怒苦打身日記(ドクダミ日記)

総合社会政策研究所スタッフのつづるブログ

研究員 寺内香澄

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025 厄払い

「菜々子の一刀両断!」ってわけには行かないか

寺内香澄 (総合社会政策研究所)

025 厄払い


1. “厄”に取り付かれる

 立て続けに嫌なことに出会うことがある。親戚に不幸があり、それに駆けつけるべく車を走らせていたら追突事故に遭い、救急車で運ばれた病院で留守中のわが家に火災が起きて全焼したことを知らされたなんてニュースに出会うと、「早く神社に行ってお祓いしてもらえばいいのに」とつぶやいてしまう。
 今夜お見えのA先生は、ある研究所の副所長さん。仕事柄年間100日以上は海外出張、重なるときは金曜日にヨーロッパから帰国して、月曜日にはアメリカに向けて出発ということもあるという。「ヨーロッパから直接アメリカに渡れば、航空賃が一回分節約になるし、週末を観光に当てることができるでしょうに。なんとももったいないことだわ」と菜々子の率直な感想をぶつけてみたが、「この歳になると週に一度は女房の味噌汁を飲まないと体調に響くから」ですって。いつまでも仲がいいこと。
 この海外旅行通のA先生だが、このたびはとんでもない連続災難に遭ったのだという。その顛末を紹介しよう。

2. アフリカに出張

 今回の出張先はアフリカ深南部のザンビア。「南アフリカ共和国のちょっと北方にある国でね」と説明されるが、あいにくアフリカと言えば“槍を持って飛び跳ねるマサイ族の男”とその後方を“悠然と歩き去る巨象”のイメージしか持ち合わせていなかった。「先生、ほんとうに出張だったの? 骨休めのサファリ観光だったのでは?」と軽く肩を叩くまねをしたのだが、「キミ、その認識は間違っているよ」と叱られた。
先生の説明によれば、アフリカの多くの国では、疫病が“猛威”を振るっているのだと言う。数字は忘れたが、国民の何人かに一人という高率でエイズに感染している。エイズ・ウィルスの感染力は弱いのだが、まわり中に“保菌者”がいれば、移される率だって高くなってしまうということだろう。ただ、エイズは発症率が低いという救いがある。インフルエンザのように移されたら症状が出るのが普通の病気(急性感染症)と違い、エイズのような病気(慢性感染症)では必ずしも症状は出ない。このため知らずに他人に感染させてしまうケースが多くなる。「性産業のお店に遊びに行くときにはコンドームを忘れてはいけません」。先生は声を高めたが、ほかのお客様が先生の高説を拝聴している様子は微塵もなかった。
 ところがもう一つこの地域で蔓延しているのが結核。日本では“過去の病気”という誤った認識になっていて、結核予防法を廃止して、結核をその他おおぜいの感染症の一つの扱いで感染症法に統合する方のようだが、その日本でも毎年3万人が結核に感染し、3千人が死亡している。世界的には“中蔓延国”とされ、胸を張れる状況ではないのだが、アフリカのこの地域での結核蔓延状況はその日本の何十倍。結核発病者が吐き出す息に含まれている菌を吸い込むと感染する。結核は至って感染力が強い。だが、エイズ同様、慢性感染症であり、感染してもその人が丈夫であるうちは結核菌の体内での増殖を押さえ込んでいる。だが、
この二つの病気が出会うとどうなるか。エイズ・ウィルスの感染者は免疫力が低下しているから、結核菌の増殖を抑えられず、見る見る症状が出てきて致命的なことになるのである。
 

3. ショルダーバッグ置き引き被害

 A先生はそちら方面の専門家なのだが、その話はこの程度にして、旅行災害に戻ろう。日本からザンビアへの直行便はないそうで、A先生、往路はパリ経由を選んだ。金曜日にパリに到着、翌週月曜日にザンビアに向かう計画。「週末は旧知の研究者に郊外ドライブに連れて行ってもらおうかな」ど、ルンルン気分でいたそうな。
 まずはホテルに向かうべしと、案内表示で場所を確認し、ふと見ると、スーツケースの上に乗せたはずのショルダーバッグがない。「置き引きにやられた」と気づいたときには遅い。
「中になにが入っていたの?」と聞けば、
「重要なもの全部」の返事。
 海外で盗難にあったときに最初にすべきことは、地元警察署への被害届けなのだという。その鉄則どおりの行動を取ることにしたが、そこから難行苦行が始まった。A先生、国際通だから英語はお得意だが、フランス語はからきしダメ。相手してくれた警官は、英語の一片もしゃべらない。身振り手振りで小一時間かけて事態を説明し、被害証明書を出してもらうことができた。
やれやれとホテルに向かうが、フロント係が立ちはだかる。宿泊費は日本で支払済みなのだが、その証明書類はショルダーバッグとともに消えてしまっている。それを見せない限り部屋に入れないと言うのだそうだ。それはおかしいとA先生、猛然と抗議する。こういう場合、黙ってしまってはダメなそうで、相手が根負けするまで悪態をつき続けるのがコツだそうだ。ついにフロント係は、下げた両手を大きく広げて肩をすくめる降参のポーズを示すことになり、A先生、ようやく部屋でシャワーを浴びることができた。
さて着替えしようと思ったところで、気がついた。スーツケースを開ける鍵もショルダーバッグの中なのだ。東京で買ったばかりの新品なのに、こうなってしまっては鍵を壊すしかない。安物なら力づくでも壊せるが、あいにくこれは奮発した高級品。フロントで道具を借り、奮闘すること1時間。
鍵なしのスーツケースを持ち歩くわけには行かない。アフリカに発つ前に買い換えなければと思案しているうちに、もっと重要問題に思い当たった。パスポートがなければ、出国もままならないではないか。そのためには日本大使館に出向く必要があるわけだが、すでに金曜日の夜半。週休二日だから、月曜日までは開いていない。外務省関係の縁故をたどり、とにかく月曜日の便に間に合うように再発行してもらう段取りをつけることに成功したのだが、そのために東京を含めてあちこちに電話することに週末の大部分の時間を取られ、ドライブ計画は大幅縮小で、ベルサイユ宮殿までチョコっと往復しただけ。お気の毒。

