小説

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全73ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

イメージ 1

「神無き月十番目の夜」(再読)飯嶋和一(1997)☆☆☆☆☆[2010060]
※ [913]、国内、小説、中世、時代小説、江戸時代、ミステリー

※もはや、本書のレビュー(感想)ではないな(苦笑)

ブログにレビューを残すようになって5年経った。正直に言って「文学」とも「文芸」とも言い切れない「軽めの小説」の感想をしゃかりきに書き残しておくことに意味があるのだろうかと、ときどき自問する。もちろん備忘として自分の感じたことを文章として残し、後から振り返る楽しみがあるのは事実だ。
しかし自分のスタイルの問題も大きいのだが、ちょっと普段の生活のなかでレビューを書き続けるのは少し負担が大きい。さてどうしよう、書き方をちょっと変えてようか、そんなことをつらつら、思ったりもする。

幼いころより本に親しんできている。今まで読んできた書籍のなかでベスト作品を幾つか選べと言われたら、ぼくは本書を必ず選ぶ。それほどに心を打たれ、また記憶に残る作品。
以前よりもう一度読みたいと思いながら、なかなか機会を作れなかった。
骨太で重厚、真剣に向き合わねば読めない作品。この作家の作品は本書に限らず、ひとつひとつの文章をきちんと理解して読んでいかなければならない。ページいっぱいぎっしりと詰まった文字。無駄な修辞はない。素っ気なく、精緻、そして情報が多い文章。「軽めの小説」のように流して読もうとすると、気軽に入り込んだ森の中で迷い、どこにいるかわからなくなるかのように、何が書いてあるのかわからなくなる。それは殊、本書、そして「黄金旅風」「出星前夜」に強い。その三冊に比べれば「始祖鳥記」「雷電本紀」は、またそれらの重い作品を読んだあとに再読をしたからなのかもしれないが、当初の記憶よりずいぶん読みやすい作品に思われる。「黄金旅風」「出星前夜」もまた読み直してみれば印象が変わるのかもしれない。しかし本書は、再読してもなお読みにくい作品だった。もちろん初回に読んだときと違い、話の流れが見えているぶん、読みやすかった。しかし細かい情報は、ひとつひとつの文章をしっかり理解しておかないと混乱する。

本書との出会いはまず本書を書いた飯島和一との出会いから始まる。劇的な邂逅があったというわけではない。年間ミステリー大賞としての「このミス!」2001年度版に「始祖鳥記」が紹介されたことでこの作家を知った。「始祖鳥記」は、やはり骨太で民衆を思う視線で描かれた小説。とてもおもしろかった。続けて「雷電本紀」を読み、「黄金旅風」、そしてやっと本書に辿り着くことができた。評判になっていたにも関わらず本書に辿り着くまでに時間がかかった。それはこの寡作な作家な第一冊目の小説である「汝ふたたび故郷へ帰れず」がどうしても読めなかったからだ。デビュー作を含む三篇の小説を収める一冊だが、何度図書館から借りてきてもどうしても読めなかった。ページをめくる気が起きなかった。それはこの作家に時代小説のおもしろさを期待していたからだろうか。
ならば、なぜ、時代小説である本書を読んでみようと思わなかったのだろうか。
それはやはり、片手間に読むべき作家の作品ではないと思っていたからかもしれない。
この作家の他の作品のレビューでも同じことを書いたと思うが、この寡作な作家が発表する作品は、どの作品も作家が真剣に心血を注いで作り上げた作品。それゆえに読者も真剣に作品と対峙しなければならない。そういう心構えが、いつの間にかできている。本当に骨太で重厚な作品を読みたいと思ったとき、真剣に読む。それがこの作家の作品だと。

そのため、本書を初めて読んだのは作家を知ってから、かなり遅い。ブログでレビューを残すようになった2005年に読んだ。当時のレビューを見るとぼくは、この作品を評価する適当な言葉を見つけられず、ただひたすら「とにかくおススメ!」「とにかく読め!読め!」と繰り返しているだけだ。まさに言葉を失うほど衝撃を受けた。中途半端な言葉で、中途半端に想いを伝えるより、ただ他人に読むことを薦めるだけ。それが一番、この作品に対して誠実な態度だと思った。

さて今回、5年を経て再読してみたわけだが、果たして何か感想は変わったのだろうか。

今まで数多、レビューを残してきた。そのなかで再読の作品も幾冊かある。何度も読み返す作品と出会うことは人生の楽しみのひとつだというようなことを、小学校か中学校の先生が言っていた。当時は、多くの本を読むことこそが大事であり、何度も同じ作品を読み返すことは時間の無駄にしか思えなかった。言っている言葉の意味がわからなかった。
本好きを自認していたつもりだが、その言葉を理解できたのは年齢的に大人になってからであった。年代によって、あるいはそのときの自分の置かれた状況によって、作品の読み方が変わる楽しみというものをやっと知り、味わうことができるようになった。読むたびに印象が変わったり、変わらなかったり。より深く味わうことのできる作品もあれば、逆に読み返すことで、あれほど感動した作品が色あせて見えたり、あるいはもう一度読み直すことで、再度、やはり名作だと思ったり。

