窯ぐれ日記

こともなき世を面白く・・・

言の葉つづり

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野の道を行けば


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野の道を行けば
もみじ苺の実がなれり
黄金色したまろき実なり
食めばぷちと音して
甘き汁溢れきたり
ぷちぷちと
音たてて歩けり






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        野の道を行けば
        白き小花がそぼ降れり
        見上げれば車水木の花
        群雲となり覆えり
        風もなく音もなき天より
        そぼそぼと白き小花の降れり









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野の道を行けば
彼方から蛙の声が響けり
麓のみず田が
溶かし飴のごとく光り
豆粒ほどの農夫が
その中をゆんでめてと往けり
声だけとなりし蛙は
ひたすらに今日を鳴けり





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        野の道を行けば
        名もなき花が群れ咲けり
        そこだけ春の名残りを宿し
        ヴィナス誕生を謳えり
        誰に見せるでなく
        名を残すでなく
        ただ、花の群れ咲けり








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        野の道を行けば
        木漏れ日のちれぢれが注げり
        陽は痛々しく
        地を貫こうとも
        樹々の手に包まれし野の道は
        まだら模様にやすらげり
        歩を踏むごとに潜み入れば
        光と陰との饗宴は
        母の隠れし温情なり







花のもとにて春死なむ


ようやく散歩道の山桜たちが満開になった。
僕の好きなロケーションはこれ!

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この写真には二種類の桜が写っている。
後ろに控えるのは西行法師が好んで謳った「山桜」
前景としてあるのは「大島桜」

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ほぼ純白に近い花色で、形も大振り、
曲がりくねった山道で忽然と姿を現したりすると
心を吸い取られるくらい見事なのだ。
房総という土地柄だろうか、山野のあちらこちらに自生している。
もっとも、一般には花の見事さより、
桜餅を包む葉っぱの方で知られているかもしれない。

もちろんここには、ソメイヨシノは一本もない。
つとに知られているように、ソメイヨシノは
明治時代初期に改良種として誕生した。
極めてわがままな私見を語らせてもらえれば、
僕には豪華すぎてしまって、彼女の下だと、
ついつい酒を飲みどんちゃん騒ぎしたくなっちゃうのだ。
って、根っからがお祭り屋だから仕方ないか(笑)
ただ、「それでいいのか、爺さん」という戒めの声が
どこかで響いている。
まったくもって厄介この上ない。
でもこのわだかまりは、いにしえ人にもあったに違いない。
例えば、
「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」
               (在原業平 古今集)
や、
「春風の花を散らすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり」
               (西行法師 山家集)
さらに、
「花散らで月は雲らぬよなりせばものを思はぬわが身ならまし」
               (西行法師 山家集)

などは、桜の花と出会ったときのもう一つのざわめきを詠ったものだろう。

坂口安吾は、著書『桜の森の満開の下』で、その辺りの機微をつぶさに語っている。

「……近頃は桜の花の下といえば人間がより集って酒をのんで喧嘩していますから
陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、
桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、
能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して
桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて
狂い死して花びらに埋まってしまう
(このところ小生の蛇足(だそく))という話もあり、
桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。……」

人間の心の中に二匹の鬼(深層心理と、表層心理)が棲んでいると同じように
自然界にも二匹の鬼は潜んでいる。

この頃自然災害(人災も含めて)に遭遇するたび
「想定外だった」という言葉に出合うけれど、
この姿勢は、僕らが自然の一番深層に寝起きしている鬼を
忘れ果てているからにほかならない。
東日本大震災しかり、それによって引き起こされた原発の崩壊然り、
近くは栃木県で起きた雪崩による痛ましい事故然り……
今どきの日本人(当然、僕も含む)は、自然を組みしやすく利用しやすい
優しいだけの隣人ぐらいに思っている節がある。
ところがどっこい、そんなお人よしじゃない。
それどころか、人間なんぞより遥かに優れた知略と腕力を持っている、
計り知れないくらい恐ろしい存在なのだ。

だからかつての日本人は、鎮守の森や入会地を結界として、
その奥の物の怪や八百万の神々が跋扈する深層には
近づかなかった(近づけなかった)。
彼らが人間の浅知恵など簡単にひねりつぶすことを知っていたからだ。
自然をどうにかできるという思い込みは、
江戸中期以降、貨幣経済が進んだことと、
さらに明治維新の「富国強兵」策で加速されたような気がする。
もちろんその底流には急を告げる西欧化というものがある。
西欧化全てを否定するわけじゃないが、
(いや、ほとんどはありがたかったのだが)
不幸なことに日本ではその波が余りにも急で激しすぎた。
漱石の子規に宛てた書簡を想い出す。
「レトリックではなくアイデア(イデア)です……」
浮草の上に乗っかったような知の軽さを
彼は文学という形で生涯告発し続けた。
「どうにかしたい」と心がけつつも、
結局は「どうにもできない」という覚悟と用心だけは
怠らない方がいい。
この気持ちさえあれば、
原発などという恐ろしい環境破壊物は造らなかっただろう。

