スピリチュアルな気付き・想い

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後悔もOK!

あの時、あの人にこんな言い方しかできなかった自分
 
本当は違うことが原因なのに
 
心の狭い人と思われたくなくて
 
ついとり繕った言い方をしてしまった自分
 
 
あの時、あの人にあんな言葉を言ってしまった自分
 
本当は心にもないことを
 
あんなに傷つけるような言葉を
 
なぜ言ってしまったのだろう
 
…傷付いていたのは本当は自分自身
 
傷付きすぎていてあんな言葉しか出てこなかった
 
 
 
振り返ってみたら、なぜあの時ああだったのだろう
 
後悔する気持ちもでてくるけど
 
じゃあ、あの時にもう一度戻ったら
 
違う言葉を言えていたのだろうか?
 
 
 
…いや、あの時のあの状況で
 
あの視点でしか物事を見られないとしたら
   ・ ・
何度戻ってみても
 
同じ言葉を言ってしまうだろう
 
 
 
あの時だって たくさん渦巻く思いのうちの
 
一番強い思いを言葉にしただけなのだから
 
傷付いていた自分がとった最善の行動が
 
あの言葉だったんだ
 
 
 
「あの時ああ言えばよかった」と
 
後悔することもOK!
 
でも あの時傷付いてた自分にとっては
 
あんな風に言うことしかできなかった
 
あれが最善の行動だったのだと
 
後悔の後で気付くことができたら
 
あの時のあの自分も何だか許せる気がする
 
 
 
そしてそんな自分を心底許せたら
 
誰かがいつか自分に言ったあんな言葉も
 
許してあげられる気がする
 
あの人もあの時 相当傷付いていたのだろう
 
あの時はああいう風にしか言えなかったのだろう
 
もしかしたら、今の自分のように
 
「何故あの時あんなことを言ってしまったのだろう」と
 
後悔しているかもしれない
 
 
そう思ったら全て許せる気がする
 
 
 
後悔はOK!
 
後悔して立ち止まった時に
 
その時のことを思い返してみた時に
 
その時にとった行動全てが
 
その時の自分にとって最善だったのだと気付く
 
だってそうしかできなかったのだから
 
 
 
普段忘れがちな大切なこと
 
つまづいたおかげで気付く
 
いつだって 今 この瞬間が 最善なんだということ
 
 
 
後悔して立ち止まるのは
 
このことを思い出すため
 
 
 
だったら
 
思い出させてくれて ありがとう!
 
妹と話していると、あまりにも物事の捉え方が違うことに驚きます。
妹のブログにUPされた記事について私の思うことを
書いてみたいと思います。



まずはこれらの言葉について自分の捉え方はこうです。

◆自己責任

忘れ物をしたのは、出かける前に慌てていて、
持って行くものの確認をしなかったからです。
だから私の責任です。

このケーキがこんなに美味しく焼けたのは、
私が今回はこんな工夫をしてみたからです。
だから私の責任です^^


◆自分の蒔いた種は自分で刈り取る

もちろんこれは喜びです〜^^ 
自分の蒔いた種は自分で収穫出来る!


◆全ては合わせ鏡

これを知った時に私がどれほど解放されたか分かりません^^

鏡に映った自分を見て、もし髪型が気に入らなければどうするでしょうか?
もちろん鏡に映った自分ではなく、本当の自分の髪型を気に入るように直しますよね。
分け目を変えたり、結んだり、もうそれこそどうにでも直せます^^
どうにでもとはいうものの、ちょっと癖毛なので、
その癖毛を生かして気に入った髪形にしますね(^▽^)




私と妹との決定的な違いは、
"自分"を「特別視している」か「特別視していない」かです。

そして、それは"神の存在"を「信じているかどうか」にも繋がってきます。

妹と話して妹と私の違いを追及すると、必ずここへたどり着きます。



私は、全てにおいて「自分を特別視していない」です。

この世界の存在全てが神であり、そこから外れるものはない。
そして神の一部としての部分的な個性としての違いはあっても、
そこに優劣はない。
というのが私の信じる私の真実です。


私には「自分を特別視している」ということは、
「神以外のものが存在している」というように聞こえます。


他人には許せるのに自分には許せない、
自分に厳しく他人には優しく、
それは「自分は他人と同じレベルではない」と認識しているか、
又は「同じレベルであってはならない」と思っているからです。


妹のところに書いてあった文面をそのまま載せますが、
これはそのまま私の大部分を占めている意識です。

・自分に何か不快な事が降りかかった時、自分の心に無理をせず正直に生きたいからと感情のままに相手を責めます。
・責められた相手が傷ついてもそれは相手が自分の観念により自分で選択して傷ついただけなので相手の責任であり相手の引き寄せなのだと捉えます。
・自分が誰かにした事で相手が不満を訴えたら、それは相手の引き寄せであり自分は気付きを与えるのに一役買ったのだと捉えます。

