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「ブラバン」津原泰水

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「ブラバン」津原泰水(2006)☆☆☆★★
※[913]、現代、国内、小説、青春、高校、ブラバン、部活

広島の片田舎、赤字続きの小さな酒場をただ漫然と経営している40を過ぎた他片等。彼は高校時代、ひょんなきっかけで声をかけられ、それが自分がやっていきたいバンド活動の役にたつかもしれないということでブラスバンド部に所属し、弦バスを弾いていた。
いまはうだつのあがらない酒場のマスターである彼のもとに、ある日ひとつの依頼が訪れた。当時の先輩のひとり桜井ひとみさんが、自分の結婚式にあの頃の仲間を集めて演奏をして欲しいと言い出したという。お前も参加しろ。桜井さんからの依頼を携え店を訪れた先輩、君島、そして後から現れた桜井の頼みに、仲間集めに精力的に協力する主人公。
25年前の高校の吹奏楽部。クラシックだけが正当な音楽と信じ、それ以外の音楽を認めたがらない新しく顧問となった若い頑なな女性教師との対立とも言えないようなわだかまり。あるいはある事件で学校を去っていったその女教師のあと、片手間に顧問となった先生とのエピソード。技術も、性格も多様な三十数名の仲間たち。色々な思い出がキラキラと光るガラス片のように蘇る。先輩、後輩で仲良くできた思い出もあれば、相性の悪さなのだろうかぶつかる姿、あるいは部活のなかでひっそりと行なわれる恋愛模様。そしてあの頃まだ「こども」だった主人公とは遠い「大人」の世界に足を踏み入れていた少女の姿。
いま、仲間を探し、集めながら思い出されるのはあの頃のこと。しかし、ひとはあの頃だけに生きているわけではない。主人公自身ももはや高校時代の楽器を手にしていないように、多くの仲間にとってそれはすでに過去のこととなっていた。期待をかけ、失望しながら仲間集めに走り回る主人公の姿を通し、またふつうの人々となったあの頃の仲間の姿を描く。そこには想像もできないような出来事もあれば、また思いがけない再会もあった。果たして「ブラバン」は無事、再結成することができ、そして演奏できるのであろうか。

楽器をきちんと演奏できる。それだけでぼくは尊敬してしまう。フォークギターの簡単なコードを押さえ、歌うことで終わってしまったぼくの今までの短い人生の楽器とのおつきあい。ほかは授業で吹いたリコーダーくらい。高校時代、かけもち部活の幾つかのひとつで混声合唱を嗜み、まったく音楽を楽しまなかったというわけではないが、しかし「楽器を演奏する」という、モノに対する技術的満足にはほど遠い。楽器が演奏できるということはいまだ憧れさえ抱いている。
昨年4月中学に入学した娘は、入学前にあった学校紹介で同級生の姉と約束したと言い、部活はブラバンにはいった。担当はパーカッション。入学早々ドラムスティックを買わされ、家でも練習をしているようだが、なんだかちょっと違う。なんかヌルい。
ぼくの知っている「ブラバン」は、中学でも、高校でも大会に出ればそこそこ行くような「ブラバン」。(蛇足だが敢て言わせてもらえば、高校で嗜んだ「合唱」も全国会までは行けなかったが、地区大会の銅賞を受賞するくらいのものではあった。そういう意味で音楽の楽しさの一端を教えてくれた仲間、とくに指導に当たってくれたK先輩には感謝している。)つまり、ぼくはそこそこ厳しく練習しなければならない、誤魔化しが利かない「ブラバン」しか知らなかった。だからこそヘタレなぼくは中学でも高校でも、自分と「練習」は関係ないとばかりに最初から逃げてしまった。(同じ理由で身長の高さだけで声をかけてくれた運動部の勧誘も逃げてしまったわけだが、もしあそこで違う選択をしていればどんな人生があったのだろう。あ、これは横道)しかしどうも世の中は決してそんなきちんとしたブラバンばかりではないようだ。娘の学校のブラバンを悪くいうつもりはない。しかし成る程、嗜む程度のメンバーが構成員の大半を占めるようなブラバンがあってもおかしくない。ローマは一日にして成らず。適正な指導者と、適正な練習があってこそ、成果は現れる。ブラスバンドにおいても、経験は短期間であっても大量の練習で補えるにしても、多種の楽器のハーモニーはおそらく、適正な指導者、そしてバンドをまとめるリーダーがいてこそなのだろう。この小説は、おそらくひとつの部活の物語ではあるが、ひとつのバンドの物語ではない。ブラスバンドという「部活」を舞台にしてはいるが、その「部活」を通じたほろ苦い青春の思い出。そしてそれは未だにひきずる古傷のような物語。そんな作品のような気がする。