4. スーツケースも消える

 A先生、気を取り直してザンビアに降り立った。ところが、パリで買い換えたばかりのスーツケースが飛行機から出てこない。「行き先を間違えたらしいので、こちらに着き次第、ホテルに届ける」とのこと。海外旅行に縁がない菜々子にはピント来ないが、こういうことはけっこう多いそうだ。たいがい1日遅れで手元に戻るらしい。だが、その遅れが容易ならない被害をもたらす。
 A先生、会議の冒頭で講演をすることになっていたから、十分に推敲し、読み上げればいいように英語で書き上げた原稿を用意していたが、それをスーツケースに入れていたのである。会議前日の夕方、世界中から集まった参加者たちが主催者の準備したディナーに舌鼓を打っている時間、一人A先生はねじり鉢巻でパソコンのキーボードに向かって、黙々と講演原稿を書いていたのである。
「その間、先生着替えもしないでがんばったのね」
「そう。着替えはスーツケースの中だから。そして僕の場合は、それがずっと続きましたからね。ただ下着はホテルのブティックでブランドものを買いました」
 3日だったか、4日だったかの会議期間中、スーツケースは届かなかったのだという。しかし、地球の反対側まで行っていたというケースが遂にホテルに届けられるときが来たのだが、“感激的な”光景であったと皮肉っぽくA先生。日本に帰国する日が来て、ホテルをチェックアウト、空港行きのタクシーに乗り込もうとしたまさにそのとき、ホテルの従業員が駆け寄ってきて、「ドクターA、あなたの荷物が今届き、あなたに帯同されるのを待っておりますぞ」と告げたのだという。
「新品のスーツケースは鍵を壊し、買い換えたスーツケースは到着せずに役立たず。泣きっ面に蜂ってところね」

5. チケットがない

「災難はまだ終わりではなかったのです」
 復路は香港まで飛び、そこで東京行きに乗り換えることになっていた。その香港の搭乗手続場所で係員が首を傾げている。
「あなたをこの便に乗せるわけには行かない。なぜなら、あなたは香港から東京行きのチケットを提示できていないからだ」
 海外旅行では旅程中の一連の航空チケットをホッチキス止めにしてあるのだが、係員が言うとおり最後の香港発東京行きの分が消えている。慎重なA先生は、東京でチケット受け取ったときには確認している。多分、ザンビアの空港で間違って切り取ってしまったのだろう。A先生、口を尖らせて主張するのだが、融通が利かない相手だったという。
「『がんばるのはけっこうだが、キャンセル待ちの人も多いことをお忘れなく』といった調子でね。根負けしてチケットを買い直しましたよ」
   

6. 厄落とし

 散々な目に遭って成田に帰り着いたA先生、東京行きの成田エクスプレスの改札で足が止まった。いつもと違って今回は奮発してグリーンの指定席を、出発前に取っていたのだが、その鉄道チケットはパリで置き引きされたショルダーバッグに入れていたのである。ポケットを裏返しにして探しても徒労。しかもどの便も満席のため、全便指定席の成田エクスプレスには乗れない。やむなく一度も用を果たさなかった大きなスーツケースを引っ張り、すし詰めの快速電車に乗り込んだのだそうだ。
さんざんな出張だったようだ。
「これはもう厄払いするしかないわね。早速明日にでも、富岡八幡宮におまいりしたほうがいいわよ。宮司さんに電話してあげようか」
「僕は敬虔なクリスチャンだよ。神社で厄落としだなんてとんでもない」

(『時評』2006年1月号)

024 シックハウス

「菜々子の一刀両断!」ってわけには行かないか

寺内香澄 (総合社会保政策究所)

024 シックハウス


1. シックハウスってなんだ?

「Uさん、“シックハウス”ってなんのこと?」
“今さら聞けない○○”という記事が大新聞の日曜版に登場する時代である。雑多な情報が氾濫する中でも、身の回りに出回る言葉の意味についてはおおよその見当がつくようにしておかないと、菜々子の商売は成り立たない。
 今日の主客のUさんは、上客のSさんの招待。「彼はシックハウスの大運動家だからね」せっかちなSさんは、予約の電話の際、要件を告げると一方的に電話を切った。で、「シックハウス」っていったいなに?「おしゃれでシックなレナウン娘が〜♪♪♪」なんてコマーシャルが大昔流れていたが、その「シック」だと「感じがいい家作り」といったことになりそうだが、およそマイホームパパとは縁がなさそうなSさんのセットだからなぁ。当日、うまい具合にUさんが最初に一人で現われた。それで冒頭の質問をしたのである。
 市民運動家の代表と聞けば、どのような怖いおじさんだろうと思ってしまうが、目の前のUさんは40代前半のスリムな男性で、目元の涼しげなのが印象的。青年実業家といった風貌だが、本業は大阪府下での開業歯科医だと言う。
「患者も増え、経営も軌道に乗って来たので、自宅兼診療所を新築したのです。ところがその直後から体調がおかしくなりましてねぇ」
 鼻水は出るし、頭痛はするし、発疹の類も途切れない。自分だけではなく、妻や子どもにも症状が出る。皮膚科、内科、神経科…。方々の医者を訪ね歩いたが、どこに行っても「異常はありません」。症状を抑えることにばかり目が行っていた間は気づかなかったのです。でも、いつからこうなったのかと考えていて気づいたのです。新築のこの家に移ってきてからである。と言うことは、原因はこの家にあるのではないか。
 

2. 「シックハウス」の命名

「家が病気の原因だったということ?」
「そのとおりです」
 Uさんの説明が続く。自分の推測が正しいのかどうか。海外の資料に当たっていると、「シックビルディング(sick building 症候群)というのが見つかった。現代のビルディングは温度、湿度、風量調整の空調完備であるから、窓は閉めたままで快適である。ところがその室内で長期間働いている人に変調が見られるようになった。研究者たちが室内の空気環境を詳しく調査してみると、体によくないとされる特定の化学物質がかなりの濃度になっていることが分かった。ホルムアルデヒドその他である。締め切られた室内空間において、化学物質の濃度管理の重要性が認識されることになったわけである。世界保健機関(WHO)でも、化学物質ごとの許容濃度の指針を定めている。
 日本のシックハウスでの症状は、このシックビルディング症候群とそっくり。そこで和製英語で「シックハウス(sick house)」と自らが命名したのだと言う。Uさんは、ある大学の入試問題を取り出した。Uさんとシックハウスのいきさつを紹介した英字新聞のコラム全文を読ませた上で、一部の和訳などを求める英語問題である。
「僕も時の人なのですよ」。にっこりするとエクボがかわいい。
 

