば、生理的恐怖感がこみ上げてくる。
僕だけの偏見だろうか。
十万年も処理できない放射能や、
得体の知れない有害生物に囲まれてしまう恐怖。
人間の力では、もはや取り返しのつかない領域へ突入してしまった感がある。 
 
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屈託ない孫娘の笑顔に出会うたび、
何のわだかまりもなく手を広げ、抱きついてくる姿を思うたび、
果たして、僕にこの子を抱きしめる資格はあるだろうか、
そんな、悔恨と不安にさいなまれる。
今ならば、まだ間に合うと思う。
今まで勝手気ままに使い込んできた神様からのプレゼントを、
謙虚に、身の丈にあったものとしなければならない。
困難を背負い込んだ今のためにも、
そして、未来の子供たちのためにも・・・

昨日の続き

もちろん、100パーセント、
意識魂で出来ている人間などいない。
そんな人物がいたとしたら、
彼は、神と呼ばれるだろう。
自分の心の中を覗いても、
悟性魂が堆積する中に、玉石混合みたく
意識魂が点々と散在しているような気がする。
 
僕の敬愛する人物に、坂本竜馬がいる。
むろん彼のことは、歴史上の人物としてしか知りようもないが、
そのわずかな足跡のかけらを集めてみると、
どうも、普段の彼は、
グダグダと悟性魂に引きずり回されていた様子がある。
とても不思議な個性だと思わせるのは、
そんな彼なのに、ひとたびことに直面するとたちまち豹変、
閃光のような光芒を放つ意識魂の輝きに包まれてしまうことだ。
 
こんなエピソードが残っている。
維新政府の閣僚名簿の試案を西郷隆盛に見せたとき。
西郷は、ひととおり読み下すと解せない顔をして、竜馬に聞いた。
「君の名が入っていないようだが、どうしてだ?」
それに答えて、竜馬は言う。
「オレは、そういう仕事が苦手だから」
それでも納得できない西郷は、問い返した。
「それじゃぁ、君は何をするつもりだ」
そのときの竜馬の返答がいい。
「そうさな、世界の海援隊でもやるか」・・・
後の外相、陸奥宗光が懐かしがって繰り返し語った逸話だから
それほど場面にウソはないだろう。
意識魂の無私無欲な清々しさにうたれる。
 
話はまったく変わって、
無私無欲といえば、なでしこジャパン。
彼女らの快挙に、ただ拍手拍手。
国の指導者たちは、スカだけど、
国民はたいしたものだ。
特に、日本の女性に乾杯!!
えっと、今日一日ビデオを繰り返し観ながら
美味い酒を飲むことにしよう。
どっぷり悟性魂だぜ(笑)
現代というのは、人性の中で二つの魂がぶつかり合い、
迷い悩み、新しい境地へと脱皮する
そんな時代に思えてならない。
二つの魂とは、フィヒテが言うように、
「自我が非我(他者)に規定される」姿と、
「自我が非我(他者)を規定する」姿をしている。
それを、19世紀後半の神秘学者ルドルフ・シュタイナーは、
悟性魂、意識魂と名づけた。
悟性魂にしろ、意識魂にしろ
言葉としてはきわめて抽象的なので分かりづらい。
ただ、魂という以上は、僕らが日常的に体験していることだから、
中身はいたって具体的なものだ。
 
たとえば、シュタイナーの言う悟性魂。
それは、他者(客観)の評価が自分の価値を決める魂のあり方。
受験に挑戦したり、コンクールに参加したり、
もっと卑近に世の流行に左右されたり、地位や名誉にしがみついたり・・・
この魂は、卑しいと思いながらも自分のベースとして、
ヘドロのように沈殿している。
 
片や意識魂とは、自我の判断が、
他者(客観)の価値を決め選択するという魂のあり方。
有形無形のもの作りに没頭しているときは、
この魂の泉にどっぷりと浸かっている自分を感じる。
子供が無心に遊んでいる姿などを見ていると、
自我の広がりが、
世界と融和し取り込んでゆくダイナミズムに驚かされてしまう。
その根底には、命がある。
あの大日如来が具現した大生命さえ見え隠れする。
というのは、ちょっと言い過ぎかも知れない。
もっとも、自我とは命で作られているのだから
当たり前と言えば、当たり前のことなのだけれど・・・
(ただし、命から生み出されない「自我もどき」もあるから、
即断は、危険きわまりない)
 
