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相続税課税が強化された。5000万円+1000万円×法定相続人数であったのが、3000万円+600万円×法定相続人数になった。相続人二人の場合、以前は相続純資産が7000万円までなら非課税だったが、4200万円に縮減された。
なににつけ税金がかかることは面白くないのが、普通人の自然な感情。汗水垂らして稼いだ所得は、自分と扶養家族の生活のために使うのが正しい。 しかるに4200万円が課税最低限では、並みの住居ですら相続税の対象になる。「家を子どもに残すべきではない」というのが、為政者の考えであるらしい。一方で、手厚い住宅ローン減税などの持家政策から察するに、「生涯借家で過ごせ」ということでもない。一見、相反するメッセージだが、調和させる方法はないものか。 思うに資産には二種類ある。一つは生業手段としての資産。農業用の田畑、家族経営の町工場や店舗などだが、これを相続税で召し上げると事業継承に難渋するから、減免税の配慮がいる。だが二つめの純粋な個人資産では話が別だ。所有者が死ねば存在理由がなくなる。利用者がいない不要財産ならば、遺失物同様に国家が頂いて国民総員のために活用することに納得性がある。 まじめに生きてきた平均的日本男子が平均寿命の80歳で死亡したとしよう。奥さんは5年前に亡くなっており、その後は一人暮らしであった。子ども二人は学校を卒業後、家を出て自立し、それぞれ自分の勤務地で家庭を持って別居している。当然、自力で住まいを取得済みだ。反面、遠隔地のことであり、親の晩年に看護や看病をしたわけでもない。この場合に、子どもに財産を残す社会的な必要性は高くない。いい歳になっている子どもの方でも、今さら老父から財産をもらおうとは思わないだろう。 現代の社会事情を前提に老父が生存中にすべきことは何か。生きているうちに財産を使い切ることである。自分で築いた財産は、きれいさっぱり使い切り、裸になってあの世に行く。下手に遺産があると、子どもたちの間で不和の種になる。だが高齢者の資産平均額は世間の想像よりはるかに大きい。全国消費者実態調査(2009年)は70歳以上(二人以上世帯)の資産額を平均で7439万円とする。金融資産で1860万円、住まいの不動産等で5579万円が内訳だ。これを余命期間中に按分して使えば、相当優雅な暮らしができる。「公的年金だけでは食べていけない」のは事実であるが、資産を計算に加えれば、事情はまったく違い、「鼓腹撃壌」が実現するのだ。 ここで問題は、居住用の不動産を売ってしまうと、住むところがなくなることだ。それに対する方策として注目されるのが、リバース・モーゲージである。もっともシンプルな仕組みでは、人生の残り年数が短くなった高齢者が、住まい不動産を担保に金融機関からカネを借りて、ゆとりのある引退後生活を楽しむ。250万円ずつ20年借りて、ようやく5千万円に届く。普通はそれより早死にして使い残す。これを遺言で、地域の自治会やマンション管理組合に寄付することにしておけば、地域社会がハッピーになれるし、子孫は「あなたの親は偉かった」と感謝される。 問題は、若いときに資産形成を怠った者の老後生活が相対的に低レベルになることだが、それはその人の人生設計の結果なのだから、周りや社会が問題にすることではあるまい。 「若い時の苦労は買ってでもせよ」。これはいつの時代でも真理だ。現代日本人の問題は、そうして築いた資産を、生きているうちに計画的に使い切ってしまう方法を知らないことなのだ。 (『都市と廃棄物』2015年9月号) |
この国につける薬
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「日本人の死亡率を知っているか?」
科学的素養がある人ならだれでも気づくことだが、期間を設定しないとこの種の問いは成立しない。死亡率は通常は年単位で議論される。たとえば平成26年では126 万 9000 人が死亡したが、同年の基準総人口は1億2028万7000人であったから、1.055%ということになる。 では計算の期間を100年に伸ばしたらどうなるか。律儀に100年間の死亡累計数を統計で拾い、それを100年間の平均人口で割ってもよいが、通常はそういうことをしない。百歳まで生きる長命者はごくまれであることを日常の観察で知っている者であれば、計算することなく「ほぼ百%」と答えるはずだ。 日々煩悩に囲まれて暮らしている私もあなたも、100年後にはこの世に存在しない。今、栄華を極めていても、それは一瞬の夢に過ぎない。盛者も必衰なのである。 昨今「終活」なる言葉が市民権を得るようになり、「エンディングノート」の売れ行きがよいという。人の生には必ず終わりがあることを国民が認識するようになってきた点では、きわめて健全な動向であると思う。 戦後70年ほどの間に、50歳だった平均寿命が80歳に伸びた。自然災害を除けば、事変内戦や疫病パンデミックによる大量死も生じなかったことも加わって、日本人は日常生活において死を意識することがきわめて希薄であった。そのため死に直面すると狼狽することになる。 だれもが遅かれ早かれ死を免れることはできない。そうであれば限られた時間をどのように生きるべきか。「今さえよければ」と享楽的なキリギリス的人生を送るのがよいか。それとも「自分亡き後の社会が健全なものであるように」と、アリのように禁欲、勤労に励むべきか。この点が義務教育に求められているポイントであるように思える。 現代日本人は物資に囲まれて暮らしている。「相対的貧困」からの救済を主張する人の生活水準は、数世代前の先進国の王侯貴族を超える優雅さであろう。空調完備の住宅に豪奢な調度品。クローゼットにあふれる衣装や装身具。あれが欲しい、これが欲しいと追い求めた成果である。 しかし先に触れたように、それらの所有者であるわれわれには寿命という期限があるのだ。数年先か、数十年先か。私もあなたも、さほど遠くない時期に死を迎えることになる。そのときにはいっさいの所有物について処分が下されることになる。そうであればあらかじめ自身で決めておこうというのが遺言にほかならず、言い換えれば終活ということになる。 このように資産が所有者の死亡後にも存続する場合に遺言とか相続が必要事項になるのだが、逆に所有者の存命中に有体資産の寿命が尽きた場合はどうか。物資も人と同様に有期限であり、寿命がある。所有者がその有体資産の経済価値を認めなくなったときが、寿命の終わりということになる。その時点で資産ではなくなり、不要物すなわち廃棄物に転ずることになるのだ。 廃棄物処理が社会問題化して久しいようだが、本質は簡単なことのように思える。 人が死亡した場合、亡骸を丁重に葬ることが社会から要求される。その義務者は法定親族であり、故人が処理費用を用意していればよいが、そうでなければ遺族が負担しなければならない。 所有者がその資産に無価値判断を下したために生じるのが廃棄物であるが、その処理費用はだれが負担すべきなのだろうか。人の遺骸の処理との均衡などからしても、所有者であるべきと断定して間違いないと思われる。 (都市と廃棄物』2015年8月号) |
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