3. 個人の住宅が問題

「よかったわね。じゃあ、Uさんの問題も解決したのね」
 しかしこれは菜々子の早とちり。専門家が結論を出しても、世の中がそのとおりになるとは限らない。
「アメリカでのシックビルディング症候群は日本ではあまり見られないのです」
 日本と韓国には、“ビル管理衛生法”という諸外国ではあまり例がない法律が制定されていて、ビルディングの管理者は継続的に衛生的維持管理をしなければならい。その実施を請け負うビルメンテナンスという業態が成立していて、ビル管理者が彼らに維持管理を委託することによってビルディング内で働く人の健康保持とともに、ビルディングの商業的資産価値の維持にもなっているのだと言う。
「欧米に比べて、日本では国民の健康や安全への配慮はおざなりと言われることが多いけれど、ビルディングの衛生的維持管理の点では、先見性があったと言えると思います。ところが!」ここで、Uさんは息を吸い込んだ。
「この法律の実施が大きなビルディングにとどまっているのです。近頃の大型高層マンションは、構造的にも事務所が入っているようなビルディングと変わりません。しかも住まいに長時間いる人は、お年寄りや子どもで、化学物質の作用にも抵抗力が弱いのです。戸建の家だって、この頃のようにエアコンを効かせて、窓を閉め切って暮らすようになれば、同じことが起きることは必然ではありませんか。どうして放置しているのでしょう。私たちは、お役所を訪ね歩いて、私たちが調査した新築住宅における化学物質の測定濃度の資料を渡して問題提起をしています。真剣に耳を傾け、中には関係省庁にも働きかけて、具体的な対策をまとめ、必要な予算措置を講じて地方自治体に機材も支給していただいた課長さんもいらっしゃいました。しかし、そうした人は少数であり、その方が異動してしまえば終わりです。後任の方への引継ぎはされているはずですが、面倒なことはよその部署に打っちゃって置けといった気持ちでいることが見えてしまうのです。こんなことでいいのでしょうか」
「ちょっと。怒る相手は私じゃないでしょう」
「これは失礼しました」いっとき激昂したUさんだが、すぐに平静を取り戻した。
  

4. 実効性の確保

 出世主義のお役人が本気で取り組まないのはなぜか。シックハウスは右から左へとは解決しない。任期内に目に見える成果を上げて栄達への階段を上るには、手っ取り早いのは、なんでもいいから新規の法律を1本作ること。しかし、シックハウスの場合、法律にする事項であるのかどうかの点で躓いてしまう。
「だって、家という商品を売っているのです。『この家が10年間建っているかどうかはあなたの運次第です』。こんなこと通りますか。家は頑丈であるのが当然です。同じく『この家に住んだら病気になるかも知れません』。これも通るはずがありません。つまり、『居住者と安全と健康を守るのが住まいの基礎条件である』という基本が破られているのです」
 ということは、対策としては、病気になる可能性がある家を売らせないにつきる。しかし、“欠陥住宅”なるものが横行している状況に鑑みた場合、シックハウスのおそれのある家を市場から締め出すのは容易ではないだろう。結果が無理なら、住宅を構成する部材についての認定制度を作ることで得点稼ぎをしようと考える。だけど部材ごとの化学物質含有量は少なくても、複合効果というのもあるから、その辺が難しい。Uさんの話は次第に回りくどくなり、「ああでもない、こうでもない」と、彼が指摘したお役人と大差なくなってきた。
 

5. 菜々子の浅知恵?!

「家の購入は純粋な民間取引でしょう。商いの常道として、『住んだら病気になる家』を売るなんて許されない。債務不履行だわ。もし被害が生じたら、健康上の経済被害に加えて精神的な慰謝料まで取り立てる。そうした裁判例が積み重なればいいのよ。だから弁護士さんたちを督励することが、Uさんたちがまず取り組むことではないかしら。一方、家を購入する人たちに対しては、シックハウスが起きている状況を広く発信し、入居前に専門業者に室内空気を測定してもらうように働きかけることだと思うわ」
「でも、住宅購入者が測定費用を払うでしょうか。家の購入資金の工面で手一杯なのに。僕たちは住宅販売業者が測定するように、お役所や業界団体にも働きかけているのですが、これは反応があまり芳しくないのです」
 そんなこと人間心理を考えれば当たり前。業者は「法的規制がない限り義務はない」と言い、その裏で規制策が実施されないようロビー活動をする。だから百年河清を待つことになるのだ。被害を出せば、“莫大な損害賠償と社会的な袋叩き”に遭うことが明らかになって始めて、まともな住宅供給に走る。会社本位の日本のサラリーマンの普通の行動だ。
 指針値を守って化学物質濃度を防ぐのにかかる割り増し費用と、それを怠ることによって蒙るかもしれない将来の企業損失との比較考量である。企業維持の上での“保険”と考える経営者は、指針値を守ることを指示するし、それを営業上の利点にするために、入居前の測定を住宅購入者へのサービスとして、濃度測定をするに違いない。
「でも購入者の方が、『測定をしてもらわなくてもいいからその分住宅価格を下げてくれ』と言うような気がするのです。少なくとも今の段階では」
「ほんとうにそう思うの? “家”っていったいなんなのかしら。私だったら、『ひょっとしたらシックハウス症候群が出るかもしれませんが、その分百万円お安いのがあります』と誘われても絶対乗らないわ」
 Uさん、大いに頷いた感じなので、もう一つ追いパンチを繰り出した。
「住宅のリフォームが盛んになっているけど、こちらの方の対策もしっかりお願いしますね。新築では家が建ってから、入居までに時間差があり、その間に有害化学物質の濃度が自然に下がることが期待できる。けれどリフォームでは、ホルムアルデヒドたっぷりの壁紙など使われて、翌日からその部屋で暮らすなんてこともあるのだから、新築以上に部材選択や工法に気を使ってもらう必要がある。リフォーム事業者にもUさんたちのNPOに入ってもらって、しっかり勉強してもらうことが必要だと思うわ」
 うるさい女将だと思われ、ここは二度と使わないことにしようよと、UさんがSさんに持ちかけないよう、ここでシックハウスを打ち切った。Sさんからの事前情報に依れば、“○○小町”との噂があるという国際線スチュワーデスというUさんの美人の奥さんのことに話題を変えた。さらにご機嫌取りとして、とっておきの薩摩焼酎のロックを差し出した。Uさんは、たちまち相好を崩す。どんどん呑んでね、支払いはSさんなのだから。遅れてなかなか来ないあなたが悪いのよ。