おそらく妹と私は全くの正反対であろうと思います。

妹の大部分を占めている意識が私の奥深くにもあり、
私の大部分を占めている意識が妹の奥深くにもあるのです。

だから今、私達が姉妹として生まれ、今もこうやって
深い繋がりを持ち、ソウルメイトとして存在しているのです。


向かうところが同じであっても道は違うのでしょうね^^


そしてこの道は魂が神から分離した時の自我が、
いくつもの人生で繰り返し選択してきた感情のパターン
によるものなのだと私は思っています。


妹が以前受け取ったメッセージ
「神を信じられるものにとってその世界は希望に満ちている」
というのは私も本当に共感します。

神を信じられるものにとって、スピリチュアルな気付きは、
=イコール自分の限りないパワーを思い出していくことです。

自分の力で、自分の目に映る世界をどのようにも創っていける、
それほどのパワーがもともと私達ひとりひとりに等しく備わっているのです。

自分の人生は自分の責任、私にとってこれほど
明るく希望に満ちた真実は他にありません(^▽^)

それは、神を信じ、その神の分霊である自分を信じられるから。


私達は全て、大いなる全て(神)と元々ひとつであり、例外はない


永遠に続く魂の旅で、どこでそれに気付くかなんて、
ゴールのない旅なのだからそこに優劣なんてなく、
また、もともとひとつのものなのに誰と比べるのでしょうか、
どうでもいいことだと私は思います(^ー^)


ただ、これを信じられると楽です!
信じることで、どれほどの解放があったかはかりしれません!



ここに書いたことは全て、私の人生で私がたどり着いた私の真実です。
実は、私は一度改名した経験があるのです(^ー^)


これは、先月、私が両親へと宛てた手紙です。

私の想いを全てこの手紙に込め、両親へ手渡しました。
会話ではなかなか上手く伝えられない思いですが、
手紙にするとすんなり書けました。
同時に、書きながら、
あぁ自分はこんな風に思っていたんだということを
あらためて自分で気付きました。


私と同じように名前で悩んだことがある人が
他にももしかしたらいらっしゃるかもしれないと思い、
その手紙をそのままここに載せることにしました^^



お父さんとお母さんへ


私は約8年前に「輝美」から「晃魅」へと改名しました。

改名したいと思うようになったのは、18年前に姓名判断をしてもらって、
「苗字と名前が画数的に合わず、総合運が悪いから改名した方が良い」
 あなたは努力はするからいい所までいくんだけど実らないんだよね」
といわれたことがきっかけでした。

確かに、外画・人画・総画 全て「凶」。
姓名判断の本も何冊も読んだけど、やはりどれを見ても「凶」。

そうかも〜と納得がいくと何でもすぐに信じてしまう私の性格上、
この言葉がトラウマのように、ずっしりと心の中に刻まれてしまいました。

その後の数年間、仕事のことや恋愛のことで何かあるたびに
その占い師の言葉を思い出し、
「やっぱりダメなんだ、画数が悪いと何をやってもうまくいかないんだ」
と占い師の言葉が、私の思考を全てネガティブな方向にしていました。

特に、恋愛面で何度付き合っても別れるを繰り返していた私は、
別れるごとに
「私はどうせ結婚なんてできないんだ、
 私の名前がそういう運命に決めているんだ」
と心の中でつぶやいていました。

