タイヤと共に

日常の出来事を受け狙いと言う薬味を加えて大袈裟に書いています。

母の介護

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母の介護8

今は毎日曜日しか母のいるグループームには行きません。

毎週会うので症状の進み具合は私にはわかりません。
しかし、久しぶりに会う親戚や近所の人によると、「進んだかな」と言います。

そう言えば兄と私を取り違えたりしますから、悪化しているのでしょう。
私が「やはりそうかな」程度の認識自体、昔ほど深刻に考えないで済むということです。

「不幸を感じているよりも、不幸に慣れてしまったほうが不幸だ」とはよく言われますが、前回にも書いたように、病気の「病」はもう治らないと思っています。

慣れてしまうこと自体、次の行動に移れるということです。

母に関する雑音を深刻に受け止めて、何も出来ない自分に嫌悪感を抱いていたのですが、
今思うに自己嫌悪は一種の甘えです。打つべき手はあります。そしてありました。

昨日の日曜、母と墓参りに行こうと思っていましたが、生憎の雨です。母はまだ墓参りという義務感は、まだ少し残っているようですが、次回にしようと言うと、ホッとして安心した顔になりました。

童心に戻りました。「出来ればしたくない」は素直に表情に表れます。
もう社会の約束事の履行は卒業です。

これからは煽てながら、「遊びに行くよ」感覚で墓参りに連れて行こうと思っています。

母の介護7

前回はアホバカ笑い話を紹介しましたが、今回はちょっとアホバカ悲しい話を紹介します。
母がグループホームに世話になる前の話です。

母は毎日私の携帯に20回以上電話をかけてきました。私は全てに応答しています。
しかし短時間に同じことをかけてきますので、声を荒げることもありました。

ある日気分が悪いとの電話。予想していた最悪の出来事です。私は仕事中でしたがすぐに母の家に飛んで生きました。そのときの状況はひどいものでした。

上から下まで汚物まみれ。すぐに掃除をし風呂を沸かして、薬を飲ませ寝かせました。病院に行くほどの事もなさそうですが、母は自分で対応できなくなったのです。

しばらく話をして落ち着くと、私の仕事への配慮から「すぐに仕事へ戻れ」の命令口調。寂しいくせに。
認知症なのに、私の仕事の苦労を知り抜いていますから、言ったのだと思います。

大丈夫と判断した私は、汚れた下着を洗濯機に放り込んで仕事に戻りました。
仕事を早めに切り上げ、母の家に戻りました。

母は寝たまま待っていました。それでも相当回復していて、こちらも安心しました。
それから毎日早朝、母の家に行き一緒に食事をし、一日の仕度をして店に出るようにしました。

それからしばらくして、電話攻勢の中に「寿司を買ったから取りに来い」とのこと。
私はその日は誕生日。仕事も忙しく、帰ればご馳走が待っている。その日は行きませんでした。

次の日いつもの早朝詣。スシを探しまして冷凍庫に見つけました。何たる事だ。
すし屋の上寿司にスーパーの安い寿司。普段はすし屋で買わないのに。

私の誕生日を覚えていたのです。私に上寿司を、自分だけ安いスシを買って。
胸が詰まりました。上寿司を雑炊にして二人で食べました。

母いわく「今日の雑炊は塩辛い」とのこと。私の涙が入ったのでしょうか。

どうです。いい話でしょう。しかし最後のオチは他から借りました。

私は大変さを大変と受け止めてもめげない教養を、親の背中から学んでいますから。
私のブログのアホバカはこのことに因ります。

母の介護6

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私のブログ友に介護に携わっている方が数人いらっしゃいます。
私は只今還暦中の青年です。

私の年代は必然的に介護の問題に直面している方が多いと思います。
私もその一人。私の母の介護について、アホバカ風に述べてみましょう。

母がグループホームへ入所してから2年10ヶ月が経過しました。
持ち前の負けず嫌い、明るい性格を発揮して、今ではグループホームの「アイドル」です。

私息子の身びいきを差し引いても、健康度ホガラカ度No1だと思っています。
認知症は進んでいるかも知れませんが、今のところ全く心配なし。

四六時中一緒にいるわけでもなし、全ての日常雑務をグループホームのスタッフに委託していることに、少し後ろめたさはありますが、実際的にその余裕が母に対し今までで一番優しく出来る。そういう自分に満足しています。

笑い話を一つ。

兄が母のために温泉旅行を計画して遠方よりホームまで迎えに来ました。(兄は他県に住んでいます。)
母は喜んで満面の笑み。

兄と私の「親孝行」実感のシーン。
兄と私の母に対する原罪がひとつ減る瞬間です。

そして出かける前の「とりあえずトイレタイム」です。
兄と私は部屋に残って世間話。・・・・・・なかなか戻ってきません。

探しに行くと私達のことはすっかり忘れてゲームをしています。
ナンナノダ、この笑劇は。母を呼びに行きました。そして母は兄に気付いて一言。

「○○、お前は私に親不孝ばかりして、たまには温泉旅行でも連れて行けー。」
・・・・・・・・・・・・・・

母の病気のうち「病」の認知症はもう治らないでしょう。
しかし病気のうちの「気」は私達兄弟がかなり治したと自負しています。

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母の介護5

親が子に対する愛情こそは、全く利害を離れた、唯一の情緒である。
                       サマセット・モーム

今日の新聞で読みました。
情緒という言葉をこの場合、使用する教養がないので物足りないのですが、私は経験しています。

母は兄と私を溺愛していましたから、その分だけ、よくいわれる「他人」との距離が遠いのです。

兄と私は貧しいながら二人とも、大学まで行って学ぶことができました。
父と母の苦労が偲ばれます。二人卒業後、父は死に、そして今母は認知症です。

母の幸せは、現状で全うしなければ、という義務感を持っています。

そして、少しトーンを変えて。
貧しい時代に大学まで行かせてもらったという、当時当たり前と思っていた、単細胞時代が詩情漂うセピア色の風情として懐かしく、マザー・コンプレックスと思われるほど、母に感謝しています。

しかし、思い出は西の海に流すのが、「私」です。
兄と私が、幸せになればよいと思っています。母を胸に忘れずに。

イメージ 1

母がグループホームのお世話になってから、1年半以上経ちました。

入所直後は、家に帰ると言って、私及び周りの者を困らせました。尤もなことです。優柔不断な私を周りが支えてくれて、また、グループホームのスタッフの努力によって、次第に母も慣れ穏やかになって行きました。

その当時、私が会いに行くと、本当に飛び上がって喜びを表現します。心の底からの笑顔とはこういうものかと感動しました。

ある日、母の部屋で話をしていると、誰かこちらを見ています。母が私を紹介します。「まあ、いい息子さんね。」そして去っていきます。そしてまた同じ人が。紹介・「まあ、いい息子さんね。」そして紹介・いい息子さんね、と続き4度目はスタッフが他の皆さんのところへ連れて行きました。

深刻な悲劇でありながら、しかし喜劇と感じられるようになった、客観的に眺められるようになった私は
負担が軽くなったということでしょう。凡てにおいて。

こういうじれったい物云いに、このブログを読む人は、反発されるかもしれませんが。

恐縮ですが、かって悲哀を積み込んで、重くなった旧式の信条の持ち主が、周りの人の助言と厚意により、新しい制度を利用して救われたという、一つのお話です。

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