二匹の鬼は二匹の鬼のまま育てていかないと
今に取り返しのつかないしっぺ返しを
自然から受けるような気がしてならない。
「ねがわくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ」
             (西行法師 新古今集)

人間は自然界から生まれ出て、
またそこへ戻る運命にあるのだから……



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今朝の1時過ぎ、七番目の孫娘が誕生した。


      『百萌(もも)、ラプソディー』


ものみなが揺らぎ、さざめき、
歓喜するこの季節に、
君は生まれた。

百萌(もも)よ、その小さな星。
時計の針が真夜中を打ち、
新しい朝を告げる時、
おびただしい祖先の面影に見送られながら
君はこの世の一歩を歩き始めた。
その力強い足と、俊敏に動く手と、
梟のように先を見据える瞳をいただいて……

君の知る宇宙は
その分だけ多様な触角を伸ばせる。
疲れを知らない足は
君に「未知」という美味しい食べ物を
与え続けるだろう。
器用に動く指さきは、
君に「創造」という謎を
問い続けるだろう。
そして、
大海原に点る灯台のように穿たれた瞳は
君が誰で、どこへ行くのかを
教えてくれるに違いない。

百萌よ、この小さな星。
君が小さければ小さいほど、
そこに込められた森羅万象は、
色濃く重たい。

君の口は泣くだけで
意味のある言葉は吐かない。
君の瞼は閉じられたままで
いつも内側ばかり見つめている。
君の耳は、
「母」という大地の声だけを
聞き分ける。
その柔らかい胸と、
乳という豊饒な香りしか
信じるものがないからだ。

百萌よ、僕の小さな星。
そこが出発点であったことを
忘れないで欲しい。
これから幾多の艱難辛苦に出合おうとも
この世の終いにはきっと、
かつて子守歌として聴いた
母なる賛歌は響いている。




農業は生き方です

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今日は、本の紹介。
『農業は生き方です』(新宿書房、編著―梅原 彰)
副題に「楽農主義宣言」とあるように、
農業実践者たちの汗と、涙と、笑い、てんこ盛りの
読み終わってずしっと腹にこたえる一冊となっている。
梅原 彰氏は高校時代の同級生。
通称「梅さん」で、もう一人の友人と数年ほど前から
下町散策&飲み会ツアを組む胸襟を開いた友でもある。
半生を千葉の農業興進にかけ、リタイアした後も
「さざなみ」という農業ミニコミ誌を発刊し、
農業者同士のコミュニケーションと消費者への啓もうを図ってきた。
その功績は大きい。
このたび集大成として、「さざなみ」に登場した農業者を中心に
生の声を綴った農業ドキュメンタリー、
あるいは農業啓発書としてこの本を世に出した。

僕はある意味都会育ちだったので、
大学に入るまで「農業」というものを
都会人の視線でしかとらえることができなかった。
大学に入り、そのころ流行りの底の浅い学園紛争に
つくづく嫌気がさしたころ、
ひょんなことからある農村で暮らすことになった。
彼らとの生活は、まったく青天の霹靂。
料理として並んだ野菜しか知らなかった僕には
種から芽を出し、日々お天とう様と雨の恵みを受けながら、
茎が伸び、葉が茂り、根が太る生の野菜たちは
ドラマチックそのものだったし、
おっちゃん、おばちゃんの仕事が休む間もなく続くことや
労働基準法などお構いなしの夜中のコンポ―作業や、
夜明け前、市場へ出荷(その農村は農協を使わなかった)
するトラックに同乗し味わう疲労困憊した眠気や
……そんなこんなが別世界の出来事のように、想い出される。

残念なことに、結局、彼らと暮らし続けることはできなかった。
彼らにとって、僕はいつまでも都会育ちの「学生さん」だったし
僕は、彼らに負債を抱えているような後ろめたさを
ぬぐいさることができなかった。
その「後ろめたさ」さは、僕個人の問題じゃなく、
都会というものが数百年の間農村を食い物にしてきた
罪悪感からなんだと気付いたのはずっと後のことだった。
思い返してみればいい。
戦後だけでも三回、
都会は農村に立ち上がれないほどのダメージを与えている。
一回目は、僕らが子供のころ。
流行り言葉にもなった「集団就職」で、
農村は貴重な労働力を失った。
二回目は列島改造というブルドーザーのような力に押しつぶされ
農地そのものを奪い取られた。
そして三回目。(まだ未確定とはいえ)
TPPなるあたかもグローバルに仲良くやりましょう的な甘言を弄しつつ、
農業そのものを大企業化しなければ立ち行かなくなるよう仕向けられて……

