風船子、迷想記

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写実画の凄み

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Eテレの「日曜美術館」の今日のテーマは、「ニッポンの写実画のゆくえ」。番組で紹介された礒江毅、長谷川 潾二郎、犬塚勉、木下晋…いずれも、個展に足を運び、大きな衝撃を受けた画家ばかりだ。平塚美術館で開催中だという。次の日曜に足を運んでみよう。

「写実を極めると写実でなくなる」(礒江)

「見たまま」に迫ろうとすると「見えないもの」が見えてくる。リアリズムというのは、不思議なものだ。

※過去記事です



 「アカデミー賞のアメリカ映画」と聞いただけで見る気がなくなるヒネクレモンだが、いくつかの映画評に感じるところがあり、「バードマン」を上映中の劇場に足を運んだ。

 この判断は正しかった。メジャーなアメリカ映画にはない、ひねった高レベルの批評性を備えた作品だった。作品について賛否があるとのことだが、「ディズニーランドだと思って入ったのに、変態おやじがわめいている居酒屋だった。カネ返せ!」というのが否定派のほとんどだろう。予習不足で行先をまちがえただけの話で、賛否以前の問題だ。副題をもじっていえば、「無知がもたらす予期せぬ失望」。映画会社も、こうした勘違いの客をかなり見込んでソロバンをはじいていたのではないか。

 賞賛派のなかには、「落ちぶれたかつてのスターの悲哀を描いた人情味あふれる作品」なんていう人生論的感動タイプもいたが、おめでたいと言ってしまえばそれまでだが、まあ、信じる者は救われる。

 非ハリウッド的だと思ったが、当たり前といえば当たり前。監督はメキシコ人で、最初からミニシアター系作品を撮るつもりだったらしい。
 「コミックの主人公を演じて有名になった」との主人公の設定自体が、すでに米国式大衆文化を笑っている。その主人公がレイモンド・カーヴァー原作のブロードウェー舞台で中高年の気取った客を相手に「演技派俳優」として復活しようとあがく姿は、今度は商業演劇とミドルクラスの俗物性を笑っている。
そして、主人公が超能力の持ち主であることを、妄想の可能性を示唆しつつ、ストーリーの随所に挟む演出は、「実存的不安」(日本的にはとっくに死語だが、英米の批評では時々、お目にかかる)をストーリーの通奏低音として響かせている。

 全体として、「演劇を以って、演劇を笑う」という自己批評を商業映画として見事に成立させていた。全編ワンカット風カメラワーク、ドラムスだけの音楽も挑発的で、成功した映画的アクロバットとして映画史に残ると思う。

 ただ、こうした作品がアカデミー賞をとることに対しては、「ウチの場合、その気になれば、いろいろできるんですよ」という米国興業ビジネスの余裕を感じてしまい、ちょっと面白くない。これは、ひがみか。

アメリカによる映画を2本観た。「アメリカン・スナイパー」と「ハーツ・アンド・マインド」。前者がイラク戦争を描いたクリント・イーストウッド作品、後者はベトナム戦争をテーマにしたドキュメンタリー映画。

 「アメリカン・スナイパー」は、イラク戦争について賞賛しているのか批判しているのかで米国で論争になったそうだが、少なくともイラク戦争を正当化した政治的な映画ではない。イーストウッドは、戦争における兵士の役割を政治色に染まらないように描いている。「愛国的行為」としての側面と「職業的人殺し」である側面の両面から目をそらしていない。監督当時84歳!

 「ハーツ・アンド・マインド」は、被害者だけではなく、ケネディ、ジョンソン、ニクソンら米国大統領や南ベトナム政治指導者、米軍兵士などベトナム戦争を推進していた側の証言を通じてベトナム戦争を批判する作りになっている。
反対者ではなく、当事者たちの正当化の弁を通じて、その問題に否定的に迫る方法だ。成功すれば、これほど説得的なやり方はない。成否は、素材の編集にかかっている。腕前は見事で、アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を取り、その後のベトナム反戦映画にも影響を与えた。感心したが、同じ当事者たちの証言をもとに、説得力のあるベトナム戦争肯定映画も作れるかもしれないと意地悪なことも考えてしまった。

 この二つの「米国による戦争」に共通点が多いことも再認識した。

 ヴァロットン展を観る。

 期待以上に面白かった。ヴァロットンは、20代の写実風肖像画に始まり、生涯、画風も題材も変化を続け、60歳になったとたんに亡くなった。

 画家として絶えざる変化の一方で、変わらなかったのは「傍観者としての眼」ではなかったか。たとえば「ポーカー」と題した画には左隅にポーカーをしている中年男性たちを描き、画面中央から右下にかけては大きなテーブルが「主役」として画面を占拠している。自分の家族の食卓風景を描いた絵も、一番大きく描かれているのは画面中央に真っ黒に描かれた自分の背中だ。
 
 ヴァロットンは、描く対象にも冷淡な視線をそそいでいるが、自分自身に対しても距離感をもっている気がする。

 己を空しくして写実に徹底するわけでもなく、かといって、自己の内面を表現しようと熱い思いでキャンパスに向かっているわけでもない。実物再現の職人でもなく、自己愛中心の芸術家でもなく、本人は何を考えて、こうした立ち位置で、生涯、画家を続けたのか…

 日本でいえば幕末の生まれだが、近代的、いや20世紀的意味でのニヒリストと言えるかもしれない。その意味で、展覧会のタイトルである「冷たい炎の画家」とは言いえて妙だ。

 関心のある向きは、下記の展覧会HPをのぞいてみてください。

http://mimt.jp/vallotton/midokoro.html

 映画「ローマ環状線、めぐりゆく人生たち」を観た。

 ローマを囲む環状道路沿いに住むユニークな住民たちの日常を追ったオムニバス風ドキュメンタリー映画。ハラハラドキドキのストーリーとは無縁なためか、集団催眠映画「大いなる沈黙へ」ほどではなかったものの、観客睡眠率はそこそこ高かった。小生も途中で意識が混濁した時間があったが、退屈したわけはない。むしろ、断固支持したい作品だった。

 小生自身、むかしローマ北西の郊外に住んでいたことがあり、GRAは何度も走ったことがある。沿道には大きな住宅地はなく、空き地が広がっていた記憶がある。今回は、懐かしさが先に立ち、まったく予習なしで作品を観た。

登場人物のほとんどが浮世離れしているため、てっきり俳優を使ったドラマかと思っていたら、すべて実在の住民たちであった。そうだった、そうだった。ローマ在住の時、テレビ番組に出演する一般参加者と芸能人の区別がつかなかったことを思い出した。日ごろテレビ出演とは無縁の人たちも、テレビカメラの前で臆することなく、いや、むしろいつもより張り切ってしゃべくりまくっていた。

 この映画に出てくる「市井の人たち」は、そのイタリア標準より、さらに一クラス、二クラス上級のクセモノぞろいだった。普通だが普通ではない人たち。自然体だが不自然な人たち。ジャンフランコ・ロージ監督は、この連中を安易なヒューマンストリーに落とし込まず、クセモノをクセモノのままでスクリーンに盛り付けた。

 虚実皮膜の快作。フェリーニを想起させた。ヴェネチア国際映画祭で、ドキュメンタリー映画としては初めて最高の金獅子賞を獲得した。審査員にもアッパレを進呈した。

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