(『時評』2005年12月号)

025 損して得取れ

「菜々子の一刀両断!」ってわけには行かないか

寺内香澄 (総合社会政策研究所)

025 損して得取れ


1. 地元になじむには

 深川は由緒正しい(?)下町である。ちょっとした情報でもまたたくまに伝播する。客を甘く見るのは、商売人にとっては命取り。そうした教訓を得た話。
 深川の富岡八幡宮の夏祭りは江戸の三大祭りに数えられる(と思う)。3年の一度の本大祭となれば、50いくつの町内が自慢のおみこしを担いで練り歩き、永代通りは黒山の見物客で立錐の余地もなくなる。その最高潮がちょうど旧盆に重なるから、町内の家々には嫁に行った娘の家族も寄り集まり、それはもうにぎやかなものだという。
「夏祭りの日程は昔から同じ。曜日ではなくて日にちで決まっている。大事なお祭りなのだから、週末だからといってお店を休んじゃダメだよ」とまず、キツ〜イ一発。町会によっては、この地で生まれ、地元の学校を出ていないとおみこしを担ぐ資格がない。そこで菜々子のような新住民には、商売をお休みする地元住民の代わり分を仕事に励めということらしい。
「だってお盆にはお墓参りに田舎に帰ることにしているのだもの」
「そういう心がけでは、まだおみこし担ぎはお預けだな」だって。グスン。
 

2. 床屋さんは情報の十字路

 カウンターに座っているのは床屋のIさん。親の代からこの商売。江戸の昔から、床屋さんは男の情報交換場所。イギリスのパブ、アラブのカフェに匹敵すると言っていい。それに家でする商売だから、時間の都合もつきやすいだろうということで、町内の世話役を任させることになりやすい。ところでIさんの理容店は、お宅とは別に構えている。距離にして二百メートルくらいだが、一応、職住分離。毎朝、奥さんといっしょに徒歩通勤なのである。「夫婦の仲がいいときは、いつもいっしょにいられてこれ以上の幸せはないってものだが、喧嘩でもしてごらん。客に気取られないように、足を蹴飛ばしあったりしてね。勢いあまってサンダルが飛んでいったときには、お客さんに『お前さんたち、脚気にでもなったのかい』って、心配されたりしてさんざんだ」
「まあ、ご馳走さま」としか答えようもない。とにかく二つの町内の世話役をなにかれとやっていると、それはまあいろいろなことがあるようだ。地元情報の提供源。一度に話したのはもったいない。今日はそのうちの一つだけ。 

3. 祭りの打ち上げ

 八幡さまのお祭りが終わると、どの町内でも世話人たちの反省会がある。お祭りの際には、町内で工夫を凝らし、バザーだとか、模擬店だとかを開く。経費を引いた上がりは町内の臨時収入。材料がたいがい持ち寄りや寄付だから、けっこう利益が出る。だから宴会の会費はない。タダ酒ときたら、江戸っ子は遠慮なし。「飲めや歌え」の大騒ぎになる。そうなるとだれかが、「二次会に行こうよ」と言い出す。昨年までは、Iさんの中学の同級生がやっていたカラオケスナックがあったのだが、娘が嫁に行って手伝えなくなったのを潮に、お店をやめてしまった。
  

4. 新しいお店を開拓

 二次会参加希望者を募ったところ14人。それだけの人数を予約なしに入れられるところは、門前仲町といえでもそうそうはない。宴会部長兼務のIさんが思いついたのが、同業者の集まりで聞いたお店。床屋につきものの回転灯の電源を、夜になって閉店後、隣のカラオケスナックに貸してやっている仲間がいる。その縁で従業員を連れてたまに息抜きするのだが、いつ行っても閑古鳥。あのお店いつまで持つかねえ。
 Iさんは、それを思い出したのだ。電話番号は分からないから、とにかく行ってみる。
「よかったよ。聞いたとおりでだれもいない」。Iさんは「一人3千円、時間制限なしの歌い放題」で話をつけた。町会から補填があるのかどうか会長への確認は後日のこととして、最初にとりあえず全員から徴収して支払い、「4万2千円也」の領収証を受け取った。
「カラオケの装置はよかったね。町会婦人部のおばちゃんたちもマイクを奪い合って、そのお店のマスター、これがプロ並みの歌い手で、マスクも甘いんだな、とデュエットしたりして、そりゃ楽しかったよ。うちの奥さんもいっしょだったが、『あなたチークダンスしましょう』。みんなに冷やかされたが、まんざらでもなかったな」
「このお店、また来よう」。そんなことを言い合いながら家路についた。
 

5. 町会“御用達”名簿に載る?