さて、本書である。
正直に言う。再読してなお本書は記憶のままの感動があり、やるせなさが蘇る。それは以前に読んだ感想のまま。細かい言葉を重ねれば、多少の違いは出てくるのかもしれない。しかしそれは些細な違い。
圧倒される筆力。それぞれのちょっとした我欲、あるいは良かれと思ったことが全て裏目、裏目となった悲劇、惨劇を再び味わい、噛み締め、再読したことに至極、満足。

なんだ、横道に反れ、長々と綴ってしまったが、その必要はなかった。ただ一言で済ませるべきだったかもしれない。ま、そんなこともある。

にほんブログ村 書評・レビュー

応援クリックよろしければ、お願いします。励みとさせていただきます。


 <参考>飯嶋和一作品のレビュー
「黄金旅風」 http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/1884036.html
「神無き月十番目の夜」http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/5582761.html
「始祖鳥記」http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/47487996.html
「出星前夜」http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/55062819.html

開く トラックバック(1)

イメージ 1

「桐島、部活やめるってよ」浅井リョウ(2010)☆☆☆★★[2010058]
※[913]、国内、現代、小説、連作短編、第22回小説すばる新人賞、高校生、青春

「菊池宏樹」「小泉風助」「沢島亜矢」「前田涼也」「宮部実果」「菊池宏樹」の6編からなる作品

まじめでできるバレー部のキャプテン桐島が部活をやめる。部活をまじめにやろうとしたことが、周囲から浮いたからか。桐島の真意や思いは誰も知らない。桐島が部活をやめる、そのことがさざ波のように周囲の人間に影響を与えていく。彼らは17歳、高校2年生。作品は現在の、現代の若者の「いま」を切り取る。5人の若者の視点で語られるそれぞれの物語。しかし桐島、彼自身の姿が直接には描かれることはない。

小説すばる新人賞は、文学賞のなかでも割と追いかけてきている賞だ。若く伸びやかな才能、そして読みやすい小説を提供してくれる文学賞だと思っている。
さて第22回受賞の本書、正直に言えばどう評価したらいいのか困ってしまった。ネットで親しくさせていただいている方がかなり厳しい評価をしていた。
こうして振り返ってみると、もしかしたらそれほど悪い小説でもないのかもしれない。しかし最初読んだときの文章の読みにくさにはびっくりした。そして、新人賞という文学書を授賞させるだけの何かを、やはりぼくも感じることができなかった。
何故、本書に新人賞を与えたのだろう。この作家は新人賞を受賞してしまったあと、二作目をどう書いていくのだろう。そんなことが思われた。久しぶりに「新人賞の功罪」という言葉が思い浮かんだ。新人賞はその後に続く作品を書けるだけの力が、仄見えるような作品でなければいけないと思う。一作で燃え尽きるとまではいわないまでも、フロックのような作品に新人賞を与えることはどうなのだろう。育てていくという観点が、新人賞には必要だとぼくは思う。しかしそれは間違いなのだろうか。