そういう意味で残念ながらこの作品は、読む前に抱いていた期待からははずされた。勝手にこの作品に「バンド」の物語を期待したのがいけないことではあったのだが、作品はそうではなかった。作品のタイトルと、そしてこのパイプ椅子に座る学生服の少女がトランペットを吹くイラストの表紙をネットで何度も見かけた。この作家のことは知らない。しかしそこに期待したのはブラスバンドというひとつの集団、そしてそれが奏でるハーモニー(演奏)の物語であった。しかしこの作品の描くのはハーモニーではなかった。それは先に書いたとおり、ある学校のブラスバンド部という「部活」を舞台にした登場人物たちの人間模様の物語。それも25年、四半世紀も前の「部活」が、それぞれの登場人物にとり、いまだにいい意味で、悪い意味で、古く乾いたかさぶたのように剥がすこともできない傷のように存在している、郷愁という言葉が似合うような物語であった。
しかし自分勝手な期待を外された作品であっても、別の意味で成功している作品ならばまだよかったのだろう。しかしこの作品は、残念ながらそうでもなかった。
25年前を思い出として遡り、そこから何者にもなることができず、ただの市井の人々となった登場人物たち。それは多くの普通の人々が進む道なのだろう。ならば作品はそのことを描いた、ほろ苦い青春譚と成っていたのだろうか。残念ながらぼくにはそうとも思えなかった。作品は多くの人々の「昔」と「いま」の姿を書いている、しかし「描いて」はいない。悪い言い方をすれば、ある夏、あの頃を共有した人たちを「集めること」だけを目的とした物語。人を書くことは、そのおまけ。「集まる」ことだけが目的の作品、それだけしかないように思える。ぼくが青春譚に求めるものは、以前から言うとおり「成長」である。大人が主人公であろうが、「成長」こそが青春譚の魅力である。しかしぼくはこの作品に残念ながら「成長」を感じ取ることはできなかった。ただ集まり、昔を懐かしむことで終わってしまった。そしてまた25年前の「部活」にも「成長」の物語があったとは思えない。いや、幾つかのエピソードのなかに「成長」のエピソード(それもやはりかなりほろ苦い)を拾うことも不可能ではない。とくに最後に、当時から左手に不自由を持ちしかしそれに打ち克ち、ユニークな強さをもつ先輩のひとりが登場することは、もしかしたら作者にとっては、この先に続く「期待」や「夢」を描いた、つまり「成長」の兆しを描いたことなのかもしれない。しかしぼくにはその前の「失敗」あるいは「挫折」があまりにも唐突で、この素敵な先輩の登場をしても「成長」を感じることはできなかった。

作品のはじめのほうで、当時のメンバーを集めるに際し、主人公他片のもとに訪れた、発案者の桜井の言葉を伝える君島の言葉に答える主人公の言葉が作品を象徴するのではないか。
「楽しかったらしいで、あの吹奏楽部が。」
「バンドがというより、若かったことがでしょう」

ネットで親しくさせてもらっている、同じ高校の遙か彼方の後輩、かつブラバン所属のchiekoaさんが、そのブログ「+ChiekoaLibrary+」のレビューで、この作品を前に途方に暮れているような様子を見せているが、この作品はたぶん「ブラバン」より、「年代」「同時代」のほうが共感を呼びやすいのかもしれない。実は、ぼくはまさにこの作品との主人公と同時代。作品の主人公が1980年に高校に入学して描くあの頃の世界は、1981年に高校に入学したぼくのあの頃に見事にシンクロする。音楽に、とくに洋楽に疎いぼくであっても、この作品のなかで書かれる楽曲の幾つかは自然とそのメロディーさえ頭に思い浮かぶ。しかし、そのディティールの拘りが、作品に生きたかどうかは疑問を呈したい。とくに三十数名の登場人物紹介を敢て作品の冒頭表記だけでは足りず、挟み込みさえ作成しなければ成立できなかった、それぞれの登場人物の弱さはどうなのだろう。遍く、そこに居た人を書くことが小説ではないと思う。三十数名を書くことはできたが、「描く」には至っていないことはこの作品の最大の弱点だろう。
大きな物語の流れがあり、それを描く作品であれば、それもまた否定するものではない。しかし、この作品はそういう作品ではないと思う。
蛇足であろうが敢て言わせてもらえば、同じ物語でも人物をもう少し絞って、そして深く掘り込んで描くべきだった。たとえ、それが他の同じような物語と変わらないものだとしても。

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