「翌朝、起きて一番に町会長に電話したよ。『昨晩は、町会長さんがお帰りになった後、若い世話役の連中が飲み足りないと言い張りまして、実は二次会にまいりました。皆さんから会費を集めて支払いは済んでいるのですが、町会から援助があるものかどうか、一応会長さんのご意見をたまわろうと思いまして』。さすが太っ腹の会長さんだ。『Iさん、いったいいくらだい』とお尋ねになるから、『14人分で4万2千円。領収証もあります』と答えると、『よござんすよ、あなたに立て替えてもらった分、用意しておくから取りにおいで』」
 町会長さんは、みんながそんなに気に入ったのなら、町会だけではなく、今後は自分の会社を含めて個人的にもそのスナックをひいきにしようではないかとも言ったらしい。会長さんはちょっとした商社を経営しているのだ。Iさんの同級生がやっていたお店が廃業して以来、近所に行きつけのお店がないのを不便に感じている人は少なくなかったのだろう。
 善は急げ。相手の気持ちが変わらないうちにもらいに行き、参加者に返してあげると自分の株が上がるだろう。Iさんが朝ごはんをかきこんでいると、玄関チャイムが鳴った。

6. 不足額請求に現れる

 出てみると、昨晩のカラオケスナックのママさんではないか。「今後もごひいきに」というご挨拶とはごていねいなとも思ったが、それもつかの間だった。
「そのママ、なにを言いに来たと思う?」
「???」
「4万2千円のはずだったのに、3万7千円しか受け取っていない。不足の5千円を払ってくれと言うんだな」
 そのママに拠れば、財布の中に仕切りを入れ、支払いはこっち、売り上げはこっちとはっきり分けている。昨晩はIさんたちしか客がなかったから、受け取った売り上げが3万7千円しかないのは明白である。内訳は、1万円札が3枚、5千円札が1枚、千円札が2枚。受け取るときにIさんが「4万円と2千円」と言ったから、1万円札4枚と千円札2枚とばかり思っていた。多分、お客のだれかが1万円札のつもりで5千円札を出し、それをIさんも確認しないでママに出した。ママもしっかり確認しなかった。お店の中は暗かったし、1万円札と言われれば、そう信じてしまう。申し訳ないが、不足の5千円を追加支払いしてくれないか。そういう要件だったという。
「それでIさん、支払ってあげたの?」
「そこのところだ。俺としては『冗談ではない』と思ったよ。仮にも商売人だ。いったん受け取って領収証まで切っておきながら、『あれは間違っていました』なんてこと、口が裂けても言えるものではない。例えば、うちの床屋でも釣り銭を間違えることがある。少なく渡してしまったときは百メートル先でも追いかける。しかし、多く渡したときはお客さんが気づけばいいが、そうでなきゃ騒いではいけない。お客様がお店の外に出てしまった後ではなおさらだ。仮に、お店の外で言い争いでもした日には、またたくまに町内中に噂が流れる」
「でも、勢い込んで家までやってきたママさん、おとなしく引き下がったの?」
「いいや。自分の方の間違いはない。『受け取りに不足がある以上、もらうまでは帰りません』の一点張りだ。一次会で相当飲んでいたし、言われてみればこちらのだれかがお札を間違えて可能性はある。それに言い争うのも不愉快だ。俺の財布から5千円抜き出して渡したよ」

7. 損して得取れ

「災難だったわね」
「その女が帰った後、町会長にもう一度電話した。いきさつを説明したところ、『お前さん、その5千円どうする?』って聞くから、『仕方ありませんよ。これは俺がかぶります』。だって、ほかのメンバーにそんなこと言えるかい。14人のうちだれかが、お札を間違えた。つまり『ハイ、1万円』と言って5千円札を差し出し、お釣りとして7千円を受け取った。そんなことをする人間が深川にいると思うだけでさびしいじゃないか。そんな思い、町会のだれもしたくないだろう」
「ふ〜ん。町会長さんとはそれだけ?」
「いいや。『その領収証を持っておいで。自分がそれに、お店の過誤請求により5千円追加、都合4万7千円の支払い也と注釈をつけて会計さんに回すから。お前さんには、ご苦労だが、参加した皆さんに3千円ずつ返して回ってほしい。お前さんはもちろん立て替え分の5千円も受け取ってもらうよ。それと、そのカラオケスナックだが、わが町内の催しではいかなる理由があっても使わないことにしよう』という裁定だった」
「そのママさん、五千円はもらえたけれど、お店の将来にとっては大損失になったわね」
 商いは信用が一番。当座のことより、長期的なことを考えることが重要。「損して得取れ」と言われるが、昔の人は本質を見抜いている。
「ところでね、町会長さんからご下問があってね。『お前さん、今回のようなことがないよう、町会の二次会で使えるお店を探しておくように』と言うのだが、どこかいいところを知らないかい?」
「二次会ってカラオケでなきゃダメなの? 久寿乃葉を貸し切りにして、時間制限なしに語り合うと言うのはどう?」  

(『時評』2005年11月号)

021 6年おきの同窓会

「菜々子の一刀両断!」ってわけには行かないか

寺内香澄 (総合社会政策研究所)

021 6年おきの同窓会


1. 学生仲間の会合

 今日のお座敷は50代半ばの男性六人。T大と並び称せられることもある古都の国立大学で同じクラブに所属していた同学年生だという。大学時代の仲間ということは、卒業してからすでに3分の1世紀は過ぎている。その年月を経ても会って話したいというのだから、学校時代の結ぶ付きというのは濃いものらしい。それぞれが悩みを吐露するのに対し、ほかが共鳴し、アドバイスをする。大学は、生涯を通じる仲間を得る場所であるというのはほんとうなのだなと思う。
 カウンターのお客様は早々に引き上げ、手持ち無沙汰なのでお酌をサービスに努めていたら、「ママも座りなさい」と声がかかった。以下は、そこで耳にした内容に、菜々子の推量を加えたものである。「個人情報保護」がうるさい時節であるから、「みなさんのお話を匿名で小説にしちゃうかもしれないわよ」と断っておいた。

