山口二矢烈士五十五回忌11月2日は日本社会党・浅沼稲次郎委員長を誅殺した大日本愛国党・山口二矢烈士が自決された御命日です。 http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/b8/3265f633ae2f41494232cd1e87f8b665.jpg 烈士は昭和18年(1943年)、後の陸上自衛隊員山口晋平と大衆作家村上浪六の三女の次男として東京都台東区谷で生まれました。次男として生まれたことから、父親が姓名判断をした上で、「二の字に縁が多い」ことによって烈士の名前を二矢と名付けられました。彼の父は東北帝国大学出身の厳格な人物で、兄も学業秀才でした。大衆作家の村上浪六は、母方の祖父にあたり、文化史家の村上信彦は伯父にあたります。 幼年時代から、烈士は新聞やニュースを読み、国体護持の闘争に身を投じて政治家たちを激烈に批判しました。彼は早くから右翼思想を持った兄の影響を受けて右翼活動に参加していました。 その烈士に運命の邂逅が訪れます。 昭和34年(1954年)5月10日、烈士は16歳の時、大日本愛国党総裁赤尾敏の演説を聞いて感銘を受け愛国党への入党を決意します。 http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/c0/7b1d0bcb73dd73e9dc61299d090869cb.jpg 「日本は革命前夜にある。青年は今すぐ左翼と対決しなければならない!」 その赤尾先生の魂の叫びに山口青年の魂もまた共鳴したのです。 烈士は赤尾先生の演説に対して野次を飛ばす者がいると、果敢に野次の者に殴りかかっていきました。彼は左派の集会解散と右派人士保護を率先して行うなど言わばかつてのNSDAPの「突撃隊」「親衛隊」の役割を果たしました。ビラ貼りをしているときに、警察官と取っ組み合いの乱闘をしたこともありました。愛国党の入党後半年で、彼は10回も検挙され、昭和34年(1954)12月に保護観察4年の処分を受けています。 そして、山口烈士一世一代の闘いの時がやって来ます。 昭和39年(1959年)、支那を訪問した社会党の浅沼稲次郎は中華人民共和国の「一つの中国」論に賛同し、「アメリカ帝国主義は日中両国人民の共同の敵」と発言しました。特に「アメリカ帝国主義」を「敵」と名指しした発言は、国内外に大きな波紋を広げました。 ただ、浅沼は決して反日主義的な人物ではなく戦前は国民社会主義に関心を寄せ、大政翼賛会にも参加して総力戦体制を支えました。 戦後成立した日本社会党は、その結党式において皇居遙拝を奉って聖寿万歳の三唱を行う(指揮者は浅沼)など現在の社民党の姿からは想像できない、まるで右翼政党のようなことをしています。 つまり、この時代の浅沼や社会党は、現在のような反日「サヨク」ではなく、愛国心をもった「左翼」であったと言えるでしょう。 また、浅沼は昭和天皇陛下を揶揄した新聞記者を叱りつけるなど尊皇家でもありました。 浅沼の「反米愛国」思想も理解できます。 しかし、浅沼の行動は明らかに支那を有利にするものであり、冷戦の中で日米同盟が崩壊することは死活問題でした。 そして、山口烈士は浅沼を討つことを決意しました。(他にも日本共産党の野坂参三、日教組の小林武を標的にしていました。) 汝、浅沼稲次郎は日本赤化をはかっている。自分は、汝個人に恨みはないが、社会党の指導的立場にいる者としての責任と、訪中に際しての暴言と、国会乱入の直接のせん動者としての責任からして、汝を許しておくことはできない。ここに於て我、汝に対し天誅を下す。 皇紀二千六百二十年十月十二日 山口二矢。 (浅沼に対する斬奸状) 昭和35年(1960年)10月12日、烈士は日比谷公会堂で演説中の浅沼稲次郎を刺殺しました。 事件後、取調べに対し烈士は若年ながら理路整然と受け答えしていたと言われています。 その頃、自衛隊は、父の晋平が自衛官(1等陸佐)であることから左翼や世間からの批判を恐れ、晋平の辞職を望みました。晋平は親と子は別と考え当初は拒んでいたが、結局事件3日後の10月15日依願退職しました。 