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キリスト教の歴史にも、幾多の革新と反動の変遷があった。
その最も大きなものは、ルターに始まる改革と、その反改革の歴史であろう。その影響は、イギリスにも及び、やがて、カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)を折衷した、独自の「イギリス国教会」が成立する。これに対し、新旧いずれからも強い不満と批判が寄せられるが、プロテスタントの立場から、国教会の徹底改革を唱えたのが、「ピューリタン(清教徒)」と呼ばれる人々であった。
「ピューリタン」という呼称には、異端としての侮蔑の意味あいも含まれていたようだが、本来は、国教会を純化(ピューリファイ)するよう求めたところがら、呼ばれるようになったという。彼らの目には、カトリックも、教会の権威主義と世俗化に流れ、また、イギリス国教会も、中途半端な改革にとどまり、どちらも堕落した宗教の姿としか映らなかった。そこで彼らは、真剣に国教会を糾弾し、批判を繰り返した。これに対し、イギリス王権は、様々な形で圧力・迫害を加え続けた。
一八○八年の夏のことである。あるピューリタンの一団が、信教の自由を求め、故国イギリスを離れた。そして宗教上の寛容を認めているオランダに移住するが、深刻な生活苦にみまわれ、子弟の教育にも苦慮するようになる。たまたま、アメリカ植民地の話を耳にした彼らは、新大陸への移住を決意する。そして一六二〇年九月、帆船メイフラワー号に乗って、大西洋を船出した。彼らこそ、ピューリタンとして初めてアメリカに植民地を開いた、かの「ピルグリム・ファーザーズ」であった。
メイフラワi号に乗ったのは、乗客百二人、乗員四十七人。そのうち、宗教的理想を求めて乗船したのは、四十人足らずであったようだ。航海は、困難を極めた。だが、約二ヶ月後、船は新大陸に到着。しかしそこは、当初、目指していた現在のニューヨーク付近とはほど遠い、北方のニューイングランドであった。
ところで、この移民団のリーダーの一人で、当時三十歳であったウィリアム・ブラッドフォードは、このようにつづっている。「かくも大海原を押し渡り、幾多の苦難を乗り越え来たるに、出迎える友もなく、波風に打たれし身体をいたわり休める宿もなく、よるべき家も、ましてや町もなく・・・、見渡す限りは恐ろしく淋しき荒野にて、(中略)・・・夏は去り、万物はすざまじき形相にて立ちはだかりき、・・・」(関元著「アメリカの原像」毎日新聞社)
見渡す限りの荒野に降り立った彼らは、冬を迎える。一団は、厳寒と病気に苦しんだ。そして春までに半数以上が死亡し、生き残ったのは、わずか五十人ほどであった。だが、ピューリタンは屈しなかった。いかなる厳しい環境にあっても、胸中には、イギリスで達成できなかった理想社会建設への情熱が、赤々と燃えさかっていた。彼らは、ひたすら働き、努力を重ね、苦境を乗り越えた。そして、アメリカ建設の祖として、歴史にその名をとどめるのである。
自由の天地アメリカに、我が理想の都を建設したいピューリタンは、の確固たる信念に生涯をかけ、命をも惜しまなかった。教義の高低浅深はともあれ、彼らなりの「精神の戦い」は、今なお確かな足跡を残しているといえよう。とくに、自治の市民政体を組織し、法の制定と遵守を約す「メイフラワー誓約書」は、民主的な契約社会のモデルを示し、その後のアメリカ社会の建設に少なからぬ影響を及ぼしていく。また、ピューリタンが創立したアメリカ最古の大学ハーバード大学は、アメリカの「知性の府」として著名だが、これも彼らが残した尊い遺産の一つといえよう。
輝き1
「アメリカ建国の父たち」は決然と信念に殉じた
一六二〇年(今から三百七十六年前)の秋。九月であった。イギリスから大西洋の大海原に船出し、嵐をついて、新天地アメリカへ向かう一隻の小さな船があった。アメリカ建国の原点である「巡礼の始祖」(ピルグリムラァーザーズ)を乗せた、三本マストの帆船である。〈エンジンではなく、帆をかけ、風で進む船)船の名前はメイフラワー号。"五月の花"の意味である。わずか長さ二十七“、一八○ノの小型船であった。もともと、人を乗せる客船ではなく、フランスからイギリスヘ、ワインを運ぶ使い古した商船である。大西洋には、秋から冬にかけて、「彼岸嵐」と呼ばれる季節風が吹き荒れ、船は木の葉のように、揺れに揺れる。不用意に甲板に出ようものならば、たちまち波にさらわれてしまう。船室にも、容赦なく風や雨が吹きこんでくる。当然、船酔いも激しい。いずれにせよ、死と隣り合わせの、命がけの航海であったことは確かである。