本書を評価する多くの意見が、現代の若者群像をそのまま捉え、切り取ったことによる共感をあげている。17歳、高校2年生という特別な時期。しかしその年代をそのまま切り取るということはこの小説、あるいはこの作家の独自性とまではいえない。
例えば、最近休筆宣言して残念なのだが、豊島ミホの「檸檬のころ」という作品は、まさに本書で今現在流行の歌や歌手を取り上げるのと同じように、作品の書かれた時代の若い可憐なアイドルを取り上げ、現代の若者、彼ら彼女らの時代や想いを描く。ぼくは「檸檬のころ」を読み、普遍性を持たないその時代のアイドルに若者の姿や心情を仮託して描くのはどうなのだろうと疑問に思った。本書もそれは同じだ。ある時代にのみしか通用しない歌やアイドルを小説の描写の助けにするということは、作品がその時代にしか通用しないということになるのではないだろうか、あるいは自分の言葉でなくアイドルや流行の歌を借りて登場人物や彼らの気持ちを表すというのは安易ではないだろうか、と。
とくに新人賞への応募にそういうことがされるのは違和感があり、さらにそうした作品が受賞することも疑問に感じる。
小説とは普遍を目指すものだとぼくは思う。しかし多様性という言葉を良しとする現代という時代には、限られた時代にのみ通用するだけの作品もまた「あり」なのだろうか。ぼくにはよくわからない。
本書が切り取った「いま現在の若者の姿」はどうなのだろう。先にも述べたが、本書を読み始め、とにかく驚いたのが、文章が読みにくいということだ。文章の上手い下手について語る自信をぼくは持たない。しかしそのぼくにして、本書の文章はかなり酷いのではないかと思わせた。小説としては薄い一冊である。しかし中盤までとても読みにくく、なかなか進まなかった。それはやはり文章のせいだ。本書で遣われる若者言葉は「分かりやすく読める」いまどきの携帯小説のそれではない。その逆だ。「いま現在」のいまどきの若者がリアルに話す言葉を、文章に写しただけ。本書で書かれた彼らが話す言葉が何を伝えたいのか、ぼくにはよく分からない。整理されず羅列される言葉。若者同士なら通じる言葉なのかもしれない。
読者対象を絞ることの試し。作家と同じ年代の若者が読んでわかってくれればそれでよい。本書はそうした狙いを持つ作品なのだろうか。現代の若者の話し言葉を、敢えてそのまま文章に写す。しかしそれは小説なのだろうか。「十七歳の俺たちは思ったことをそのまま口にする」そんな言葉が最初の短編で綴られる。思ったことがそのまま言葉になり、それが文章に落とされる。それは現代の若者の姿なのかもしれない。薄っぺらなだけのイマドキの若者の姿。相手を知ろうとするのではなく、自分だけが大事な世界。自分に自信があるわけでない。かといって他人をきちんと見ているわけでもない。自分しか見ていないし、自分しか見えない。他人に気づくことも、他人を思い図ることもできない視野の狭さ。上辺だけキラキラ輝いて見える友人たちを羨む。しかし友人たちの人間の中身に近付こうとするわけではない。うわべだけ。自分を訴え、理解してもらおうとするわけでもなく、他人をきちんと理解しようとするわけでもない。そんな若者の姿が本書から浮かんでくる。
桐島というバレー部のキャプテンが部活をやめることで、桐島の本質に近付こうとする少年がいないわけではない。しかしそれも積極的にはされてない。桐島が戻ってくるまで俺が守っていると嘯く少年は、決して桐島本人のもとに行こうとするわけではない。
本書に書かれるいまどきのそうした若者の姿を同じ年代の読者たちは、どう読むのだろう。自分たちの姿に重ね合わせ、何をどうしてよいのかわからない歯がゆさに共感するのだろうか。「同じ、同じ」「わかる、わかる」と、。
しかし、それは決して瑞々しい感性ではない。ただ、うだうだじくじくしているだけだ。
若者なら行動して成長してほしい。ぼくはそう思う。しかしもしかしたら、そう思うこと自体がもはや古臭いのかもしれない。やれやれ

ところで本書の、その姿の見えない桐島を中心とした物語というのは、実は小説の構図としては面白い。ぼくは本書を読んで、有名な不条理劇である「ゴドーを待ちながら」(サミュエル・ベケット)を想起した。こ劇ではタイトルにあるゴドーという男が、登場人物の話題となっているが、彼自身はその姿を現わさない。数多のパロディを生み出した作品としても有名だが、本書がこの作品を意識しているならばなかなかおもしろい。古典不条理劇の構図に当てはめ、姿を見せない男の与える影響を通し、現代の若者を描く。そういう観点として読むことができるなら、また違ったおもしろさがあるのかもしれない。いや、そんな視点はないか。


にほんブログ村 書評・レビュー

応援クリックよろしければ、お願いします。励みとさせていただきます。

開く トラックバック(1)

イメージ 1

「ペンギン・ハイウェイ」森見登美彦(2010)☆☆☆☆★[2010052]
※[913]、国内、現代、小説、思春期、少年、不思議、ペンギン、おっぱい(笑)