11月2日、烈士は「後悔はしてないが償いはする」と口にして裁判を待たず、東京少年鑑別所にて練り歯磨きで『七生報國 天皇陛下万才』の文字を残し自決されました。 辞世の句 「国のため 神州男児 晴れやかに ほほえみ行かん 死出の旅路に」 「大君に 仕えまつれる 若人は 今も昔も 心かわらじ」 父、晋平は二矢の死を悲しみました。 「親として気になるのは、あの事件のため私も職を失いこれからの生活設計に困っているということを、二矢が知り、悩んでたということだった。せめてそんな心配はいらない”といってやりたかった」 山口二矢烈士は国を思うのと同じように親思いな青年だったのだと思います。 山口二矢烈士に謹んで哀悼の意を表します。 |
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終戦直後に台湾で日本陸軍機が墜落し、インドの独立闘争指導者、スバス・チャンドラ・ボースが死亡した事故で、ボースらとともに陸軍機に搭乗していた元整備兵が毎日新聞の取材に初めて事故前後の詳細な経緯を語った。インドでは「生き残ってソ連に亡命した」などのボース生存説が根強く、謎の事故とされてきたが、元整備兵は操縦士が離陸直前に急きょ代わったことなど新たな事実を証言した。【砂間裕之】 元整備兵は、長野県松本市の野田正利さん(96)。事故で腰や背などに重傷を負ったが、一命を取りとめた。 日本政府が連合国軍総司令部(GHQ)に提出した外交文書などによると、陸軍機は両翼にプロペラがある97式重爆撃機。1945(昭和20)年8月17日にベトナム・サイゴン(現ホーチミン)を出発し、ツーラン(現ダナン)で1泊後、18日に台湾経由で満州・大連に向かう計画だった。旧ソ連亡命を希望したボースら計14人が搭乗していたとみられる。18日午後、台北の松山飛行場を離陸直後に左側のプロペラが折れ、エンジンも落下。墜落して炎上した。 野田さんの証言によると、爆撃機はシンガポールの陸軍第3航空軍の所属機で、野田さんらが整備を担当していた。松山飛行場での離陸前点検では異常はなかった。ただ、台湾までは第3航空軍の准尉が操縦したが、離陸直前に「搭乗していた上官の一人が『俺が操縦する』と言って代わった」という。 野田さんは「交代した上官は知らない人だった。以前操縦していたと話していたが、司令部の命令もなく代わるのはあり得ない」と話し、交代が事故の遠因になったとの見方を示した。 搭乗者数や荷物が多く積載量が相当重かったうえ天候も悪く、プロペラやエンジンへの負担が大きかった可能性があるという。プロペラは金属の3枚羽根で、野田さんは「不慣れな人の操縦でさらに負担がかかり、折れてしまった可能性がある」と推測する。 事故機は以前、滑走路をオーバーランして土手に激突する事故を起こしていた。曲がったプロペラを金づちでたたいて使用していたとの別の証言もあるが、野田さんは「エンジンやプロペラは全て替えた」とし、墜落との因果関係を否定した。ボースは陸軍病院に搬送されたが、全身やけどなどで同日夜に死亡。ほかに少なくとも4人が命を落とした。 ◇生存者の話に驚き 約40年前に事故を取材したノンフィクション作家、柳田邦男さんの話 操縦士の交代に問題はないが、その技量が問題だ。事故機は積載重量を超えていた可能性が高く、エンジンの回転数を限界以上に上げたため、プロペラに負担がかかり、折れたのだろう。私の取材では、飛行中の異常振動の証言があったが、簡易なエンジンテストや目視検査で不具合を見つけるのは難しい。いずれにしても、70年以上たって生存者の話が出てきたことに驚いた。正式な調査はなかったので、貴重な証言だ。 【ことば】スバス・チャンドラ・ボース 1897年にベンガル地方の名家に生まれた。高等文官試験に合格したものの、インド独立運動指導者のガンジーに共鳴し、「国民会議派」に加わった。カルカッタ市長や国民会議派議長を務めるが、第二次大戦で急進的な独立闘争に傾き、ガンジーと決別。41年に軟禁中の自宅から逃げ、ドイツに亡命した後、潜水艦を乗り継いで日本に渡った。43年10月、シンガポールで自由インド仮政府を樹立し、日本軍のインパール作戦にインド国民軍を率いて参加した。 |
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