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【ぐれてやる(笑)】
ここひと月ばかりロクロ挽に追われた。
ロクロ成形の器は乾きの具合を見て
高台などを削り出さなきゃならない。
けっきょく四六時中スタンバイ状態って事。
僕の労基法はどうなってるんだ(笑)
気分はもう雪隠詰め。
にっちもさっちもいかないイライラが募って、
突然思春期の少年のように叫ぶ。
「ぐれてやる!(笑)」
……
ということで、
先週の金曜日、一日限りのプチ家出を敢行(笑)
【日日是好日】
(画像、お借りしました) 予告編のコピーで鑑賞したくなった映画ってのは、
後にも先にもこれ一つかもしれない。
『日日是好日』(にちにちこれこうじつ)
10月に封切られた
女優、樹木希林の遺作ともいうべき作品である。
他界したばかりだったこともあるのだろう
彼女が最後に呟く「にちにちこれこうじつ」という言葉が、
やけにきっぱりと、胸にずんと響いた。
「これは観なくちゃ」
とにかく「家出」なんだからやりたいことはやる(笑)
手始めに新宿ピカデリーで久しぶりの映画鑑賞をした。
後味はやっぱり「きっぱり」していた……
というより、なんとも贅沢な映像美の横溢。
極力抑えられた台詞。
筋はあってないようなもの。
ただひたすらお茶のお稽古に明け暮れながら、
今までの猥雑な自分を脱ぎ捨てて
どんどん「素」になっていく。
ああ、命とはこんなにも豊かな自然に
抱かれていたんだという気付き。
とにかく、気持ちがいい。
手水鉢(ちょうずばち)に滴る水音。
茶碗に注がれる湯。
屋根を叩く驟雨。
風が通り抜ける葉擦れの音。
ウロコのように煌めく木洩れ日。
苔の陰影。下草の照り映え。
障子越しに揺れる梢の影。
季節を結晶させたような和菓子たち。
その実を割れば繊細な甘露。
茶を点てる仄かな香り。
包み込む手のぬくもり。
ほろ苦く沈潜する味わい。
耳を澄ませば茶釜の松風。
水を注いだとたんに……無音。
そして、四季の確かな移ろい。
それら凡てが五感を刺激しながら、
五感を突き抜けた先の或る営みを予感させる。
僕らが日々の喧噪の中で忘れ果てていたもの――
細やかで、さりげなく、そして揺るぎないものたち。
「日日是好日」とは「生きづらい世だけど、
まっ元気を出して行こうじゃないの。
思い方ひとつだからさ」
なぁんて言う人生訓じゃない。
気付きさえすれば、他人と争うことなく、
さりとて縮かむこともなく、
ひがみもせず、怒りもせず、
あたりまえで、豊饒な時は流れている。
「お茶ってそういうものなの」
天上から樹木希林のちょっととぼけた声が聞こえた気がする。
【佐々木大河君の個展】
西口へ回って、「Gallery Kart」へ…… 彼の作品を拝見するのは、
これで二回目である。
昨年、美術系大学の卒業制作展で
一本足で立つ不思議な乾漆像と出合った。
今回のモチーフもその繋がりで、
底が一点に収れんする壺。
その不安定さは、
なぜか天上への飛翔をイメージさせる。
存在は軽み、浮遊し、思惟のみが昇華する。
彼はこれから
漆芸の世界に進みたいという。
今後の作品が待たれる。
【新・桃山の茶陶】
新宿から原宿へ出て、
根津美術館へ向かう。
『新・桃山の茶陶』
『日日是好日』の後がこれだもんなぁ。
たらふくお茶をいただいた気がする(笑)
ここでも一つの気付きがあった。
技術の未熟さ、窯の癖で歪んだり、
傷ついた器は
無作為の作為というべき味わいがある。
それに比べて、
人為的に歪めたり、傷つけた器は、
どうしてだろう、すぐにわかる下心(笑)
在るがままでいることの難しさ。
生きている間は、
ジタバタするのも仕方ないか。
【藤間瑠依さんのライブ】
そのまま原宿へ戻り、
藤間瑠依さんのライブへ。
ラ・ドンナの公演はこれで四回目になる。
二十代そこそこから知っている
彼女の歌声は、
時とともに成熟し、深さを増した。
誰かの響きに似ている。
ずっと思い続けてきた。
その正体が今回やっと掴めた。
カレン・カーペンター。
声質は全く違うのだけど、
共鳴する響き具合が似ている。
特に中音域がいい。 (画像、お借りしました)
なぁんてことにうなずいていたら、
二部の始まりがカーペンターズの曲。
いやはや納得。
【ぐれてもこの程度(笑)】
夜も更けた〆は、同行したかつての教え子A君と、
来春予定している展示会の打ち合わせ。
もちろんビールを飲みながら……(笑)
今回の案内状はしおり形式にしようと思っている。