「ぼくはたいへん頭が良く、しかも努力をおこたらずに勉強するのである。
だから、将来はきっとえらい人間になるだろう。」
郊外の新興住宅地に住む小学校4年生のアオヤマ君。彼は日々、たくさんの研究をし、思索し、ノートに記録し、えらい人間になることを夢見ている。知的かつ冷静に見えるアオヤマ君だが、考えることで活動する脳に甘いものが必要でお菓子をたくさん食べるのだが、歯磨きもできないほど眠くなり、そのまま寝てしまうことが多い。結果、歯科医院に通うことになる。もっとも歯科医院には友達のお姉さんがいる。アオヤマ君を「少年」と呼ぶお姉さんとは、歯科医院だけでなく馴染みの喫茶店「海辺のカフェ」でチェスをしたり、話をしたりして過ごす。
そんなアオヤマ君の住む街で不思議なできごとが起こった。ペンギンの集団が突然、街中に現われ、さらにトラックに載せられ運ばれたペンギンたちが運搬途中で忽然と姿を消してしまう。新聞にも載った不思議な事件。そして驚くべきことにペンギンはまたもや街に出現し、目撃されたという。いったい何が起こっているのだろう?
探検仲間のウチダ君とペンギン事件を研究することにしたアオヤマ君。クラスにチェスを普及させようとする、相対性理論を知っている可愛く聡明な女の子、ハマモトさんもその探検に加わった。森の奥の草原で彼らが遭遇するのはハマモトさんが「海」と名づけた不思議な水の球体。観察を続けると拡張期と収縮期があるようだ。果たして「海」はペンギンの出現と関係しているのだろうか?そしてアオヤマ君だけが知っているお姉さんの不思議な能力も「海」の存在と関係しているのだろうか?
いっぽうアオヤマ君の生活にはクラスの威張り屋スズキ君を中心としたスズキ帝国がアオヤマ君にちょっかいを出してくる。妙に大人びたアオヤマ君の行動が、スズキ君の癇に障るのだが、アオヤマ君にとって論理的でないスズキ君の行動はよく分からない。
小学校4年生という思春期の入り口、アオヤマ君の出会う不思議と、日常を丁寧に描く一冊。
果たしてアオヤマ君はペンギン事件の謎を解くことができるのだろうか?

読み終えて一週間以上経つが、主人公のこさかしい頭でっかちのアオヤマ少年の姿を思い出すことはできても物語の最後を覚えていない。そういう意味で本作品に「物語」の醍醐味はない。「ペンギン・ハイウェイ」と名づけられたタイトルだが、ペンギンは出てきても、それほど重要でないし、ペンギンの可愛さを期待すると外される。本書は思春期にさしかかろうとする少年の物語なのだ。
物語を覚えていないが、作品中盤から終盤にかけ、ひたひたと迫り来る喪失の予感はとても印象に強い。たぶんそういう物語だったのだろう。失うことで成長する物語。「父さん、ぼくはお姉さんがたいへん好きだったんだね」主人公のアオヤマ君が最後に父親に語る言葉はとても印象的だ。「好き」ということさえ気づかぬまま失うこと。いや、失うことではじめて「好き」ということを自覚する。
頭でっかちの理論家は自分のことを同じ年代のなかでは大人のほうだと思っている、しかし実は異性を異性として好きになることさえまだ解らない幼さのなかに少年はいる。その幼さが微笑ましく、好ましい。理論や研究だけでは「ひと」は成長できないんだ。

しかし正直に言えば、ぼくは本書をあまり好きだとは言えない。それは先に書いた「物語」の失敗にある。本書以前、この作家は京都という街に起こる数々の摩訶不思議な怪異を“ファンタジー”作品として書いてきた。それらに比べ、本書のSFっぽい設定は読者を選ぶ。書き込みの問題かもしれないが違和感が残った。不思議を不思議のまま残すことは、ファンタジーだと許容できる。しかしSF、いやSFっぽい作品だと誤魔化されたように思えるのかもしれない。SFなら、SFらしく合理的に腑に落ちるような説明をして欲しい。あるいは、少年を主人公とした少年の語り口を持った本書は、児童文学もどきの作品としてよりわかりやすい「物語」であって欲しかったというほうがよいかもしれない。

好きだとは言い切れない本書だが、しかしこの作品はすごい。率直に「すげぇな、森見登美彦」と呟いてしまう。本書をより楽しむためには、まず「恋文の技術」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/57808737.html ]を読むべきだ。
「恋文の技術」は自意識過剰なモラトリアムを生きるナイーブな大学院生の青年の、なんだか妙に心温まるお馬鹿な話しである。個人的には森見登美彦を見直した。作家は「恋文の技術」で主人公のへたれ青年に女性のおっぱいに対して、これでもかこれでもかと興味を持たせる。女性のおっぱいに惹かれる自分を自問させる。それは女性あしらいに長けていないその純朴な青年の異性に対する純真さの表れであるともいえる。客観的にいえばイヤらしい気持ちなのかもしれない。しかし、あまりあっけらかとしたおっぱいへの拘りと行動が不思議とイヤらしさを感じさせない。まさに森見登美彦、天晴れ!(ぼくは絶対、モリミーとは言わないのだ)
間に「宵山万華鏡」という作品を置くものの、そのおっぱいへの拘りが続けて本書でも語られる。本書でのおっぱいの拘りは自意識以前の幼い少年の持つ興味である。お母さんのおっぱいとは違う、お姉さんのそれに惹かれる少年。そして同級生の少女が、おっぱいがないことへの観察。少年の興味は普遍のおっぱいに対してのそれではない。お姉さんという自分で気づかぬ思慕の対象のおっぱいである。ある異性固有のものへの執着である。思春期以前の未分化の性の状態にある少年が、思春期の少年として、異性を異性として認識するためのきっかけとしておっぱいをここで使うことは見事である。純粋の興味は恥ずかしいものではないと少年に語らせるその興味が、実は決して純粋なものでなく、ある異性に対する自分でも気づかぬ思慕の想いというのがよい。少年とは、お姉さんが大好きなものなのだよ。それはまた「恋文の技術」という作品で主人公たるモラトリアムの青年との対比という意味でも見事である。ここはひとつ若い世代のひとに、この点をテーマにした論文なり、感想を書いてもらいたいものだ。
たぶん現役高校生は「おっぱい」「おっぱい」と書くのは憚れるだろうから、仕方ない、文学部系の大学生に、ぜひ現代作家作品論のテーマとして一本論文を書いてほしいと願う次第だ。夏休みの宿題にどうだ?そこの君。おっぱい万歳!なのだよ。