お父さんとお母さんが付けてくれた大切な名前なのに、
こんな思いを持っていることが申し訳なく、そしてとても悲しかったです。

「美しく輝く」そんな思いを込められた名前を、私は本当は大好きだったから。

ただ、姓とは合わない、ただそれだけだったのに。



そして28歳の時に思い切って本気でお父さんとお母さんに
改名したいとの思いを話し、呼び方は変えずに漢字だけということで
「輝美」から「晃魅」へと改名しました。

そして、
「これで私は変われる!もう、やっぱりダメなんだ、なんて絶対に言わない!」
と固く心に誓いました。

画数が悪いから私の運命はこうなんだということを信じきっていた私は、
名前を変えることによって自分の運命を変えられる
ということもあっさりと信じきっていました。


そして確かに私の運命は変わりました。

改名してわずか5ヵ月後に○○さん(主人)と知り合い、
とんとん拍子で結婚まで話が進み、絶対に無理だろうと思っていた
婿養子をもらうという願いまで叶いました。

その他にもいろんな面で、私の思考はネガティブからポジティブへと
変わっていきました。
友人達からもその違いを指摘されるほどでした。

今は望んだ通りの女の子2人にも恵まれ、
また以前の私なら絶対に反対したであろう、
○○さんの建築の仕事の独立を応援できるほどになりました。

「何をやってもうまくいかないんだ」という思いから完全に抜け出し、
私の願いは今や100%実現しています。



そして、今回どうしてもお父さんとお母さんに伝えたいことがあります。

私の運命が変わったのは、改名したからではありません。
改名したことにより、私の意識が「やっぱりダメなんだ」から
「きっと大丈夫、うまくいく」に変わったからです。

「画数なんてものは関係ない、気の持ちようだ」と
私が昔、姓名判断の結果で悩んでいた時にいろんな人に言われました。

でも私はそんな言葉には全く聞く耳持たずでした。
その時の私は、姓名判断の結果の方を信じていたからです。
(人はどうしても、怖れの気持ちから、
 良いことより悪いことの方を信じる傾向があると思います。)

でも今ならその「気の持ちようだ」という意味が分かります。

思えば、それを私が真に理解するために、今回の改名という経験が
必要だったのだと思います。

この経験がなければ、私はあらゆることを名前のせいにしてきたことでしょう。

他の人には必要なくとも、「私」がこのことを分かるためには必要な、
大切な経験だったのです。


私はもう、戸籍の名前を変えることは全く考えていません。
(改名した当時、10年以上その名前を使い続ければ
 裁判所を通して戸籍も変えられると聞き、そのつもりでいました。)

改名することに、もはや何の意味もありません。

このことをお父さんとお母さんに伝えようと思っていた矢先に
△△(妹)からあるメッセージをもらいました。



『
  私が思っていたのは姉ちゃんのの名前は
  十分に愛と意図がこもっている名前なんだよね。

  キラキラしたもの。
  漢字に含まれる「光」、その読みそのままの「輝き」と「美」、
  それから響きの「てるみ」。
  その「み」は様々な意味が含まれるけど
  「身」「深」「視」「魅」「実」等々。
  (これは私も同じだけど)
  それらが「照らされる」という事。
  それだけではなく「輝」という字を当てられた事で「輝く」という事。
  その字に含まれた「光」に照らされて美しく輝くという事。
  それからその「み」の光をもって照らし輝かすという事。
  更に親の「愛」が込められた事でそれらは
  「愛」によって行われるという事。 

  そんな神の意図がこめられた名前。
  姉ちゃんのその「名前」は「神」そのものだと思うよ。

  どっちが良いとかじゃなくて
  自分で命名して自分で道を切り開くきっかけとなった
  「晃魅」(これも光という字が入ってるね)という名前と
  親の愛から生まれた「輝美」という名前の二つから
  エネルギーを与えられているんだという事。
  それは得難い素晴らしいものだという事。
  とにかく二つの尊い名前を得たんだよ。

  ゴダイゴの歌にもあるね ♪名前 それは 燃える生命♪ってね。

  今こそこの「輝美」という名前の価値を正しく認めて
  その名前の持つパワーを感謝と共に受け入れる時なのかもしれないね。

  お母さんにこの名前の事を責めて、
  自分の名前にまつわる不満を解放したのが良かったのかもしれない。
  心を込めてつけてくれた名前だから・・・・と我慢して
  実り少ないと思い込んでいる人生を甘んじて受け入れていたなら
  この名前はその輝きを封印されてしまったかもしれないから。 
                                  』



本当にその通りだと思いました。

私は「輝美」と「晃魅」二つの名前からパワーをもらい、今の自分があります。

改名しなかったら、今の私はありえなかったし、
この大切なことに気付くこともありませんでした。

だから、私にはどちらの名前も大切だし、大好きです。

改名した当時、私はお父さんとお母さんに、
「この名前になりきりたいから、私の名前を書く時は「晃魅」にして」
と言いました。

お父さんとお母さんはさぞかし悲しかっただろうと思います。
自分が親になった今、それが分かります。

名前にどれほどの思いを込めているか、それが分かるから。
あの時は本当にごめんなさい。


これからも私は「輝美」「晃魅」どちらの名前も使っていきます。
重要な書類はもちろん「輝美」ですが。

どちらの名前も今まで通り使うので何も問題ないのですが、
お父さんとお母さんには、今更ながらのお願いですが、
お父さんとお母さんが愛を込めて付けてくれた「輝美」にして下さい。

そして今まで私の名前を書くたびに、悲しい、そして書きづらい思いをさせて
しまったこと、本当にごめんなさい。

私はお父さんとお母さんに素晴しい名前を付けてもらったことを
35年間生きてきた今になって、本当に感謝しています。

ありがとう。

                          輝美

判断の役目

「物事は全て中立である」、という自分の中の真実に出会い、
その中で生きている私。


あらゆるものに自分で善悪の判断をして、
たくさんの不愉快な感情を味わっていた頃からみると、
「悪い」と判断することがかなり減ったことにより、
かなりかなり楽〜に軽くなりました(^▽^)