三つ折りにするか、四つ折りにするか、
器の見せ方をどうするか、タイトルは……
これから検討することは山ほどある。
それもまた「楽しからずや」。
A君と、原宿駅前で別れた後、
もちろんプチ家出だから家へは戻らずに
馴染みのカプセルホテルへ……(笑)
【いよいよ窯焚き週間始まる】
ようやく、器たちの素焼きが始まった。
この後、釉掛け、施釉陶の窯詰、焼き締め陶の窯詰、
火入れ、炙り、攻め焚きと続く。
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言の葉つづり
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【おひさまっていいな】
久しぶりの晴天。
太陽のぬくもりの中にいる。
――おひさまっていいな――
おひさまっていいな
こんがりと焼きあがり
ふわふわただよう
こうばしいパンの匂いがする。
おひさまっていいな
パクリとほおばれば
口の中でとろけるような
アップルパイの味がする。
おひさまっていいな
パパとざっくざっく土をほり
ひと粒ひと粒まいた大根の
ひょこり芽のでる音がする。
おひまっていいな
さやさやススキの穂をゆらし
通りぬける風のすがたが
ちらりと見えた気がする。
おひさまっていいな
ママの胸に抱かれたみたいに
ふんわり真綿にくるまれて
すやすや夢の中にいる。
五感の中で最も目覚めていないのが
触覚のような気がする。
この「夢の中」を大切にしなくちゃ。
【きのこの山】
涼しくなったとたんに、
にょきにょききのこが生え出した。
その姿や色合いから、
つい食べたくなっちゃうけど、
むろんやらない。
「美しいバラには棘がある」と同じように
「美味しそうなきのこには毒がある」
皆々様も気を付けられるように……
みんな、女性のメタファーになっちゃうのはなぜ?(笑)
得体のしれないもの。 おそらくキノコだと思うんだけど……
【大物ってほどじゃないけれど(笑)】 大きな器の最後のクールが終了。
どんなドラマ仕立になっただろうか。
今回は、富津海岸でインスピレーションをもらった
磯場のテクスチャーを器にも試してみた。
名付けて「褶曲裂紋」(しゅうきょくれつもん)
【おまけ(笑)】
先週の土曜日、三男坊家族がちょっと遊びに来た。
お兄は虫眼鏡博士。
ちびの方は、これカメラのつもりらしい。
いや、カメラだと思ってるかも(笑)
えっと、ヘッドライトなんだけど。
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【あとワン・クール】
次回窯焚き用の大きな器が、
あとワン・クール――六つになった。
ちょっと煮詰まっていたのだけど、
先日の飲み会、I君からのヒントで、
出口が見えて来たみたい。
概念化されたデザインじゃなく、
瞬時に現れる表情(擬態語)を
つなげることで、一つの器になればいい。
それが、良くも悪くも僕流なのだろう。
【僕のらくがき】
一昨日(9月8日)は、
姉の一回忌法要で日野まで出かけた。
宵の口に帰宅して、
さぁ一杯。とりあえずビールね、
と飲み始めたら
目の前のカレンダーに色鉛筆の赤と青で
めちゃくちゃならくがき。
昼間遊びに来ていた長男坊のところの
年中君の仕業に違いない。
こやつめ、相変わらずじいじを
いじり倒す気だなと
にやにやしながらよく見たら、
らくがきの下、9月25日の日付のところに
「たんじょうび、さき」と書いてある。
さらにカレンダーの上には、
これもお姉の字で、
「てがみだよ」の文字も。
なるほど、
らくがきはこのせいだな、きっと。
まだ文字が書けなく、
だからお姉みたいに手紙を出せない自分が、
ちょっぴり情けなく、悔しかった。
うん、分かる。
じいじもそうだったから……
記憶とは不思議なもので、
昨日食べたものさえ忘れ果てるのに、
遠い出来事が、昨日のことのように
鮮明に残っていたりする。
今から半世紀以上も前、季節は10月の半ば頃、
台風22号だったか、23号だったかが、
日本を直撃したことがあった。
姉は6年生、僕は3年生。
そんなことまではっきり覚えている。
その頃、大田区の上池上という所に住んでいて、
そこは、
南側に品鶴線という貨物専用列車の走る小高い丘と、
西に「のみ川」という小さなどぶ川が流れる、
ちょっとした窪地になっていた。
まっ、雨が降れば、
いつも洪水の危険にさらされていたってことだ。
そのうえ、この時の台風は、尋常じゃなかった。
朝から大雨が続き、のみ川はあっけなく氾濫。