蛇足:幾つかの書評でとくに「海辺のカフェ」が「海辺のカフカ」を連想させ、村上春樹の書く小説のようだという意見を見た。しかしぼくには本書が好きな作家のひとり川端裕人の作品のように思えてならなかった。整理すると「少年」「SF」「ペンギン」「喪失」あたりが川端裕人を連想させるキーワードになるのかもしれない。(厳密には川端作品にも「おっぱい」をキーワードにした作品もあるのだが・・・。「ふにゅう」(笑))


にほんブログ村 書評・レビュー

応援クリックよろしければ、お願いします。励みとさせていただきます。

開く トラックバック(1)

イメージ 1

「オー!ファーザー!」伊坂幸太郎(2010)☆☆☆☆★[2010051]
※[913]、国内、現代、小説、父親、青年、青春、日常

高校生の由紀夫には、人にはあまり言えない秘密があった。それは家に父親が四人いるということだ。当時、母親は全く違う個性の四人の男に四つ股をかけていた。母に惚れていた四人の男は、母が自分のほかにもつきあっている男がいることを知ったとき、あきらめる代わりに四人一緒に母と結婚式を挙げることにした。勿論、正式な入籍はしていない。そういうわけで由紀夫はひとつ屋根の下で、母親と四人の父親と一緒の六人暮らしをしている。ギャンブル好きで、嘘や出まかせを本当のことのように語る鷹、問題生徒を抱える熱血中学教師で、スポーツ万能の勲、大学教授で思慮深く、いろいろな知識を持つ悟、居酒屋をやっている、女性好きで女性あしらいのうまいプレイボーイの葵、個性豊かな四人の父親。
由紀夫にとって遺伝子上の父親は四人のうちの誰かではあるらしい。しかし実際には誰が本当の父親かは誰もわからない。四人の父親は、それぞれ自分こそ本当の父親だと思っている。ことあるごとに彼らは自分が父親であることを由紀夫にアピールしたがった。
いっそDNA鑑定すればと由紀夫が四人にもちかけたこともあった。すると、鑑定をして、もし父親じゃなかったらどうするんだと、四人は切実に寂しげな表情を見せた。それ以来、由紀夫はDNAについては触れないことにした。
定期試験を目前にしたある日、同級生のお騒がせ少女多恵子に声をかけられたところから物語は始まる。不登校の友人の家に立ち寄ったり、要領のあまりいいといえない昔からの友人のトラブルに巻き込まれたり、母親の長期出張の間に起こる幾つかの事件。それらを、いつの間にか四人の父親とともに乗り越えていく物語。
巧妙に張りめぐらされた伏線が終盤、怒涛のごとく(ちょっとオーバー)回収されていく様は、まさに見事!なんて素敵なオヤジたち!
(あっ!また、いいかげんなあらすじだ)

作家自らが本書あとがきで第一期の最後と明言する、3年ほど前の新聞連載小説。ちなみに第二期は「ゴールデンスランバー」からはじまる(そうだ)。
なるほど、この作品があったからこそ、今(第二期)の伊坂光太郎の作品がある。そのことがとてもよく理解できる。あの頃(第一期)の伊坂幸太郎の匂いをぷんぷん!感じる。あぁ、伊坂がここにいる。

しかし、デビュー作「オーデュポンの祈り」http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/55498807.htmlを伊坂作品のなかで一番高く評価している妻に言わせると本書は「ダメ」だそう。そういわれると伊坂幸太郎には第一期の前に、「オーデュポンの祈り」という第0(ゼロ)期があったのかもしれない。確かに本書は第一期の洒脱で軽いタッチの伊坂作品の系譜のなかにある。しかしデビュー作「オーデュポンの祈り」にあったような「不思議」な空気、空間を感じることはない。いや今思うと「オーデュポンの祈り」は伊坂作品のなかでも孤高でかなり異質だった。だからどうだという訳ではない。ただ、図書館の片隅にひっそり置かれていたデビュー作以来のつきあいの我が家にとって、作家が第一期と呼ぶ以前の世界こそ、とても大事な存在なのかもしれない。

