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三月の個展会場は銀座だったから、
出稼ぎ(というのか?―笑)には、京葉線と
地下鉄・有楽町線を使った。
往きの場合、どちらもゆったりと座っていける。
おかげで、会期中に新書一冊を読み切ることができた。
養老孟司の『遺言』。面白かった。
どうもこの頃この手のテーマに弱く、
自然と触手が動く。
まっ、お年頃って事だろう(笑)
以前から彼は、意味だけを追い求める
都市文化というものの脆弱性について
語って来たけれど、
その背景にある感覚所与と人間の意識
――概念化との齟齬を軸にした本書の語りは、
やはり「遺言」ともいうべき示唆に充ちていた。
もともと僕らが他者(物)と出会(合)う
出会(合)い方は、感覚所与に他ならない。
黒は単に黒であり、丸は単に丸でしかない。
そこへ意味という価値が付与されると、
人間の意識は概念化の道をたどり始めるらしい。
たとえばここにリンゴがあったとしよう。
犬や猫を始めとした生き物全般は、
感覚所与を抜け出せないから、
リンゴはいつまでも「The Apple」以外の何ものでもない。
ただ人間だけは、様々なThe Appleを集めて、
「An Apple」を抽象できる。
この概念化(抽象化)の道は、
言語の働きと密接に繋がっている。
というより、言語そのものと言ってもおかしくない。
だって、概念とは言葉で組み立てる他に方法がないでしょ。
さらに続けて彼は、
人間に与えられている特異な脳の仕組みをつまびらかにする。
なるほど感覚所与に生きる動物たちは、
視覚も聴覚も(そのほかの諸感覚も)
バラバラな領域で働いている。
ところが人間に限っては、
この視覚脳と聴覚脳との間に重なった部分――
積集合(二つの集合の重なり)があると言う。
それこそが人間にしかない言語脳(感覚)で、
確かめてみればいい、
眼で文字を追っている(視覚)とき、
僕らは同時に響きとしての文字を読んでいる(聴覚)。
ほらね、言語ってやつは視覚的なのか、聴覚的なのか
分かりゃあしない。
そしてまた、人間に特有なこの機能が
世界に意味(無意味)を付け加え、
世界を概念で覆う。
そうした風景が唯一無比の真実だと思いがちだけれど、
ほんとうだろうか。
単に「人間の意識」という特別なレンズが、
そう見させているだけじゃないか……
と考えるのは、さほど突拍子無いことではない。
養老孟司は、そのポジションに立ながら、
「都市文化の脆弱性」(意味あるものだけを残す抽象性)
ってなものに一抹の不安をずっと抱え続けてきた。
ただ本書には、彼の逡巡する姿ではなく、
その障害を飛び越えた遠い眼差しも感じとれる。
それが『遺言』と名付けられた所以なのかもしれない。
視覚に訴えるのが一番手っ取り早いので、
彼が解き明かす言語脳の在り様を図にしてみる。
となるけれど、
これは単なるイマジネーションの産物
じゃない。
解剖学者としての
きわめて生理学的裏付けがある。
他の動物たちと比べ人間の脳は、新皮質
の異常に大きくなってしまったのが
特徴であるらしい。
この広がりの中で、
視覚、聴覚それぞれの情報が
電気的パルスに変換され
混ざり合う連合野なるものが
形成されるというのだから、
視覚脳、聴覚脳と言語脳との交わりは、
科学的にもうなづけることなのだ。
この図をじっと眺めていると、
言語脳の成り立ちだけでなく、
あるセクションの出現を目の当たりにできる。