昼過ぎになると、庭は溢れかえった水で川のようになった。
細かい時間軸まで覚えているから、
ひょっとすると学校も休校だったのかもしれない。
心配性な母はオロオロしだし、
「畳をあげなくちゃ。畳をあげなくちゃ」と
呪文のように呟くし、
姉は、その後ろを半べそかきかきついてまわる。
玄関先まで水が流れ込んだとき、
二人は意を決して畳を上げ始めた。
畳を持ち上げた方ならご存知だろうが、
あれは重い。かなり重い。
持ち手が定まらないと、大の大人でさえ
扱いかねることもある。
それを六年生の女の子が一人で、
もう半べそどころか大泣きしながら抱えている。
あれを「火事場のバカ力」というのだろう。
……で、僕と言えばここだけの話し、
川のようになった庭を眺めながら内心ワクワクしていた。
やれやれ(笑)
正直言うのはためらわれるぐらい
いつもの風景とは違う成り行きにドキドキしていた。
そんな気持ちを知っているのは、むろん自分しかいない。
他人に言えるものか。
その時僕は、情けなく悔しい自分に
(ちびっ子だと胡麻化すことなんかできない)
心が真黒くなるくらいらくがきしていたような気がする。
いつも頼りがいのあった姉は、
一方で、僕にちょっとした不甲斐なさを味あわせ
逝ってしまった。
これからは、らくがきする相手がいないのだと、
しみじみ想う。
がくちゃん(年中君)
君には、そんなお姉がいてくれて、ありがたいな。
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三日前、高橋源一郎が初めての児童書を出版したことを知った。
彼との関係は以前ブログにも書いたけれど、
大学自治会の一年先輩
――まっ、今でいうサークル活動みたいなもので(おいおい―笑)
彼とのつながりなどほとんどなかったに等しいけれど、
同じ釜の飯を食った気持ちが強い分、
その後の彼がどんな生き方をしているか、
気になってならなかった。
源一郎が著した本にはほとんど目を通してきた。
今回は子供向けってことで、
いっそう素の姿がのぞけるのではないかと、
さっそくアマゾンへ注文を出した。
一昨日届いた本の題名は『ゆっくりおやすみ樹の下で』
というものだった。
読み終えて抱いた率直な感想は、
さすが物書きのプロ、そつがないなぁ。
全体の色調は、(あっ、素人の勝手な物言いだから
怒らないでね―笑)『トムは真夜中の庭で』を骨格にして
児童文学の王道『赤毛のアン』風あじ付けといったところか。
とにかく全編パステルカラーがちりばめられているように見える。
それはまた源一郎のまなざしの色でもある。
かつての急先鋒も、ずいぶん角が取れたものだ(笑)
無論これは年を重ね人間が丸くなったなんてことを言ってるんじゃなく、
もっと本質的で彼が世界とのかかわり方を、
シフト・チェンジしたってことに他ならない。
それは物語の随所に見受けられる。ミレイ(主人公の女の子)の体験として、
たとえば、犬たちが見えている世界は人間と違うんじゃないかと思ったり、
「さるすべりの館」に住み着いた目に見えない「在るもの」を感じたり、
とうとう終いには、タイムスリップして大ばーばのミサトと出会ったり……
これらは、現代の根底にある唯物的世界観では起こりえないことばかりだ。
宇宙物理学者のブライアン・グリーン(時々、科学ドキュメント番組の
案内役などしているから、ご存知の方がおられるかもしれない)
は、著書の中で次のようなことを言っている。
この宇宙は92の元素だけから成り立っていると前置きし、
「全ての森羅万象――むろん心的なことも含めて、
この空間で起こりうるすべては、
92の元素の組み合わせで説明できる」と。
巨大な惑星も、塵のような粒子も、命の誕生も、死も、喜怒哀楽も、……
けっきょく、唯物的世界観を突き詰めると、
そういうことになってしまうらしい。
この姿勢は、「五感で体験できる宇宙が唯一のもの」とした
カントの枠組みに似ている。
というよりは、人間の感覚をパーフェクトとする
(たとえそれで4つのアンチノミーが引き起こされようとも)
カント主義そのものと言っていい。
そこでは、犬の見え方は人間の見え方に従属するし、
館に住まう物の怪などいるはずもなく、
ましてや過去の人物と交信などできるわけがない。
ところが、人間の感覚がオールマイティーでないとすれば、
これまた百花繚乱、限りなくファンタジーの花を咲かせることができる。
源一郎は、いまその花園にいる。
こういうモチーフは、当然あっていい。
ただ、何んとなく物足りなく感じてしまうのは、