さて本書である。作家が第一期最後というだけあって、確かに第二期伊坂幸太郎への架け橋となるとても「現実」(※)的な作品である。「ゴールデンスランバー」以降を作家は第二期というが、それらの作品を全般的に捉えると、相変わらずお伽噺的なところや洒落た会話があり、伊坂という作家を感じるのだが、それ以前の作品に比べ「軽さの魅力」にとって代わり、作品全体になんとなく重い雰囲気が醸し出されているように感じる。その重い雰囲気を単純に「現実の重み」と表現してしまうと、たぶんニュアンスは全く違うものになってしまう。これをなんと表現すべきだろう。いうならば、「お話し」ならばうまく収まるところや収めるところを「実際(現実)」にはそんな風にうまくはいかない、そういうことが示されているのが第二期の特徴といえるのかもしれない。
勿論、それは第一期の作品になかにも萌芽していた。「魔王」であり、「週末のフール」といった作品の中に。
(※ここでぼくが使った「現実」という言葉は「リアル」という意味の現実ではない。「架空の現実」という言葉が似合う、「お話し」的な現実。それまでの伊坂作品の、どちらかといえば大団円、いわゆるめでたしめでたしですべてがうまく終わるような「お話し」に対して、そうでない作品という意味。ほかにいい言葉も思いつかないのでとりあえず「現実」という言葉を使ってみる。)

本書には確かにそうした「現実」的な部分があり、それはとても唐突な違和感があった。具体的には街のボス的存在の富田林という男が自分の部下に依頼した仕事を、その部下がさらに主人公由紀夫の友人、鱒二に押しつける。緊張した鱒二は、前夜眠れなくなり、結果、寝坊してその仕事を行えなかった。そのことに対して富田林は、鱒二に罰を与えようとする。
父親のひとりである鷹が富田林の知り合いであり、自分も富田林と顔見知りであった由紀夫は、自分が出て行けば何とかなるのではないかと考える。しかしそう甘くはなかった。面倒な仕事を放りだすような、甘えた子供は痛い目に合わせなければ駄目だ。富田林はそう言う。それは富田林と顔なじみであった鷹が登場しても変わらなかった。結局、鷹のその場しのぎの言葉でその場を凌ぐが、それはあくまでもその場凌ぎにしかならず、さらに由紀夫たちは難問を背負い込むことになる。この事件の解決は、まぁとてもお話し的にあっけなく解決されるのだが、しかし「お話し」としてはちょっと出来すぎであり、あるいは「お話し」としてきちんと解決されたわけでなく、たぶん、読者の多くがなんだか不完全燃焼を感じるような終わり方である。それを許すか許さないかの評価は分かれるだろう。ただ、そういう「現実」も実際あるのかもしれないな、とぼくが思ってしまうのは、勿論、本書でそれまでに伊坂が描いた物語があるからで、他の作家が同じようなテクニックを使っても、きっと評価しないだろう。
つまり、本書は、ぼくにとっては面白いという意味での伊坂作品として、評価に値するということだ。もっとも広げすぎた伏線の回収が、都合よすぎたり、あるいは拾いきれてなかったりしている部分は本書の弱点であり、もっとあげつらねてもよいのかもしれない。
しかし、まぁ、それはそれと置いておくとして、きっと覚えておいても絶対どこでも使えない、一見、含蓄の深そうな格好いい言葉のパレードは、伊坂だなぁと、なかなか楽しいものである。
いいよな、こういう、いい加減にその場しのぎの格好いい言葉を遣えるひと。

蛇足:作家あとがきで少し触れられた「イローナの四人の父親」(A.J.クイネル)をほぼ二十年ぶりに再読してみているが、もし伊坂がこの作品のパロディーとして本書を書いているとするなら、それはそれでスゴイと思う。そうなるか?普通?って思うぜ

にほんブログ村 書評・レビュー

応援クリックよろしければ、お願いします。励みとさせていただきます。

開く トラックバック(2)

「天地明察」冲方丁

イメージ 1

「天地明察」冲方丁(2009)☆☆☆☆★[2010049]
※[913]、国内、近世、江戸時代、暦、歴史、会津藩、天文学、渋川春海、和算、本屋大賞2010年大賞受賞、