それは、太線で現わされた境界域で、
一方は視覚脳と言語脳の接するところ、
一方は聴覚脳と言語脳の接するところ。
養老孟司はこれらのボーダーラインを、
芸術(もの作り)活動が生み出される場所とした。
視覚脳と言語脳の境には、
絵画や彫刻、さらに広げれば
象形文字やPCのアプリなどが含まれ、
かたや聴覚脳と言語脳の境には、
メロディーや歌詞、詩や擬態語などが生まれる。
概念化(抽象化)を極めていく都市文化と、
感覚所与が息づく自然界とが拮抗する中で、
これらの活動(古くから、絵画や彫刻の造形活動をアポロン的、
音楽活動をディオニソス的と言いならわされた)が、
営々と続けられてきたことに
彼は一縷の希望を見出しているようにも思える。
都市文化の概念化(抽象化)は、
変化のない生活ってものをかたち作る。
夜の来ない昼のような明るさを手に入れ、
部屋に入れば、
(この頃では地下道なんてやつも張り巡らされている)
風も吹かず、雨も降らず、気温は過ごしやすい温度に
設定されている。
ここでは「変わらないこと――いつも同じこと」が、
至上の命題で、どんどん、無色透明、無味乾燥、
無声無臭になっていくのが、都市文化と言えなくもない。
ところが自然界はそのまま感覚に反映される場所だから、
時々刻々変化し、安定を剥がし続ける。
なるほど、両者の狭間に立つ芸術(もの作り)活動は、
自然界に左右される感覚を、
作品という概念に定着させる行為
と言えるのかもしれない。
いわば両岸(感覚と概念)から吹く風に、
いつもさらされ、動き続ける舟に似ている。
あれれっ、これって以前ブログに書いた
「情念と理性の狭間にある芸術(もの作り)」と
同じような響きがあるじゃないか。
というよりスタンスはそっくりそのまま。
ただ、風を送る両岸の風景が違う。
養老孟司の言う岸辺は、感覚と概念(抽象)が
向かい合っている。
「情念と理性」が向き合う岸辺も変わらなく見えるけれど、
仔細に眺め返せば、横と縦ほどの違いがある。
養老孟司は感覚所与から概念化(抽象化)していく道程を、
山に例えて話しを進める。
山裾の広がりは、
感覚所与の多様性(個別性)を現わし、
それが概念化(抽象化)されるにつれだんだんと細み、
やがて頂上の一点に収れんする。
「なるほどね」と、うなづいちゃいけない。
ちょっと待て!!(笑)
どうもこの山は豊かな山容をほこるマッスじゃなく、
絵に描いた薄っぺらなものにしか見えない。
おそらくそれは、中国の故事(白馬非馬)を借りて彼が語る
「すべての馬の特徴を含んだ理想的な馬」
……山の頂にいるたった一頭の馬、
彼はその馬を「プラトンのイデア」だと言うのだけれど、
いわば、A Horseが、すそ野にいるThe Horseと同じ平面
――唯物という領域でしか語られていないからなんだ。
そんな世界は絵画的な横の広がりから抜け出すことができない。
けっきょく、行きつく先は
カントの4つのアンチノミーによって
がんじがらめにされてしまう。
残念ながら一頭の馬に絞り切れない。
更に付け加えれば、
プラトン自身が語る「イデア」は、
The 〇〇の多様性(個別性)と、同一平面上にありはしない。
彼の残した有名な逸話を紹介したい。
「長い間(ひょっとしたら生まれてからずっと)
穴倉で暮らす人間がいたとしよう。
彼が存在として認めうるものは、
わずかなろうそくの光で壁に映し出された
影(二次元)ばかりだ。
しかし、外には光り輝く別世界がある。
この異次元世界がイデアなのだ。……」
どうだろう?