2. 将来設計が狂う

 50代は本気で老後準備をしなければならない年代だ。公的年金だけでは、当然のことながら生計費のすべてには到底及ばない。必要額の半分にもなれば御の字、そのほかに核となる収入減を一つや二つ持っていなければならないと考えたと、M平さん。数年前、奥様にまとまった遺産が舞い込んできた。研究一筋で資産形成にはまったく関心がなかった夫に代わり、奥様が趣味の陶器の知識を生かしたお店を開店し、「あなた、私に任せておけば老後は安泰だからね」。
「これは嬉しかったね。僕はしがない地方大学の教授。実験の仕方と研究論文の書き方を知っているが、そのほかの知識といったらお酒の銘柄くらいだから…」
 しかし、いかんせん素人商法。品物はけっこう売れるのだが、手元にお金が残らない。社長である奥さんの人件費を計算していなかったなんて、後で気づいたこと。その時点では納品された商品の支払い資金にもこと欠いて、会社はあえなく倒産。M平さんの将来の退職金を担保にお金を借りて清算したという。
 そういうM平さんだが、息子さんのことに話題が及ぶと顔を崩した。
「いやあ、長年の苦労が実って司法試験に受かってねえ。修習を終え、しばらく東京の大手事務所で就業したら、北陸のこの町で開業させるつもりだ。弁護士事務所はどのくらいの費用がかかるのか、まだ研究していないが、僕の定年までの大学からの報酬を貯めていけば、なんとか格好がつく事務所はできるだろう」
「いいお父さまだこと、息子さんがうらやましいわ、オホホ」と愛想笑いができないのが、菜々子の性分であり、久寿乃葉が大繁盛に至らないところだと、頭では分かっているのだが…。
「あのね、M平さん、息子さんは当然とは思うけれど、二十歳を過ぎた立派な成人よね。だったら、自分の事務所の開設費用は自身で銀行からでも借金して準備させなきゃ。それに何年も司法試験で浪人されたみたいだけど、その間の生活費や勉学費も、ひょっとしてM平さんが出してあげたのではないの。それは間違い、過保護すぎるし、お子さんのためにもならない。奥様が事業に手を出したのも、あなたの考えに同調して、お子さんの弁護士のへの夢を、親がかりでかなえてあげようと無理したからではないかしら」
 

3. 家が重荷になった

 次はI田さん。文科系の学部を出て最大手電機メーカーに就職。本社の管理中枢部に居座り続けて、いずれは重役、社長と衆目の一致するところだったというのが、会話の中で読み取れた。だが、近時は“逆風満帆”なのだという。「首を括りたい」と思いつめることもあるという。「いつも強気のお前がなぜ」と、仲間たちは心配げに問いただす。
「出世競争に負けてしまった。来年は子会社に出されるだろう。収入は間違いなく、数年間で半減の見込み」
 だが、まったく同情を引かなかった。会社内での出世なんて、どのみち上層部への売り込みの上手下手にかかわっているのだし、お前のように裏工作なしの正面勝負だけでは、曲のある奴に早晩足元をさらわれるのではないかと、皆心配していた。それが現実になっただけではないかというのが、大方の意見。「だったら、前もって忠告してくれればいいではないか」「三度は教えてやったはずだ。なのに『俺はそんな甘ちゃんではない』と聞く耳を持たなかったのはだれだ」といったやり取りがあり、社長に上り詰める人と部長で終わる人とは、収入面では大違いだが、人格面ではどうとも言えないのであるという真理をしぶしぶ受け入れた。
「収入減にも関係するのだが、十年ちょっと前に建てた家の価値が下落してなあ」
 なんでも今後の出世と収入増を当て込み、一億五千万円で豪邸(当人はそうは言わなかったけれど、菜々子の感覚ではこうとしか表現のしようがない)を住宅ローンで建てた。当面、利息分だけ支払っていく契約であったから、元本はほとんど減っていない。しかるに家の財産価値が三分の1に下がってしまった。売り払っても、その代価ではローンを完済できない状況になったのだ。
「お前らだって、首を括りたくなるだろう。俺が死ねば生命保険でローンは完済されるから、女房に家だけは残してやれる」
「そんな家もらって奥さん喜ぶものか」と、これも同感する者なし。聞けば、奥方は学生時代の合ハイ相手とかで、その気性をよく知っているようだ。一人が携帯電話を片手に立ち上がり、数分後に戻ってきた。
「奥さん、こう言っていたぞ。『家を処分して、お前の家に入る。ローンの不足分は、奥さんの親はすでに老人ホームに入っているので、その家を売り払い、退職金も担保に入れて、返済してしまう。そうすれば借金は消えるはずだ。家を買った時期が悪かったと考えてあきらめるのが一番だと夫には言っているのですよ。皆さんからも説教してやってください』だと。いい女房といい実家を持って、お前はまだ運がいいほうだと思え」
 

4. 息子のマネジャーにでも

 会社のラインからはずれるといえば、M見さんも同様。メーカーというのは、この50代半ばが線引きの時期らしい。
「息子を親と同じ大学に入れたのはいいが、一向に就職しようとしない。ニートにでもなってもらったのでは困ると悩んでいたのが2年前まで。理科系の親とどこで違ったのか、応募した○○文学賞に入選した。それから環境が一変だ。売れっ子の作家とまではいかないが、ずいぶんと印税が入るようで、親の方も余禄というか、車は新しくなるし、家の大修繕も終えたし。いまや息子様々だ」
 稼いだお金を親のために使うなんていまどき珍しい孝行息子である。
「そこで考えた。子会社にどうかという話が持ち込まれるだろうが、気が進まない条件だったら、それを断り、息子のマネジャーでもしようかなと。女子のプロゴルフでも、父親がキャディをしている選手がいるだろう。俺が出資してプロダクション会社を作り、息子の印税をそこに入るようにして節税する。社長である俺は、息子の講演の日程管理などもするわけだ」
 まあ、いい案ではあると思うが、それも息子さんが結婚するまでのこと。必ず、お嫁さんに社長の座を奪われると思うな。だが、夢を壊すのは忍びないからだまっていた。

5. 田舎に帰るか

 次は、母校に残って教授をしているM野さん。菜々子など有名大学の教授先生なら、「娘を嫁にやる、どころか、自分でお嫁に行きたい」と思うが、世間では必ずしもそうではないらしい。テレビのバラエティショーに引っ張りだこにでもなっていないのでは、中学、高校の教師と大差ない評価だという。
「俺なんか、年俸1千○百万円だぜ(個人情報保護のため正確な数値を略すが、1千万円台の下の方であった)。しかも定年になればおしまい。私立大学から誘いがあっても、収入はがくんと下がる。いっそ、北陸の田舎町に夫婦で戻り、農業でもしようかなと思う」
 若者を導く大学の先生がこの調子では、日本人が活力を取り戻すのは当分先だわ、とこれは菜々子の独り言。

