1. シックハウスってなんだ?
「Uさん、“シックハウス”ってなんのこと?」
“今さら聞けない○○”という記事が大新聞の日曜版に登場する時代である。雑多な情報が氾濫する中でも、身の回りに出回る言葉の意味についてはおおよその見当がつくようにしておかないと、菜々子の商売は成り立たない。
今日の主客のUさんは、上客のSさんの招待。「彼はシックハウスの大運動家だからね」せっかちなSさんは、予約の電話の際、要件を告げると一方的に電話を切った。で、「シックハウス」っていったいなに?「おしゃれでシックなレナウン娘が〜♪♪♪」なんてコマーシャルが大昔流れていたが、その「シック」だと「感じがいい家作り」といったことになりそうだが、およそマイホームパパとは縁がなさそうなSさんのセットだからなぁ。当日、うまい具合にUさんが最初に一人で現われた。それで冒頭の質問をしたのである。
市民運動家の代表と聞けば、どのような怖いおじさんだろうと思ってしまうが、目の前のUさんは40代前半のスリムな男性で、目元の涼しげなのが印象的。青年実業家といった風貌だが、本業は大阪府下での開業歯科医だと言う。
「患者も増え、経営も軌道に乗って来たので、自宅兼診療所を新築したのです。ところがその直後から体調がおかしくなりましてねぇ」
鼻水は出るし、頭痛はするし、発疹の類も途切れない。自分だけではなく、妻や子どもにも症状が出る。皮膚科、内科、神経科…。方々の医者を訪ね歩いたが、どこに行っても「異常はありません」。症状を抑えることにばかり目が行っていた間は気づかなかったのです。でも、いつからこうなったのかと考えていて気づいたのです。新築のこの家に移ってきてからである。と言うことは、原因はこの家にあるのではないか。
2. 「シックハウス」の命名
「家が病気の原因だったということ?」
「そのとおりです」
Uさんの説明が続く。自分の推測が正しいのかどうか。海外の資料に当たっていると、「シックビルディング(sick building 症候群)というのが見つかった。現代のビルディングは温度、湿度、風量調整の空調完備であるから、窓は閉めたままで快適である。ところがその室内で長期間働いている人に変調が見られるようになった。研究者たちが室内の空気環境を詳しく調査してみると、体によくないとされる特定の化学物質がかなりの濃度になっていることが分かった。ホルムアルデヒドその他である。締め切られた室内空間において、化学物質の濃度管理の重要性が認識されることになったわけである。世界保健機関(WHO)でも、化学物質ごとの許容濃度の指針を定めている。
日本のシックハウスでの症状は、このシックビルディング症候群とそっくり。そこで和製英語で「シックハウス(sick house)」と自らが命名したのだと言う。Uさんは、ある大学の入試問題を取り出した。Uさんとシックハウスのいきさつを紹介した英字新聞のコラム全文を読ませた上で、一部の和訳などを求める英語問題である。
「僕も時の人なのですよ」。にっこりするとエクボがかわいい。
3. 個人の住宅が問題
「よかったわね。じゃあ、Uさんの問題も解決したのね」
しかしこれは菜々子の早とちり。専門家が結論を出しても、世の中がそのとおりになるとは限らない。
「アメリカでのシックビルディング症候群は日本ではあまり見られないのです」
日本と韓国には、“ビル管理衛生法”という諸外国ではあまり例がない法律が制定されていて、ビルディングの管理者は継続的に衛生的維持管理をしなければならい。その実施を請け負うビルメンテナンスという業態が成立していて、ビル管理者が彼らに維持管理を委託することによってビルディング内で働く人の健康保持とともに、ビルディングの商業的資産価値の維持にもなっているのだと言う。
「欧米に比べて、日本では国民の健康や安全への配慮はおざなりと言われることが多いけれど、ビルディングの衛生的維持管理の点では、先見性があったと言えると思います。ところが!」ここで、Uさんは息を吸い込んだ。
「この法律の実施が大きなビルディングにとどまっているのです。近頃の大型高層マンションは、構造的にも事務所が入っているようなビルディングと変わりません。しかも住まいに長時間いる人は、お年寄りや子どもで、化学物質の作用にも抵抗力が弱いのです。戸建の家だって、この頃のようにエアコンを効かせて、窓を閉め切って暮らすようになれば、同じことが起きることは必然ではありませんか。どうして放置しているのでしょう。私たちは、お役所を訪ね歩いて、私たちが調査した新築住宅における化学物質の測定濃度の資料を渡して問題提起をしています。真剣に耳を傾け、中には関係省庁にも働きかけて、具体的な対策をまとめ、必要な予算措置を講じて地方自治体に機材も支給していただいた課長さんもいらっしゃいました。しかし、そうした人は少数であり、その方が異動してしまえば終わりです。後任の方への引継ぎはされているはずですが、面倒なことはよその部署に打っちゃって置けといった気持ちでいることが見えてしまうのです。こんなことでいいのでしょうか」