ここでは横の広がりだけでない縦の深度みたいなものが
予感されはしないだろうか。
それはまた、カントによって逼塞を余儀なくされた人間理性を、
理想――祈りのうちに乗り越えようとしたフィヒテ以降の
ドイツ観念論、近代で言うならば、19世紀末の神秘主義、
ブーバーの「我・汝」やユングの「意識・無意識」に
通じるものがある。
やはり僕としては、両岸の旗振りを「感覚と概念」じゃなく、
「情念と理性」の方に軍配をあげたい(笑)
とまれどちらにしろ、
芸術(もの作り)活動というものが、
両岸の狭間にある理想――祈りにも似た行為であることに
変わりはなく、
そしてまた、風に吹かれて進む舟のように、
肯定的未来へ向けたベクトルであることに間違いはない。
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言の葉つづり
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【フィンランドの友】
フィンランドに住むFBの友人Markkuさんから
絵が送られてきた。
彼の描くものは花や昆虫、動物がモチーフで
根底にアニミズムの気配を感じる。
もっとも、
彼の周辺にはケルトやヴァイキングの神々が跋扈する
スピリチュアル・スペースが広がっているのだから、
あたりまえと言えばあたりまえのことか。
どこか日本の古代神道とも共振する部分があって嬉しい。
さっそく額に入れて飾ろうっと。
A4ほどの封筒に貼られた切手が
またいい。
ムーミンですよムーミン。
これは、
ムーミン大好きな次男坊の娘に……
【ちびっ子禁断症状?】
ひと月あまり、やれ窯焚きだ、やれ器の手入れだ、
やれ展示会だってことで、
ちびっ子たちに会うことが出来なかった。
気持ちのどこかが硬直してくるような気がしていた。
先週の土曜日、三男坊家族と、
日曜日には長男坊家族と久しぶりのご対面。
たちまち心はほぐれた。
三男坊の息子たちは蕪や大根を抜いたり ハーブの匂いを嗅いだり、石やレンガを
ひっくり返して
冬眠している虫をさがしたり、
相変わらず足の向くまま、気の向くまま
いっ時も休むことを知らない。
もちろん現代っ子だから
部屋に入れば動画でアニメを見たり
TVゲームに興じたりしているけれど、
このバランス感が嬉しい。 もちろん今のご時世、映像機器を全否定などできない。
ただ、頼り過ぎるのも、またいかがなものかと思う。
だって映像から情報を得ているときは、
視覚と聴覚しか使わないじゃん。
それに比べて自然の懐へ入れば……
大根を抜いたり虫に触れば触覚が、
ハーブの匂いを嗅げば嗅覚が、
ちょっとつまんで口に含めば味覚がと、
ことほどに全感覚を総動員できる。
だから、
映像から得られる能力は知識という「量」となり
自然から得られる能力は知恵という「質」になる。
これからの時代どちらがちびっ子たちを幸せにできるのだろう?
次の日、長男坊家族と一緒に
近所のダム湖で開かれている
和太鼓の演奏を聴きに行った。
こちらもずしんとした体験。
視覚、聴覚だけじゃなく、
腹に響く触覚も一緒に味わえる。
辺りには人いきれと、
美味しそうな出店からの匂い。
風のひんやりとしたそよぎが頬をなでる。
借景に、八分咲きぐらいの桜と、 湖面を光らせたダム。
ねっ、オールラウンドでしょ(笑)
ちびっ子たちはこうして根太く
バーチャルでない記憶ってものを
手にいれる。
バーチャルがいけないと
言ってるんじゃない。
五感を働かせなければならないときに、
視覚と聴覚に頼り切った狭い間口にしてしまえば、
後々、バーチャルから豊かな想像(創造)を
生み出すことはできない。
知識は測りやすいから、ついついおもねってしまう。
猛省すべきは大人にある。
【ひとひらと……】
(樹木葬霊園入り口にある山桜の大木)
今年の彼岸は展示会の最中で墓参りできなかった。
今日(4月3日)遅ればせながら
父母の墓前に手を合わせた。
ここへ来るといつも西行の歌を想い出す。
「願わくは花のもとにて春死なむ
その如月の望月の頃」 西行
返しに、「ひとひらとひとひらと散る桜かな」
潤太
春に花咲き、若葉が萌え、 夏に入道雲立ち、蝉しぐれ降る。
秋に色づく木々に、律の調べを聴き、
冬に山々はうっすらと雪景色する。
こんな地に父、母は眠る。
やがてそう遠くない将来、
僕も妻とともにここが終の棲家となる。
さぁこれから、「死出への不安」ではなく、
終の棲家が待つ安堵を少しずつ育てていこう。
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(画像は、お借りしました) ラジオ第一放送に「〇〇相談室」風な子供番組がある。 ちびっ子たちの投書や質問、自己紹介やクイズなど
盛りだくさんなバラエティー仕立になっている。
実はこれ、似たようなものを含めれば長寿番組で、
(放送局もTBSからNHK・第一にかわってるけど)
僕がまだ教員をしていた頃、――かれこれ40数年前から、
だいたい同じ趣向で続いている。
その頃の教え子のK君はここの常連だったことを想い出す。
そんな懐かしさも含め、
時々聴くともなく耳を傾けているのだけれど、
先週のテーマの一つが、
節分間近ってこともあり、『桃太郎』だった。
DJが、マイクの向こうのちびっ子たちに呼びかける。
「みんなが鬼に会ったら、
桃太郎みたいに戦う? それとも逃げ出す?