6. 親の介護

 親の電気工事店を継ぐために郷里に戻ったH田さん。
「最初はよかったぜ。親父と俺とで職人を指揮して仕事をする。女房が経理を担当して、家事はお袋が切り回す。だがなあ、親父に痴呆が出て施設に入所、お袋は骨粗しょう症で身動きもままならない。女房は見舞いや介護でてんてこ舞い。俺一人で営業、工事の指揮、経理、それに加えて家事だろう。I田とは別の意味で首を括りたいよ」
 子どもに手伝わせたらという声に対しては、「危険を察知して、里帰りもしない。俺が死んで、遺産分けのときには返ってくるかもしれないな」と、ずいぶん投げやりな言い方だが、H田さんの顔には、これが現代日本だというあきらめの境地もうかがえた。

7. 人生楽あり、苦あり

 最後は学生時代に部長だったというA本さん。保険会社から系列の物流子会社に出向だが、ずいぶんと前向きの性格のようだ。
「暇なのをいいことに異業種交流の会に顔を出していたら、世の中、ちょっとしたビジネスのヒントがごろごろ落ちていることに気がついた。それを現実化する作業はおもしろいぞ。自社だけではリスクが大きいから、ベンチャー資本を巻き込む。先月も新宿の高層ビル内でテナントの業務をサポートする別会社を立ち上げた。個人でも多少出資してあるから、上場にでもなったら一財産できる」
 再就職なのだから無理しなくてもという声も上がったが、A本さんはいたって軒昂。
「新規事業に取り組んでいると、頭を使うからボケがこない。走り回るから健康にもいい。時間はいくらあっても足りないから、飲みに行かない。心・体・財のどの面をとっても、わが人生で今が最良だね」
 今の境遇を楽しむも、悔いるも、その人の考え方次第。六人のこれからが楽しみだ。次の同窓会は2011年の○月○日にしようと約束していたが、六年ごとでは平均余命に照らせば、あと3回しか開けない計算だが、この人たち分かっているのだろうか。

(『時評』2005年9月号)

020 年金担保融資

「菜々子の一刀両断!」ってわけには行かないか

寺内香澄 (総合社会政策研究所)

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1. 客あり、遠方より来る

久寿乃葉は社用族にはトンと縁がない。たまに黒塗りの社用車に送られて来られる大企業の重役さんもいらっしゃるが、用向きは大学の同窓会だったりするから、支払いは各自持ち。したがってお店の勘定がどのくらいか分かっているから、会社を引いて自適の身になってからもふらりと現れてくださる。
まだ5時前だが、カウンターに二人連れのお客様。
「時候もよくなってきたので、久しぶりに富岡八幡宮にお参りしようと思っているのだが、その帰りに懐かしい同級生を誘い出していっぱいやろうと思うので、お店を早めに開けてくれないか」Aさんからの留守電が入っていたのが1週間前のこと。10年近く顔を見ない。会社を引退されたときに、仲間内での送別会がここで行われて以来のことではないかしら。帳面を点検したが、果たしてそうだった。
 久しぶりのAさん、髪こそシルバーグレーになっていたが、精悍な顔は以前と変わらない。その髪の毛も、若いときから白髪気味で、染めていたのだという。外見を気にしなくてよくなってから自然に戻したのだそうだ。5歳程度年齢をごまかしても十二分に通りそう。能力もやる気もある人材を引退に追い込んでおきながら、「少子高齢化で人材不足が心配だ」なんて、この国の指導者たちはいったいなにを考えているのでしょうね。
 これに対し同行のBさんは少々疲れ気味に見える。しばらく前に出身大学の同窓会で会い、近々ゆっくり話そうとなったのだという。お住まいはこの近所だし、Aさんも土地勘があることから、久寿乃葉を思い出していただいたということだ。「客あり、遠方より来たる。また嬉しからずや」。これを縁に地元の高齢者のお客様が増えるかも知れない。奮発してサービスしなくては。

2. 生活の糧を根こそぎ

 Bさんも同じく仕事を引退しているのだが、奥様に少々認識障害の気が見えるという。娘さんの結婚準備資金として箪笥に置いていたはずのお金がかなり足りなくなっている。最初は自分がなにか勘違いしているのかと思ったのが、思い当たるふしがない。ふと飾り棚を見ると、見かけない壷が置いてある。これどうしたのと女房に尋ねたら、ありがたいお坊様がお奨めになっているので譲ってもらったという。その金額を聞いてたまげてしまった。金銭管理には人一倍うるさかった女房が、ありふれた壷にそのような大金を支払うなんて。それから気になって点検してみたら、押入れの中などから買った覚えがない品物が出てくる。一方、定期預金のいくつかが解約されてなくなっている。問いただすと、いくつかは覚えているが、他は記憶がないという。ひょっとしてアルツハイマーにかかっているのではなかろうか。Bさんはそのようなこといい、今は自分が金銭管理をしているからいいのだが、自分になにかがあった後の女房が心配だという。夫婦は二世というけれど、いっしょに死ぬわけには行かない。残される奥様のことを考え、Bさんは夜も寝られないのかもしれない。
 昔と違って、今の高齢者は息子、娘と同居していない。悪徳商品を売りつけようとする連中からすれば、高齢者は格好の獲物に見えるに違いない。第一に昼間家にいてくれるから、接触しやすい。第二に定期の年金収入があるなど、騙し取るお金がある。第三に少々判断力が落ちている契約に持ち込む期待を持てる。第四にだまされたと気づいても、文句を言わずにあきらめてくれやすい。
 新手の悪徳商法を考える輩は後を絶たないようで、先日逮捕された貸付業者の例をAさんが紹介した。年金は一身専属性であり、他人が換わりに受け取ることはできない。その人への給付なのだから当然といえば当然なのだが、法の網をかいくぐって本来の受給者の年金を横取りしようと企む者がいるのである。
 簡単な手口では、親が死んだのにその届けをしないで、振り込まれ続ける年金を息子が引き出すというものだ。たまに発覚し、逮捕される者が出る。しかしAさんが説明したのは複雑で組織的なものだった。高齢者に「簡単にお金を用立てます」というダイレクトメールを出し、被害者候補を誘い出す。求められた10万円を貸し出す代償に、高齢者のキャッシュカードを受け取る。同時に、年金受給権を担保に低利での金銭貸付を認められている国民生活金融公庫から100万円を借り出させ、業者がそっくり受け取る。公庫への返済が終わるまで、年金は直接公庫に送金される。その結果、高齢者は10万円借りたために、100万円の年金を失うことになる。早い話、10倍、1000%の金利ということである。