『ゆっくりおやすみ樹の下で』の舞台が、
ほとんど血縁の輪の中で終始してしまうからかもしれない。
一言で言ってしまえば、
「夏休み」という夢を見続けているように思えるのだ。
他者であるぬいぐるみの「ピーちゃん」や、犬の「リング」も
設定からしてすでに血縁の衣をまとっている。
この物語で唯一他者が登場するのは、
得体のしれないおじさんたちの集まりに連れていかれる場面だろうか。
それが唐突に感じられてしまうぐらい、
このお話は血縁の懐で気持ちのいい眠りについている。
村上春樹の『騎士団長殺し』を、ふっと思い出した。
その中の「騎士団長(イデア)」は、
ピーちゃんと似たキャラクター(トリックスター)でありながら
まったく違う役割を担っている。
片や覚醒を促し、片や眠りにいざなう。
かつてルドルフ・シュタイナーは、
「精神世界に入るときこそ、意識の光が必要である」
ってなことを語っていたけれど、
目覚めたファンタジーでない限り、
人の心を動かすことはできない。
以前、こんな詩を書いたことがあった。
「在る」っていうのは、
二つの姿をしている。
僕の外側にある「在るもの」と、
それを、心のフィルムに焼き付けた「在るもの」
それは、同じ「在るもの」に違いないけど、
外側は、いつも気まぐれで、落ち着きがない。
場所や、時間が変われば、
すぐに姿をかくしてしまう。
だけどね、心の中に焼き付いた「在るもの」は、
ずっと、ずっと居座りつづける。
古くなった印画紙みたいに、
ちょっぴりセピア色になったとしても
たとえ、僕という「在るもの」が、
この世から消え失せたとしても
だから、
見えなかったり、
聴こえなかったり、
嗅げなかったり、
触れなかったりするものの方が、
百倍も、千倍も確かなんだ。
ただし、外側の「在るもの」に出会えなかったら
きっと心の中の確かさは、影ばかりになってしまう。
素人が詠んだものなので、拙さはかんべん願いたい。
ただ、かなり正直に世界との交わりは吐露したつもりだ。
この詩で一番言いたかったことは、
最後の二行に集約されている。
宮崎駿は「児童書には希望がなくちゃいけない」
なんてことをどこかで言っていたけれど、
この希望や夢ってものが、ヒーリング・ミュージック
みたいなものであってはならないだろう。
心に焼き付いている希望や、夢や、恨みや、怒りを、
外側の「在るもの」から滲み出させることが
文学の役割なのだと思う。
たとえば教師になりたいという希望は、
外側である「生徒」によって愛という実態を持つ。
たとえば焼き物屋でありたいという夢は、
外側にある「器」によって愛という実態になる。
それらと同じように……
僕のFBの友人には児童文学を手掛けられている方が多い。
彼らのつむぐ作品を拝読させていただくと、
ファンタジーである希望や夢を、
外側の「在るもの」と絡めるには、
どんな文学的リアリティーが必然となるか、
いつも腐心されておられる。
血縁というシチュエーションはされ方次第で、
この壁を取り除いてくれるかわりに、
外側に「在るもの」の輪郭をぼやけたものとしてしまう。
ミレイとミサトが同化したみたいに……
けっきょく、ファンタジーは目覚めることなく
回りつづける――リング。
ストーリー・テラーとしてそつがなさ過ぎたということか。
とにかくミレイの夏休みはいつか終わりを告げ、
再び目覚めの日々がはじまる。
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アーチスト、アーチザンという言葉がある。
もちろん、語源は同じアートから来ているのだろう。
片や芸術家、片や職人と訳される。
今のご時世、芸術家の方がもてはやされる傾向にあるけれど、
かつて――中世以前の伝統的ヨーロッパ文化の中では
創造(想像)の担い手は、もっぱら職人であって、
芸術家などという身勝手な輩は、ほとんど存在しなかった。
それは純粋芸術と言われる絵画や彫刻の分野も同様で、
多くは職人集団を組み(例えばギルド)徒弟制の敷かれた工房の中で、
同じ色合い、同じフォルムの作品を作り続けた。
いわば個々人の意匠は邪魔にこそなれ、
才能などと言って評価を受ける対象じゃなかった。
極論すれば、アーチザンになれない落ちこぼれが、
「アーチスト」と呼ばれた初めだったのかもしれない。
なぜ、二つの言葉にこだわるかというと、
今から33年前、師匠の元へ通い始めたばかりのころ、
忘れられない彼とのやり取りがあった。
師――どんな焼き物を作りたいんだ?