二択だけどどちらかな? 」
実にべたな質問で、
そのうえ大人社会の認識の安直さまで露呈する。
「これって二択じゃないだろう? 」
もう一つ大切な選択肢が抜けているように思える。
「鬼と仲良くなる」……
視野の狭い輩には、思いもよらない発想である。
あの児童文学・『泣いた赤鬼』が不朽の名作である所以は、
ここにある。
それはまた、大人社会ががんじがらめにしている概念
(鬼は邪悪で怖く、人間に害をなすもの)に対し、
実に豊かで示唆に富んだメタモルフォーゼをしてみせる。
以前ブログに書いた「カントの悪魔」とは、えらい違いだ。
あの悪魔たちは、いっ時争いをやめられたとしても、
人間にとって、邪悪な害をなすものに変わりなかった。
『泣いた赤鬼』のあら筋を手短に紹介すると、
こんな風になるだろうか。
――村人たちと仲良くなりたい、
ちょっと変わり者の赤鬼がいた。
いろいろ手を尽くしてみるけれど、
「鬼はこわいもの」と、思い込んでいる村人たちには
なかなか受け入れてもらえない。
願いかなわずしょぼくれている彼を見かねて、
友達の青鬼が妙案を授ける。
それは……青鬼が村人たちをいじめているところへ
赤鬼が現われ、彼らを助けるというものだった。
この芝居が功を奏し、
赤鬼はたちまち村人たちから歓待され
楽しいひと時を過ごせた。
(とにかく青鬼くんに報告しなくちゃ)
喜び勇み彼の所を訪ねてみれば、もぬけの殻。
青鬼は姿を隠して見当たらない。
戸口にいちまいの張り紙がしてあった。
「赤鬼くん、人間たちと仲良くして、
楽しく暮らしてください。
もし、ぼくが、このまま君と付き合っていると、
君も悪い鬼だと思われるかもしれません。
それで、ぼくは、旅に出るけれども、
いつまでも君を忘れません。
さようなら、体を大事にしてください。
どこまでも君の友達、青鬼」――
なるほどね。概念をメタモルフォーゼするには、
こうした痛みも伴うんだ。
この文学がファンタジーだけでなく、
リアルでもある深さは、こうして生まれる。
奥山恵の著した評論『児童文学の新地平 ③』の中に
「出来事のはざまに立つ」という表現がある。
彼女は『ぼくらは海へ』(著―那須正幹)を取り上げながら、
そのエピローグ、いかだを造り大海原に船出して
生死さえわからなくなった二人の友達を思いやる
雅彰という少年と、「はざまに立つ」こととを、
オーバーラップさせる。
この少年の祈る姿は、
また『泣いた赤鬼』の姿でもあるような気がしてならない。
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「渋滞してる」――
丸太の下の冬ごもりしているダンゴムシたちを見つけて
思わず呟いた孫の一言が、
あらぬ方向へ繋がり、心に引っかかっている。
もちろん年中君にしてみれば
見たままを口にしたにすぎぬのだろうけど、
どこかで、そればかりじゃないような気がしている。
見た目だったら、「行列してる」とか
「まっすぐだね」の方がずっと直截だし、
「渋滞してる」には、もうちょっと内側に入り込んだ、
ダンゴムシとの「対話」みたいなものが感じられてならい。
大人の反応と比べてみれば明らかだ。
おそらく僕だったら、ハッとした後すぐさま
「うむ、一列に並んでるのも、
ダンゴそのものになりまるまってるのも、
熱を逃がさないためなんだよね。……」
なんて、訳知り顔に解説し始めちゃう。
概念化するという行為は、
ある現象に対し解説文を盛りだくさんくり返して、
存在のエッジを鋭くすることに他ならない。
果たしてそれは、現象の本質を語ることになるのだろうか?