こんな風に踏んだり蹴ったりされて、農業が健全に育ちますかってぇの。
今の日本は自給率が40%だという。いや、それ以下かもしれない。
有事のチャンバラごっこばかり考えずに、
有事にこそ国民の食――自給率を上げることに取り組んで欲しい。
……と、偉そうに国の責任ばかりを書いてきた。
ところで、下々の僕たちも彼らと負けず劣らず農村を
食いものにして来たんじゃあるまいか。
いろいろなケースはあるけれど、この頃特に目につくのは、
自称「自然大好き」という都会人の農村破壊。
もちろん、本当に田舎暮らしを愛し、大切に想う都会からの移住者は
たくさんいる。
ただこの嘘っぱち人間たちは狡猾だから、カメレオンのように変色して
善意の人々の間に溶け込んでしまう。
気づいた時にはすっかり辺りが荒らされるはめになる、やれやれ(笑)
我が家の周りにも、TVのタイトルじゃないけれど
こんな「二匹のおっさん」がいる。
彼らのことは以前にも書いたのでご承知の方は多いだろうが、
とにかく人様の土地もかまわず草を刈り木を切り倒す。
まっ、生活にどうしても使うなら致し方ないけれど、
それこそ何十年も放置されてきた場所なのだ。
何度も言うようだが、人間には藪に見えても、
雑然とした森に見えても、
自然にとってはバランスがいいからそういう姿になっていることを
忘れちゃいけない。(住宅街で、治安のためというなら別)
彼らは、生態学的なんの根拠もなく
ただやみくもに、ゴルフ場のように草を刈り木を切り倒す。
ここは自然公園(普通地域と、特殊地域)内なのだから
なおさらのこと、
牧童さんも「貴重な野草が全滅だよ」とこぼしていた。

とっ、ところがだ、このおっさんたち、
何を血迷ったか、自分たちが丸裸にした場所に
今度は木を植え始めた。
それもなんだか街路樹にするような苗木で、
同じ種類ばかりを……
当日は十数組みの若い親子を呼び寄せ、植えさせていた。
名目は、植林。参加費は500円徴収したとか。
えーーっ、えっ、植林って、僕の認識が間違っていないならば、
失われた(あるいは奪われた)緑を保全する行為じゃなかったっけ。
とするとだよ、このおっさんたち、自分らで緑を奪っておきながら、
緑を植え付けている? ……ああ、頭がこんぐらかってきちまう。
その上、彼らはいいことをしていると思っているらしいのだ。
僕のキャパシティーが狭いのか、彼らがおかしいのか……
それにしても、「善行」に500円取るとはせこくねぇか(笑)
最も問題なのは、まっさらな子供たちに、
今ある自然を取り払って
人工的に木を植えることが自然保護だという
誤った認識をあたえてしまうことだ .。
「植林」とは自然を保護するための苦肉の策であることを
忘れちゃいけない。
しなくて済むならば、それに越したことはない。
ゴミを埋め戻した某私立学園の理事長と同様に、
「教育をなめんなよ」と言ってやりたい。

怒りに任せ話がそれてしまったけれど、
他から農村にやって来る者たちは、
自分たちの行いがどれほど農村を乱すか
常に細心の注意を払わなければならないだろう。
自分たちがやりたいことだから、都合がいいからと、
無節操に行うのはいかがなものか。
とにかく、程度の問題である。
こうした不届きな心を正すためにも
農業者がどれほど農業に夢を見、襟を正し、
たゆまぬ努力を注いでいるか、
そして自然への変わらぬ畏敬を持ち続けているか、
ぜひこの『農業は生き方です』(新宿書房、編著―梅原 彰)
を、読んでいただきたい。

* 書いていて、自分の一方的な発言に気色悪くなった。
  ぜひ、反論のおありの方はコメントをお寄せください。
  但し、メタファーばかりの文章で、
理解不能なのは勘弁ください(笑)
理解力不足ですみません。



♪ 春の日の花と輝く

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僕の出た高校は、やたら祭り好きなところだった。
まっ、そのころの教師も生徒もお祭り屋ってことかもしれない…・・・(笑)
地獄の遠泳大会や、スキー教室を入れれば
年数回、お祭り騒ぎすることになっていた。
その中でも合唱祭は忘れることができない。
とにかくクラス中が変な熱気に包まれ、
薄っすらと髭面の兄ちゃんたちや、
おかっぱ頭から解放された姉ちゃんたちが、
ミューズ神の洗礼を受けちゃうんだもの、
酔っぱらわないわけがない。
その後遺症(笑)からか、数年前に「玲瓏音楽祭」なる
OB・OGの合唱祭まで立ち上げてしまった。

で、昨年その催しの二回目があった。
もちろん僕ら高校21期生も合唱団を組み参加。
(もちろん、僕は聴くだけの方―笑)
一曲目が『春の日の花と輝く』だった。
この曲は入学したての合唱祭で歌った課題曲。
新しい仲間と、新しい暮らしに踏み出した、
あのちかちかしちゃうような期待感と、
春先のどこかアンニュイな想いが
まぜこぜとなり胸にこみあげてくる。
ああ、春だねぇ。

    ― 雨上がりの朝―

雨上がりの朝
辺りは甘い土の匂いと
濁りのない針葉樹の香りに
包まれている

牧草地の頂に立ち
目を閉じる

小鳥たちのさえずりは
色合いをなし
吹く風は
柔毛(にこげ)のように
優しい

瞼の裏には
血の色が広がり
心臓のビートが
遠い潮騒のように
聴こえる

シンプルに
シンプルに生きるとは
たったそれだけ



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