会津藩邸に身を寄せ江戸城の御城碁に出仕する渋川春海。彼の本当の名は、碁打ちとして名を馳せ死んだ父親の名を受け継ぎ安井算哲であった。しかし春海は、二代目安井算哲を継いではいたが名乗ってはおらず、自らを渋川春海と名乗っていた。春海は父親の晩年の子であり、初代算哲である父は春海が生まれる前に養子をもらっていた。
安井算知、四十五歳。春海が生まれてからは春海の義兄として、また後見人として、春海を支える立場となった。しかし算知は既に安井を名乗っており、またその働きも文句のつけどころがなかった。三代将軍家光の異母弟にして将軍や幕閣から絶大な信頼を得ている、会津肥後守こと保科正之に、その碁の相手として算知は召抱えられていた。会津藩邸に春海が身を寄せていたのも義兄、算知の後援ゆえであった。春海自身に碁の実力が備わっていないわけではなかった。しかし充分な技量と地位、二十年以上の経験の差を持つ義兄がいることで、己の曖昧な存在を素直に受け入れ、自由を味わっていたのかもしれない。自分こそ「安井算哲」と寺社奉行に名乗り、家業を邁進することもできた。しかし敢えてそうはしなかった。このまま、ただ家を継いでしまったら、どこかにあるはずの本当の自分が消えてしまうのではないか、そんな思いが春海にはどうしても消えないのであった。
そんな春海が出会ったのが、宮益坂の金納八幡の奉納される算額の絵馬に明察を回答していた関孝和という名前であった。この男に会ってみたい。春海はそう心に誓うのであった。
一方、春海は老中である酒井忠清より全国で北極星を見て、測量をしてこいと命ぜられる。それこそが、渋川春海がその半生をかけ、打ち込むこととなった改暦への第一歩であった・・・。

久しぶりにわくわくどきどきしながらページをめくった。こんなにおもしろい読書は久しぶりだった。読み終えることが惜しい、そう思いながら中盤以降は読み進めた。残りの分量で終わらせられるのか、もっともっと読んでいたい、そう思いながら読む作品は決して多くない。本書は久しぶりにそんな一冊であった。

本書が素晴らしいのはただのおもしろいだけの娯楽小説ではなく、かといって鹿爪らしい顔で読まなければならない難しい文学書でもない、中間をうまく行くエンターティメント小説であったことだ。確かに本書が扱う“数学の問題”は難しい。しかしその数学の問題が理解できなくても、登場人物たちが数学の問題と“真面目に向きあっている”ということさえわかれば本書を楽しむことができる。勿論、数学の素養があればさらにおもしろいらしい。ぼくには不明だが、本書を読んだ読書仲間がそう聞いたそう(伝聞)。
好きな作家、川端裕人の同じように数学の問題を扱った作品「算数宇宙の冒険‐アリスメトリック!‐」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/59247715.html]を最近読んだ。それと比較すると本書の判り易さ、万人の読者が感じるおもしろさは明らかだ。ともに“数学”を扱っているふたつの作品は、“数学”自体がテーマの作品ではない。しかし「算数世界の冒険」のほうは“作家がなんと言おう”が、作品のなかに書かれる数学がおぼろげにでも理解できないと正直、読むことが辛い。文系国文科卒のくせに長年、会社の経理部門にいるぼくにとって“算数”は解るが、“数学”は解らない。川端裕人の「算数世界の冒険」は、ぼくにはおもしろさを感じることまで辿り着くことのできない作品であった。
しかし本書は違う。本書で書こうとするものは、数学そして天文学、暦学という学問に真摯に向き合い、究めようとした渋川春海という人間の姿であり、その彼を取り巻くひとびとの物語である。「明察」という言葉の示す“ひとつの正解”が導きだされる“数学”という学問は作品に大きな意味を持つ。しかしそれに拘る必要はない。数学という学問の存在意義さえ理解できれば、数学自体は理解できなくても本書の面白さは充分伝わる。乱暴に言ってしまえば、主人公の向き合う学問は数学でなくても本書はよい。主人公と、主人公と同じように学問に真摯に対峙するひとびとがいれば本書の物語は成立する。もっともその学問は、解釈によって正解が変わるような文系的な学問より、たった“ひとつの真理”が在る理系的な学問のほうがよいだろう。勿論、渋川春海の物語であれば、数学、天文学、そして暦学以外はあり得ない。しかし本書を楽しむ本質は決して“数学”という学問ではない。そこが川端裕人の「“算数”世界〜」と名づけたが、中身はしっかり“数学”の作品と違い、万人に広くオススメできる、オススメしたい所以だ。