ずっと、疑念に膨れた気持ちを抱えてきた。
エッジが鋭くなればなるほど、
本質は遠のいてしまうように思えてならなかったからだ。
ちびっ子たちが思わず漏らす言葉は、
どちらかと言えば、詩的言語に近い。
現象の周りで「解説」をくり返すんじゃなく、
現象そのものに入り込み、
その源泉から命の成分を嗅ぎ取る風がある。
そんな想いに捉われていたやさき、
たまたま読んでいた二冊の本から、
同じような響きのセンテンスを見つけた。
一冊は、アンリ・ベルクソンの「形而上学入門」
(『哲学的直観』中央公論ラシックス)
もう一冊は、中沢新一の『チベットのモーツァルト』
(講談社学術文庫)
著書の中でベルクソンは言う。
「哲学者たちは形而上の問題にかかわるとき
二つの方法を区別している」と前置きした後、
「一つは、対象の周囲を回るという意味を含んでおり、
他は、対象の内部へ入り込むということを意味する」
と続け、「第一の方法は我々がとる見地と、
表現に用いる記号に依存しており、
第二の方法は、見地というものを考えず、
記号に頼らない方法である」と具体化し、
「前者は相対の内にとどまる認識であるが、
後者はそれが可能な場合は、
絶対に到達する認識である」と結んでいる。
もちろんベルクソンは、第二の認識方法に
哲学的必然と真理を見出しているのであり、
これはまた解説(見地や記号)をくり返す
「大人」の姿勢ではなく、ダイレクトに現象(存在)
と結びつく詩的言語の世界に他ならない。
ちびっ子たちの発想は、
そういった認識世界に近い所で生きている。
ベルグソンとは少しニュアンスは違うけれど
『チベットのモーツァルト』の中にもこんな下りがある。
人類学者・ガーフィンケルが提唱した
「エスノメソドロジー」を説明する引用に
「60年代始めのカリフォルニア大学ロスアンジェルス校の
キャンパスは、【ガーフィンケルする】のが流行にさえなった。
【ガーフィンケルする】人類学科の学生を皮肉る
こんな小話まで残っている。
――私、試験にしくじっちゃった。
――しくじった?
――そう、中間試験にね。
――しくじったって言ったけど、それどういう意味?
――中間試験の出来がひどけりゃ、
しくじったって言うでしょ。
――それもっと説明してくれない?
――あなた、試験にしくじるってどういう意味か
わからないの?
――いま君が言った“あなた”って、
どういうことか分からないんだけど……
――私は別にみんながそう言っているような意味で
“あなた”って言っただけよ。
――それどういうこと?