僕――手ごろで使いやすいものがたくさんできれば……
師――君は職人になることは無理だから、
そんなことじゃやっていけないよ。
僕―― …………
しばらくの間、言葉の意味することが分からなかった。
地道に修行さえすれば、
技術なんてものは身につくんじゃないの?……
と、たかをくくっていた。
今となれば、なんの素養もなく35歳にして
この世界へ飛び込んでしまった僕に、
同質のものを大量に作り上げる「技」で勝負など、
どだい無理な話だったと納得できる。
僕の焼き物人生は、いわば落ちこぼれから始まったと
言ってもおかしくない。やれやれ(笑)
どんな器作りを目指したらいいのか? ……
それから長いこと、器を生み出す指先じゃなく、
足元をさぐる日々が続いた。
いつまでたっても足元は薄暗く、
そこから立ちのぼってくる創作への意欲は、
輪郭がぼやけて見えた。
そんな時、岡本太郎の言葉と出合った。
―― 「美しい」というのと「きれい」というのは
まったく違うもの。 ――(『自分の中に毒を持て』より)
続けて彼は言う。
―― 「美しい」というものはもっと無条件で、絶対的なものである。
見て楽しいとか、ていさいがいいというようなことは
むしろ全然無視して、ひたすら生命がひらき高揚した時に
美しいという感動が起こるのだ。……(中略)……
「醜悪美」という言葉も立派に存在する。
僕はかつて縄文土器や殷周の銅器などについて
「いやらしい美しさ」ということをさかんに言ったが、
その意味である。
ところが「醜いきれいさ」なんてものはない。
美の絶対感に対して「きれいさ」は
あくまでも相対的な価値である。
つまり型にはまり、時代の基準にあっていなければならない ――
長い引用になってしまった。
とにかく、「きれいさ」のぼろくそな言われよう(笑)
彼が生粋のアーチストだったからに違いない。
僕にはこれほど厳しく峻別できないし、
また両者は両者をして、浸透し合う部分もあるような気がしている。
「美しさ」と「きれいさ」の決定的な違いって何だろう?
ずっと考え続けてきた。
縄文土器から弥生土器への変遷をたどれば、
同じ人種が物したものとはとうてい思えない隔絶感。
このごろ答えがほの見えてきた。
それは「祈り」みたいなものじゃなかっただろうか。
種壺にしろ、水がめにしろ、炊事用器にしろ、
弥生土器には、機能といったものが全てに先んじる「きれいさ」がある。
それに引き換え縄文時代の火炎式土器などは、
機能と全くかけ離れた、むしろ機能的でない
心奥の「美しさ」がある。
時にエロティックであったり、時にファンタスティックであったり、
時にシンボリックであったり……
それは古代人の「祈り」だったのだろう。
あの時代は衣食住そのものが単なる機能でなく、
儀式(神々)と深く結びついていた。
以前、『僕の生きる道』というTVドラマがあったけれど、
落ちこぼれの僕には、現代の「祈り」を器に込める以外、
「生きる道」はないみたいだ。
しかしこの道はけっこう険しくてしんどい。
何だか己をさらけ出す痛さ? 恥ずかしさ? 切なさ?
だから時々模倣へと逃げ込む。
無意識に師匠の作風を真似てしまうのだ。
そんな情けない展示会をしたエンディング。
彼からきつい一言をもらった。
「もう焼き物やめたら。
オレだって迷いながら作っているのに
それの真似してなんになるの。
君が焼き物やっている意味がないじゃないか」
ごもっとも。しばらくは「青菜に塩」状態だった(笑)
僕の人生、それほどついているとは思わないけれど、
師匠運には恵まれたみたいだ。
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