「ちょっと。怒る相手は私じゃないでしょう」
「これは失礼しました」いっとき激昂したUさんだが、すぐに平静を取り戻した。
4. 実効性の確保
出世主義のお役人が本気で取り組まないのはなぜか。シックハウスは右から左へとは解決しない。任期内に目に見える成果を上げて栄達への階段を上るには、手っ取り早いのは、なんでもいいから新規の法律を1本作ること。しかし、シックハウスの場合、法律にする事項であるのかどうかの点で躓いてしまう。
「だって、家という商品を売っているのです。『この家が10年間建っているかどうかはあなたの運次第です』。こんなこと通りますか。家は頑丈であるのが当然です。同じく『この家に住んだら病気になるかも知れません』。これも通るはずがありません。つまり、『居住者と安全と健康を守るのが住まいの基礎条件である』という基本が破られているのです」
ということは、対策としては、病気になる可能性がある家を売らせないにつきる。しかし、“欠陥住宅”なるものが横行している状況に鑑みた場合、シックハウスのおそれのある家を市場から締め出すのは容易ではないだろう。結果が無理なら、住宅を構成する部材についての認定制度を作ることで得点稼ぎをしようと考える。だけど部材ごとの化学物質含有量は少なくても、複合効果というのもあるから、その辺が難しい。Uさんの話は次第に回りくどくなり、「ああでもない、こうでもない」と、彼が指摘したお役人と大差なくなってきた。
5. 菜々子の浅知恵?!
「家の購入は純粋な民間取引でしょう。商いの常道として、『住んだら病気になる家』を売るなんて許されない。債務不履行だわ。もし被害が生じたら、健康上の経済被害に加えて精神的な慰謝料まで取り立てる。そうした裁判例が積み重なればいいのよ。だから弁護士さんたちを督励することが、Uさんたちがまず取り組むことではないかしら。一方、家を購入する人たちに対しては、シックハウスが起きている状況を広く発信し、入居前に専門業者に室内空気を測定してもらうように働きかけることだと思うわ」
「でも、住宅購入者が測定費用を払うでしょうか。家の購入資金の工面で手一杯なのに。僕たちは住宅販売業者が測定するように、お役所や業界団体にも働きかけているのですが、これは反応があまり芳しくないのです」
そんなこと人間心理を考えれば当たり前。業者は「法的規制がない限り義務はない」と言い、その裏で規制策が実施されないようロビー活動をする。だから百年河清を待つことになるのだ。被害を出せば、“莫大な損害賠償と社会的な袋叩き”に遭うことが明らかになって始めて、まともな住宅供給に走る。会社本位の日本のサラリーマンの普通の行動だ。
指針値を守って化学物質濃度を防ぐのにかかる割り増し費用と、それを怠ることによって蒙るかもしれない将来の企業損失との比較考量である。企業維持の上での“保険”と考える経営者は、指針値を守ることを指示するし、それを営業上の利点にするために、入居前の測定を住宅購入者へのサービスとして、濃度測定をするに違いない。
「でも購入者の方が、『測定をしてもらわなくてもいいからその分住宅価格を下げてくれ』と言うような気がするのです。少なくとも今の段階では」
「ほんとうにそう思うの? “家”っていったいなんなのかしら。私だったら、『ひょっとしたらシックハウス症候群が出るかもしれませんが、その分百万円お安いのがあります』と誘われても絶対乗らないわ」
Uさん、大いに頷いた感じなので、もう一つ追いパンチを繰り出した。
「住宅のリフォームが盛んになっているけど、こちらの方の対策もしっかりお願いしますね。新築では家が建ってから、入居までに時間差があり、その間に有害化学物質の濃度が自然に下がることが期待できる。けれどリフォームでは、ホルムアルデヒドたっぷりの壁紙など使われて、翌日からその部屋で暮らすなんてこともあるのだから、新築以上に部材選択や工法に気を使ってもらう必要がある。リフォーム事業者にもUさんたちのNPOに入ってもらって、しっかり勉強してもらうことが必要だと思うわ」
うるさい女将だと思われ、ここは二度と使わないことにしようよと、UさんがSさんに持ちかけないよう、ここでシックハウスを打ち切った。Sさんからの事前情報に依れば、“○○小町”との噂があるという国際線スチュワーデスというUさんの美人の奥さんのことに話題を変えた。さらにご機嫌取りとして、とっておきの薩摩焼酎のロックを差し出した。Uさんは、たちまち相好を崩す。どんどん呑んでね、支払いはSさんなのだから。遅れてなかなか来ないあなたが悪いのよ。