真面目に学問に向かい、それを究めんと生きること。あぁ、こういう生き方を見習わなきゃいけない、そう思わせるのが本書の良いところだ。ノンフィクションであるが若く夭逝した天才棋士、村山聖(さとし)が短い生涯を精一杯生き抜いたことを伝える「聖の青春」(大崎善生)や、同じ近世の時代を舞台にした飯嶋和一の最近の作品ではない「始祖鳥記」や「雷電本紀」といった作品が本書を読んでいる最中、ぼくには思い出された。
自分のためだけではなく、効率的という言葉で誤魔化すようなズルをすることもない。ただ一所懸命、まさに“真面目”に生きること。そのことがどれほどに大事なことであるか本書は久々に思い出させてくれた。こういう正面切って正論を語る作品はいまどきの小説には少なくなったような気がする。こういう正論を語ることがなんとなく気恥ずかしいように思えるようになったのはどうしてなのだろう。斜に構えるほうが格好よいという風潮はなんだか変だ。もっともそういう風潮も最近は少し過ぎてきたような気もする。王道回帰。

本書を万人にオススメする分かり易さとおもしろさで評価する一方で、いまひとつ深みが不足するような物足りなさを感じたこともまた正直な感想だ。SF畑で活躍するこの作家、その名前だけはぼくも知っていた。興味は持っていたが、どんな作品を書いているのかは知らず、またどの本から読み始めたらいいのか迷っていた。そんなとき、たまたま本書を読んだことをきっかけに、ネットの読書仲間でがらしさんが、この作家の代表作といわれる「マルドゥル・スクランブル」三冊を貸してくれた。いわく“「天地明察」は決して冲方丁の本当の魅力を伝える作品ではない”。その「マルドゥル・スクランブル」を読んでいて思い浮かんだのが、ネットで「天地明察」を評したどこかの一文にあった「ライトノベル」という言葉。なるほどこの解り易さと、深みのなさはもしかしたらそこら辺にあるのかもしれない。
本書「天地明察」においても主人公をはじめとする登場人物は魅力的な存在ではあったが「人物」が書けていたとはいえないだろう。彼らはステレオタイプの粋を決して越えていない。個人的に感銘を受けた会津名藩主、保科正之にしてもこの小説の登場人物だから感銘を受けたのではなく、史実に裏打ちされた事実があればこそだ。(水戸光圀が豪放磊落に書かれていたのは、ちょっとビックリ。楽しかった)そして主人公を取り巻く全てのひとびとが、あたたかな善きひとびとであることもまたステレオタイプのひとつである。ただ、それが悪いというつもりはない。本書はそういうところもまた魅力といえる作品なのだ。
そのなかで特に忘れられないのは、主人公渋川春海が初めて“己の勝負”を見出した、全国で北極星の観測をする旅で供した老学者、建部と伊藤のふたりだ。このふたりは学問という真理を見出す途上には、年齢や経験なぞ関係ないという態度で春海をあたたかく迎える。そして自分たちの年齢では届くことのできない真理を、若い春海に託す。色々なひとの思いに応え、そして自らの信念で真理を追い求める春海の姿を描くことが本書の物語であるが、この建部と伊藤というふたりの老学者の想いこそが、春海の心に一番深く突き刺さり、あるいは読者たるぼくらの心に深く染み入ったようにぼくには思える。勿論、ふたりの妻“こと”や“えん”のエピソードも微笑ましい。作品にとって重要な人物、関孝和の登場はしかし少し引っ張りすぎた。
一方、逆に己の本当の居場所を求めて、ふらふらと曖昧な立場に甘んじていたどっちつかずの主人公、渋川春海が、後半、政治活動を画策する様は、人物造形に少しズレを感じた。改暦を成し遂げたことが渋川春海を評価する重要事ならば、改暦成就のために、ただ学問好き子どもから、政治のできるだけの大人になったことを評価するべきなのだろうが、このステレオタイプの物語においては、逆にステレオタイプな“ズルい大人”になってしまったように思え、違和感が残った。少し残念。
個人的にはこうした部分の違和感なくするためにも、もっと深く人間を掘り下げて書くような作品を好むのだが、しかし一方、万人が心から楽しむことができるという程度は、このくらいが妥当なのかもしれない。同じ題材を今の飯嶋和一が書いたら、おそらく通(ぼくのような通もどきも含む)は好むかもしれないが、万人には受けない。本屋大賞という文学賞を、ぼくは少し侮っていた。本書はまさに万人が楽しむことのできる作品だ。

親の名を受け継ぎ、安穏と暮らすことを選ばず、“どこかにあるはずの本当の自分”を、自らの手で掴みとった渋川春海の生涯を描く真っ当な物語を、ぜひ心から楽しんで欲しい。
(あれ?最後だけ八方美人男さん風になってしまった)

蛇足;うまくまとまらず、ぐだぐだな感想になってしまった。そういえば本書は直木賞の候補にもなったようだ

にほんブログ村 書評・レビュー

応援クリックよろしければ、お願いします。励みとさせていただきます。

開く トラックバック(4)

全73ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事