シュタイナーの優れている点は、
二つの魂を、人類史という時間軸から眺めえたことだろう。
19世紀後半から20世紀初頭にかけ、ニーチェや、
リヒャルト・ワグナーや、パウル・クレーを輩出した時代的雰囲気の中で、
近代合理主義、物質主義に裏打ちされた悟性魂では、
人類の未来はないと予感していた。
それは、その後いくつかの出来事の中で、
ほぼ明らかにされた。
第二次世界大戦後の富の分配のあり方、
911ニューヨーク・ツインビル破壊事件後の
グローバリズムの質的変容、
もちろん、CO2問題を含む地球環境等々、
数え上げればきりがない。
そのつど、二つの魂による葛藤は、先鋭さを増し続けた。
社会の構造としても、いち人間の心の問題としても・・・
 
その視座から原発問題を眺めると、
伏魔殿のようにおどろおどろしく、
奇々怪々であった永田町の姿が、
透けて見えるような気がする。
国会議員、官僚の多く、
電力会社をはじめとした経済界のほとんどは、
旧態依然たる悟性魂に縛られている。
いやはや、そのアナクロニズムには、
呆れかえるばかりだ。
経済界は、電力会社の脅しに縛られ、
国会議員は、経済界からの献金に縛られ、
官僚は、個人的人生の行く末に縛られ、
命からの大儀は、どこかへ吹き飛んでしまっている。
(「命あってのものだね」と言う慣用句を思い出したのは、
僕だけだろうか)
ただ、意識魂から語っている者が、
破れかぶれの菅直人と、「文句たれしい」と呼ばれる
河野太郎二人だけというのは、いかにも寂しい。
 
こうなった以上は、もはや「指導者」などに
頼っているわけにはいかない。
僕ら一人一人が、原発事故
(原発推進者は、今回の事故を
たまたま起きてしまったと言う。
しかし、現実は、「今まで、たまたま起こらなかっただけ」
という事実を、僕らに突きつけている)
を起こしてしまった国民として、その反省に踏まえながら
これから辿るべき道を、
選択しなければならないだろう。
命の伝道者として・・・
 
今回の出来事ほど、
悟性魂と意識魂の在り様を、本質的に表面化したものはない。
それは、人の行為がダイレクトに命とかかわるからだ。
だからこそ、日本人が選択する道は、
これからの人類の未来とオーバーラップしてくる。
幾世紀か後、2011311日「フクシマ」が、
歴史上のターニングポイントとなっていることは、
間違いない。
そのとき、人類滅亡の引き金を引いた民ではなく、
新しい感性を持った救世主として日本人の名が
刻まれることこそが、
今僕らの責任であり、覚悟であり、とるべき道なのだと思う。
大げさでなく、ことはかように重大であり、切迫している。
望むと、望まずにかかわらず・・・

時代

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                         画像をお借りしました
 
 
 
「生きる」ということは、
おそらく、とてもシンプルな姿をしている。
それなのに、この魑魅魍魎、奇々怪々さは、
どうしてだろう。
原発問題ひとつをとってもそうだ。
命という光源から光をあてれば、
内部に巣食う悪魔性は、おのずと照らし出される。
訳知り顔の説諭はいらない。
まして、発展という名のついた騙くらかしは、
もっといらない。
 
 
時代   
 
―山頂をはるか下に見た空で、眼球が輝くのである―
            (『美の近代』―モネとルドンより)


黄色い砂に埋もれて、
千年王国の夢にまどろむ。

スフィンクスの頭上に瞬く火星。
万里の海底に潜むアンモナイト。
獅子の尾を垂らしたアドバルーンは、
螺旋回転しながら、
紺碧の空に吸引される。

さっきから見据えている
一つ目よ。
お前は、泪をいっぱい溜めているくせに、
つれないのだ。
降り注ぐ叡智のかけらを集めて、
飲ませてくれようともしない。

だから……

僕は黄色い砂の中で、
ただ夢見る機械仕掛けの
人形になるばかりだ。
 

面子なんて・・・

永田町の茶番劇にうんざりしていたとき、
茨木のり子の詩に再会した。
 
 
 
自分の感受性くらい   (茨木のり子作)

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
 
 
 
倚(よ)りかからず  (茨木のり子作) 

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
 
 
 
スカッと爽やかコカコーラ、だぜ。
震災も、原発も、実は僕(私)の問題なんだ。
そうすれば、他人の振りを攻めなくなる。
そうすれば、被災された人たちへ
いま少し早い明日を届けられる。
 

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