3. どうして借りるの

複雑な仕組みだが、分解してみると簡単だ。高齢者はだまされているのである。このような高額の金利貸付は違法であり、民法上の公序良俗違反の契約として無効になる。すなわち借り手はそのような高い金利を払う義務を認めないといって、自分が交わした契約内容の履行を拒否できるのである。とは言うものの、一般市民が業者相手にそのような強い態度に出ることは難しい。いわんや体力、知力が衰え、日頃引け目を感じている高齢者に、独力でその権利を行使しろといっても無理な相談というものだ。今でも大企業の重役さんの名刺を持たせればそのまま通用しそうなAさんですらこう言うのだから、一般高齢者ではとてもこわくてできないだろう。菜々子だって、威圧的に返済を迫る悪徳業者に対して、「あなた方の要求には応じないわよ」なんて言葉は、体が震えて言えそうにもない。
「うちの女房なら引っかかるかもしれないが、判断力がある普通の高齢者は、そもそもそのような危ないお金に手を出さないのではないか」とBさんが問う。Aさんが答える。
「危ないと分かっていたら近づかない。だけど、お孫さんが有名小学校に受かってプレゼントしてあげたい。あるいは病院への支払いが少し不足した。そうした場合にいちいち定期預金を解約するのは面倒だし、せっかくの定期預金の利子を損するでしょう」なんて説得されたら、応じてしまうものらしいよ」
「親戚や友達との間では、少々のお金の貸し借りは無利子が当然。業者が親切だと、それと同じだと思い込むのかもしれないわね」。これは菜々子の割り込み。
「自分で事業をやったことのないサラリーマンOBやその女房族では、そもそも金利の恐ろしさをしらないもの」と、Bさんが続ける。
「複雑な仕掛けをされているから、自分の年金が振り込まれてこなくなっても、すぐにはだまされたと気づかない。契約した自分にも落ち度があるかもしれないなどと考え込んでいるうちに、国民生活金融公庫への返済が終わって、年金振込みが再開される。それで被害のことを忘れてしまう者が多いかもしれない。被害者が黙っていてくれることほど、悪い連中に都合がいいことはない。この悪徳業者の余罪はまだまだあると思う」
 Aさんが締めくくってこの話は終わりそうになったのだが、この種の悪徳商法に引っかかる高齢者が多いのであれば、本質的な解決策を考える必要があるのではないかしら。

4. 年金の現物給付

「ママにはアイデアがあるのかい」Aさんが悪戯っぽく笑う。
「そうねえ。その悪徳業者のターゲットは定期に口座に振り込まれてくる年金の存在でしょう。だったら、あらかじめ使途が決まっている受給者に対しては、お金ではなく、そのモノやサービスの利用引換券を郵送したらどうなの? その種の金券類では、騙し取っても換金に手間がかかるから、悪徳業者にとって魅力のない高齢者ということになる。つまり敵の毒牙から逃れることができるわ」
「具体的にはどうするの?」Bさんは興味を持ったようだ。
「僕と女房は年に一度は長期旅行をするのが昔からの生きがいだった。その旅行クーポンをお金の代わりに年金として受け取るということかい?」
 まさにピンポーンである。Bさんの場合、旅行会社に申し込み、日程、料金が確定したところで、その契約書の写しを社会保険庁に申告する。社会保険庁はBさんの年金額から、それを差し引くと同時に、旅行会社に振り込むのである。同じことはあらゆる分野で通用する。温泉回数券、商店街の商品券、なんでもありである。多数の高齢者からの要望の処理に手間がかかるから、5%程度の手数料を申し受けることになるだろうが、金券類を売る事業者にしてみれば、モノやサービス提供より前に代金を受け取れるのであるから5%程度の値引きをしても損しない。その結果、高齢者が余分な経費を持たなければならないことにもならないだろう。
 もちろん給与が高い公務員である社会保険庁のお役人にこの種の事務をやらせることは考えない。民間の企業を募ればいい。モノやサービスの金券類での給付をするための事務処理費用を、公務員であれば5%相当額かかるところを4%に節減することにより1%浮かせる。一方、購入先である事業者からは5%ではなく、6%の割引を獲得することにより1%残すことができる。合計して2%の利益を生む新産業が生まれることになるのである。参入したい企業はいくらでもありそうな気がする。

5. 保険料納付にも応用

「なかなかおもしろい着眼だね。資金提供者を募って、会社を設立しようか」Aさん乗り気になっている。でも菜々子はその点、冷静であった。
「年金はお金で支給しなければならないと、今の政治家たちは言うわよ。とにかく『会して議せず、議して決せず、決して行わず』をモットーとする人たちだもの。この提案に対しても、『それは違法である』なんて言われかねないわ。これから年金制度を考える国に売り込みに行きましょうよ」
「そこまで自虐的にならなくてもいいのではないかな。ママの提案、若者に年金保険料を払い込ませる段階でも使える気がする。『持ち合わせのお金がないので保険料を納付できない。仕事がないだけで暇と体力ならあり余っているのです』と言い訳する若者がいるだろう。そういう人を、先の会社でアルバイトとして使用する。アルバイト料のうち、昼食代は弁当を現物給付し、残りはその者の保険料として会社が代わりに納付する。この仕組みを合わせて提案すれば、年金保険料未払い増加で悩んでいる社会保険庁が採用するかもしれないよ」
「そうだといいけどね」。Aさんと菜々子は弱々しく同意した。

(『時評』2005年8月号)

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