――あなた何か変なもの食べたんじゃない。
……」
こんな禅問答のような会話が延々と続いた結びに、
「ガーフィンケルは学生たちに“当惑、どっちつかず、
内的葛藤、心理的―性的孤立、人格を失うことから来る
様々な症候をともなう鋭角的で名付けようのない不安”
の状態になれるような精神を期待した」
と書き起こしている。
二冊の本は、形而上学的、心理学的という違いはあるにせよ、
同じことを示唆している。
それは、メタモルフォーゼ(変容)する概念とでも言おうか。
見地と記号とで造られた約束世界に暮らす住人にとっては、
全てをはぎ取られたような不安感にさいなまれるに違いない。
もっとも、概念化された世界が
「実在」だと思い続けてきたのだから、
概念の輪郭が揺らいだり、消滅しちゃったら、
たちまち気分は、サルトルの『嘔吐』色に
染められてしまうだろう。
ガーフィンケルが言う
「状態になれるような精神」とは、
それへのアンチ・テーゼに他ならない。
近代自我の洗礼を受けている僕らは、
心の奥底に灯る情念(ソフィア)と、
意識の表面で存在をナビゲートする理性(ロゴス)とを、
線形独立なものとして捉えてしまう。
二つのベクトルは交じり合うことなく、
背中合わせになってから久しい。
情念を形(有形、無形も含めて)――理性化するもの作りは、
今、そのような状況に立たされている。
情念の虜になり、理性の光をあてられなくなるか、
エッジの鋭い造形、デザイン、ストーリー、etcにより、
形のための形作りになるか……
そんな危険をいつも孕んでいる。
情念と理性をつなぐ紐帯を
常に微分する行為が、
もの作りに開けられた唯一の杣道かも知れない。
できれば、その道行きは牛ならぬ
ちびっ子たちにひかれて行きたいものだ(笑)
※ 微分値とは、連続が現わす性質と、
連続が現わす形との瞬間的傾向に他ならない。
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謹賀新年 皆々様によい年でありますよう……
【ほろ酔い数学】
今年は二月に窯焚きを控えているので、
のんびり酔ってもいられない。
ということで、手短にできるやつ。
― 問題 ―
≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈
って、なんじゃらほい。
これだと全く雲をつかむような話。
「そんなの分かるわきゃない」
と、さじを投げる前に、
ほら、数学って
ちょっと犯人捜しに似てるとこあるでしょ。
だから、敏腕刑事になったつもりで、
じわじわと追い詰めてみたいと思う(笑)
ところで、素数って何?
1と自身以外に割り切るものが無い
とっても孤独な数の事。
たとえば、2、3、5.7、11、……
(これらをジーっと眺めていたら―笑)
2以外の素数はみな奇数じゃないか。
敏腕刑事ってやつは足で稼ぐ努力家でもあるから、
どんな小さな手がかりも見逃さない。
まず、P、qともに、奇数だったらどうだろう。
と、試してみる。
ほとんどが奇数なんだから、
確率としてこの可能性は大。
まずは奇数の累乗は奇数になることを
押さえておきたい。
3や5で試してみるといい。
ということは、P、qが奇数だったら、
は、ともに奇数。
≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈
※ 奇数は(2n−1)【nは1〜∞の自然数】と表せるから
その累乗は
【二項定理】となり、定数項以外2nの累乗があるので偶数。
定数項は(+1)か(−1)になるから奇数の累乗は
奇数となる。
≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈
ところが奇数+奇数は、偶数になっちまうから、
(それも2よりも大きいから、)
やややっ、けっきょく、
(だいぶ追い詰めてきたぜ―笑) とするとだね、P、qのどちらかは偶数。
で、偶数の素数は2しかないから、
P=2か、q=2
一人めの犯人みーつけた(笑)
ここではq=2としておこう。
さっそく取調室に呼び出し
かつ丼なんかを食わせながら、
「うん、お前は悪くない。
ひっ張りこまれただけだよね。