この船で荒海を越え、未知の新世界を目指しゆくのは、一体、どんな人々であったのか。その中核を担ったのは、信仰の理想の炎に燃える清教徒(ピューリタン)たちであった。
すし詰めに乗った百二人の船客のうち、四十一人が清教徒。また百二人のうち二十九人が女性であった。"核"が大事である。"核"になる人が勇敢であり、責任感があり、思いやりがあれば、皆が勝利できる。
旧勢力の猛攻撃
清教徒たちは、聖職者の腐敗や堕落を絶対に許さなかった。教会の傲慢な差別や形骸化を認めなかった。そして「宗教改革」を、未完成のまま終わらせては断じてならないと、立ち上がったのである。ところが、この新たな改革の動きをつぶそうと、旧勢力は猛然と攻撃してきた。これが歴史のつねである。"服従せよ!さもなければ追放する"という権力の恫喝が加えられた。当時の記録によれば、清教徒たちは「四方八方から追いたてられ、迫害された。……ある者は連れていかれて牢にたたき込まれ、またある者は、家を包囲されて、夜となく昼となく監視され、その手から逃れることはほとんどできなかった。そしてたいていの者は、住みなれた家と土地を残し、生計のすべてをすてて、やむなく立ち去らねばならなかった」という弾圧の連続であった。〈引用は『アメリカ古典文庫15ピューリタニズム』、大下尚一訳、研究社出版〉
そうしたなかで、一部の清教徒たちが、オランダヘの移住を経て、新大陸アメリカヘの旅立ちを決心した。これがメイフラワー号の出発となったのである。
彼らは考えた。"何もせず、ただ老いていくのみでは、やがて敵の罠に陥ったり、取り囲まれて、そこから出て戦うことも、逃げることも、できなくなってしまう〃と。そして、今こそ、自分たちから打って出て、自分たちの理想の国土を、自分たちの力でつくろう!と行動を起こしたのである。
彼らは、いわゆるエリートではなかった。その多くがイギリスの小さな村の出身。中、心のリーダーであったブラッドフォードという青年は、聖職者でもなければ、大学出でもなかった。父がいないなか、苦労して人格を鍛え上げた人物である。苦労に徹した人、また、しっかりと地に足のついた庶民こそが強い。学会を支え、守ってくださっているのも、そういう尊い方々である。いわゆるエリートは、要領がよく、ずるい場合がある。
「水の信心」1だが水も沸騰する
この時、青年リーダーは三十歳。若き血潮が熱くたぎっていた。戸田先生も言われていた。「閉ざされた青年であってはならない。水の信心というけれども、水も、時と条件によっては、沸騰することもあるのだ。革命児は、ただの平穏な、ゆっくりした生活を夢見るようでは、成長できなくなるだろう」と。
ともあれ、悪戦苦闘の航海はニカ月あまりに及んだ。そしてさらに、上陸すべき、ふさわしい地点を求めて約一カ月。この間、船の上では、自由と平等を重んじ、法に基づいて、"結束して理想の社会を建設しよう〃という誓約が結ばれた。これが有名な「メイフラワー契約」である。長く苦しい航海の果てに、ボストン近くのプリマスに上陸。ここは、私どもの「ボストンニ十一世紀センタi」からも大変に近い。
待っていたのはただ荒野のみ
彼らを待ち構えていたのは何であったか。それは、ただ荒野であった。歓迎してくれる友もいなかった。風雨をしのぐ宿もなかった。助けの手を差し伸べてくれる町もなかった。しかも、過酷な冬が来ていた。"今でいえば、南極大陸への上陸を想像すれば、少し実感がわくかもしれない"と言う人もいる。最初の冬だけで、次々と壊血病などによって倒れ、生き残ったのは、総勢百二人の半数・五十人。わずかに二十三世帯だけとなってしまった。ひどい時には、その五十人のなかでも、健康な人間は六、七人しかいなかった。
しかし彼らは、献身的に看病にあたり、仲間を励まし合い、守り合っている。やがて春になると、地元の先住民(インディアン)から、トウモロコシの栽培や、タラの漁の方法も学んだ。彼らには、愚痴も文句もなかった。決然と、我が信念に生き、そして殉じていった。
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