でも時々、嫌な気分になったり、これはしてはいけない、等と
つい判断してしまっている自分に気付くことがあります。
・ ・

判断=観念 なのですが、
手放したつもりでも実は手放してなかったりするんですね(^^;



私の場合、一番多いのは子供と接している時に起きることへの判断でしょうか。


例えば、

用意したお食事がお気に召さない、あるいは多かったために
残されてしまって捨てざるをえない時、
「あ〜ぁ、もったいない、食べたくても食べるものがない人もいるのに」


らくがき帳や折り紙を、らくがきするでもなく、折り紙として使うでもなく、
大量にはさみでチョキチョキしたり、破られたりした時、
「もったいない〜、それなら新聞紙かチラシでやろうよ」


おもちゃが床に散らかり放題、足の踏み場もない、
そして子供達は全く片付けない時、
「自分で出して遊んだものなんだから、自分で片付けないとね」



どんな時に自分が不愉快な気持ちになるか思いだしてみると、
どうやら私は 「もったいない」 という観念を
手放していないことに気付きました。


私の場合、圧倒的に多いです。
「もったいない」に関わることで湧き上がる不愉快な感情が。

私の意識が無駄を極力なくしエコに向いているのも、
そこからきているものと思われます。



あとは本当は 「やりたくないこと」 なのに、
仕方がないから 「自分がやらなければいけない」 と
判断した時に心地よくない気持ちで行うことがあります。


そして心地よくない気持ちを抱えてがんばってやったのに、
周り(相手)の反応が自分の想像と違った時にも周り(相手)を判断して
不愉快になるようです。


このように、やりたくないことをやる場合、
やらなければいけないという「判断」と、
相手や周りの反応に対しての「判断」と、
2つの判断があることが分かります。



こんな感じで、自分が不愉快さを味わうたびに、
判断をしていることに気付きます^^



そしてここで大切なのは、「判断」している自分を責めない、
さらに判断しないということです。


実は「判断」をしてはいけない、というのも判断なのです(笑)


してはいけないのではなく、「判断」によって
さまざまな感情を味わっているんだと知ることが大切なのです。


「判断」がなければ、「嬉しい」とか「楽しい」とかの
感情も沸いてこないでしょう。


二極を体験できるこの三次元だからこそ存在する「判断」なのだと思います。


「判断」は絶対的なものではなく、ひとそれぞれ違う。自分だけのもの。

それだけをしっかり分かっていれば、
あとは自分の人生を自分の責任のもとに創造し、
いろんな体験とそれに伴う感情を楽しむことができます。


私は今こんな風にしています。

今、自分が不愉快になったこの出来事は、
「自分には、こんな観念(判断)があるんだよ」と
気付かせてくれるありがたい出来事なんです。


湧き上がってくる感情は押し殺さずに
そのまましっかり感じ、味わい、
そして気付かせてくれたこの出来事に
「ありがとう☆」 と感謝します♪


これが私の在り方です(^▽^)

五感

先日、物事は全て中立なのですという記事を書きました。


今、一部の人を除いてほぼ全ての人に生まれながらに備わっている五感についても
いろいろ思うことがあります^^


私が何を言いたいか、一番分かりやすいのは「味覚」だと思います。


好きな食べ物、嫌いな食べ物、人それぞれですよね。

ある人の大好物が、またある人にとっては大嫌いな物だったり。

大好物だという人にとっては、「大嫌い」という言葉を聞くと、
「え?こんなに美味しいものが嫌いなの?いったいどんな味覚してんの?」
ということになりますよね^^


私が言いたかったのはココです。

同じ物を食べて本当に同じ味を味わっているのか?ということです。

前の記事には「観念」が中立のものを判断していると書きました。

では、味覚ってどうしてこうも人によって違うのでしょう?



同じように「嗅覚」についてもいえます。

人によって香りの好き嫌いがあるのはどうしてでしょう?

はたして全く同じ香りとして認識しているのでしょうか?



「視覚」については?

はたして、私とあなたは赤色という色を全く同じ色として認識しているのでしょうか?

私の世界の中の赤色と、あなたの世界の中の赤色は同じですか?



「聴覚」も「触覚」も、そうではないですか?


本当の味、本当の香り、本当の色、なんてあるのでしょうか?

もしあるとしたら、人間の五感なんてとっても不確かだと思いませんか?


そして私達はその五感によって、あらゆるものを判断してるんですよね。

人と違う感じ方をする器官を使って、「同じもの」を判断・比較する。

あぁ、何だかおかしな世界。


しかも、何でこんなことを考えてしまったのでしょう、私(笑)

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