だから、もう一人の奴を吐いちまいな。
気が楽になるぜ」
なぁんて甘言も交えながら、
めぼしい容疑者に当たりを付ける。
たとえば、P=3だったら……
P=5だったら……
P=7だったら……
P=11だったら……
3の時は17と素数になるけれど、
後は、57も177も2169も3で割り切れるから
素数にならない。
どうやら犯人のめぼしはついてきたみたいだ。
だけど決め手となる物証がない。
状況証拠だけではね……(笑)
さてここからがちょいとややこしい。
もう一人は主犯格みたいで
なかなかしっぽを出さない。
ちょびっと絡め手から攻めなきゃ
ならないみたいだ。
どの世界でも、黒幕ってやつは、
こすっからくできてる(笑)やれやれ。
遠回りのようだけど、
まずは自然数のクラス分けから始めてみよう。
「絞り込み」ってやつ。捜査の基本中の基本だからね(笑)
自然数を2クラスに分けるとしたらどうなるだろう。
最も手っ取り早いのは、
「偶数組」と「奇数組」でしょ。
(漫画に『奇面組』ってのあったな―笑)
教室に「6年2組」みたいな名札をつけるとしたら
「2n−1組」と、「2n組」になる。(nは自然数)
3以上の自然数を三つのクラスに分けるとしたら
「3n組」「3n+1組」「3n+2組」の3クラス。
3以上の自然数は、
一人の漏れもなくクラス分けできる。
そこで、6以上(実は5以上なんだけど)の数を、
六つのクラスに分けてみる。
「6n組」「6n+1組」「6n+2組」「6n+3組」「6n+4組」
「6n+5組」の六つになる。
(何のことはない、6で割ったときの余りの数で
クラス分けしている)
ただし「6n+5組」は、余りの数で比べると、
「6n−1組」と同じクラスだから、このように表記すれば
5以上の自然数がクラス分けできる。(nは1〜∞)
さぁて、いよいよどのクラスに犯人が潜んでいるか、
それともいないのか……
捜査の手は佳境に近づいている。
なぜ、3をはずしたかというと、
心証だけだけど、どうもPは、3臭い(笑)
仮に5以上の数の中にホシがいなければ、
やっぱり3だったということになるでしょ。
数学ではこれを「背理法」って呼んでいる。
とにかく、敏腕刑事には、感も必要なのだ。
「6n組」ここは6で割り切れるから、素数はいない。
「6n+1組」は、奇数だから、素数はクラスメイト。
「6n+2組」は、偶数だから、素数はいない。
「6n+3組」は、3の倍数だから、素数はいない。
「6n+4組」は、偶数だから、素数はいない。
「6n−1組(6n+5と同じ)」は、
奇数だから、素数はクラスメイト。
ということで、もし5以上の数の中に
犯人がいたとしたら、
「6n∓1組」に潜り込んでいる。
これを、
に代入してみる。
q=2だから
≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈
※ 2を(3−1)としたのが味噌
≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈
これを開くと、
また【二項定理】を使う。捜査の伏線はここにあった(笑)
36n²∓12n+1は、3(12n²∓4n)+1となり、
{}内は最後の(−1)の累乗項以外は、3の倍数になる。
(3の累乗があるから)
とすると、ごちゃごちゃしたところを、Eとまとめちゃえば、
{}内は3E−1(最後の項は−1の奇数乗なので負)。
とするとだよ、
3(12n²∓4n)+1+3E−1で、(+1)と(−1)が
相殺されて、3(12n²∓4n)+3E
=3(12n²∓4n+E) となり、
これは3の倍数で素数にはならない。
っつうことは、Pは5以上の自然数に隠れていない。
とうとう、犯人があぶりだせた。
(P、q)=(3、2)か(2、3)
ちなみにこれは京都大学の入試問題だった。
かつて受験は四当五落とか、三当四落とか言われた。
(就寝時間が4時間だと受かり、5時間も寝ちゃうと
そりゃだめでしょ、って事―笑)
受験生諸君! 鼻血を垂らすくらいガリ勉するより、
敏腕刑事になることをお勧めしたい(笑)
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