阿波市に残る城あとを訪ねて

徳島県阿波市限定の城跡ブログです(-_-;) 地元の町誌の引用もあります。研究のご一助になれば幸いです。
広長城
形式:平城?
歴史:不明
所在地:阿波市吉野町柿原字植松
城主:近藤氏  鹿ヶ谷変の西光法師の居城。
 
Wikipedia」より引用
 
西光(さいこう、生年未詳 - 安元363日(1177630日))は、平安時代後期の官人、僧。後白河院の近臣。阿波国の豪族・麻植為光の子で、中納言・藤原家成の養子。俗名は藤原師光(ふじわらの もろみつ)。子に師高、師経、師平らがある。
信西(藤原通憲)の乳母の子と言われる。麻植大宮司家(麻植郡忌部神社祠官)の麻植為光の子で、もとは阿波国の在庁官人であったが、家成の養子、乳兄弟とされる信西の家来となり、左衛門尉に昇る[1]。 平治の乱で信西が死ぬと出家して西光と名乗る。のち後白河法皇に仕え、「第一の近臣」と呼ばれた。西光は藤原成親・俊寛・多田行綱らの平氏打倒の陰謀に加わり、鹿ヶ谷の山荘での密議の首謀者となる(鹿ケ谷の陰謀)。
 安元3年(1177年)3月、子の師高と師経が比叡山と紛争を起こし、比叡山大衆が強訴する騒ぎとなる。師高と師経は処罰されるが、西光が後白河法皇に讒訴して天台座主・明雲の天台座主職を停止させ、拷問の上で伊豆国に流罪にさせた。明雲は配流の途中で衆徒に奪回され、西光は後白河法皇に厳罰を進言する。
 
同年6月、比叡山との紛争の最中に行綱が鹿ヶ谷での陰謀を平清盛に密告。西光は後白河法皇のもとに逃れようとするが捕縛される。清盛は西光の顔を踏みつけ責めるが、彼は逆に平氏を罵った。激怒した清盛は西光を拷問の末、五条西朱雀で斬首させた。
 
^ 「中にも故少納言信西がもとにめしつかひける師光・成景という者あり。師光は阿波国の在庁、成景は京の者、熟根いやしきげろうなり。健児童もしは格勤者などにて召しつかはれけるが、さかざかしかりしによて、師光は左衛門尉、成景は右衛門尉とて、二人一度に靫負尉になりぬ。信西がことにあひし時、二人ともに出家して、左衛門入道西光、右衛門入道西敬とて、是は出家の後も院の御倉あずかりにてぞありける」(『平家物語』)。また、「源師光庁 柿原広永里にあり、其の址今に存す」(『阿波誌』)とあり、師光の阿波国の在庁は、板野郡吉野町柿原、現在の阿波高等学校の敷地内と伝えられている。
 
今の様子と感想:
西光は、「Wikipedia」にあるように、相当な有名人…で、現在の阿波高等学校の敷地内に、何らかの遺構なり、石碑なりが残っていたりするのかな? 私はこの高校の出身ではないので、妹と母に聞いてみましたが、わからないとのこと。
「日本城郭大系15」によると、植松にある若宮神社じゃないかという…。阿波高校も近いんですよね。
ちなみに近くに「ヒロナカ」というカタカナの地名も見えます。
阿波市社会教育課の方の話によると、この城も所在がはっきりはしないとのこと。
 
 
「吉野町史」より引用
 
(『阿州古城諸将記』より引用した文)
広長城 柿原村、近藤左衛門師光入道西光在庁所也、為平家所誅。
 
(2014年6月7日 追記)
この近辺にある、若宮神社と土御門上皇の伝説の関連を調べていたときに、「土成町史」より、興味深い記事を見つけました。
それは『土御門上皇倉方ぼされた説』について書いたところでした。
 
隣接した柿原の藤原師光(西光の四子広永)が、田口われ、広永れて宮川内谷に逃れて自殺した。土御門上皇ぼされた話は、この戦と混同したのではないか』
 この藤原広永は、藤原師光(西光)の四男とあり、この事件当時、長城かっていたのだそうです。ですが、事件後すぐに阿波の平家の一門・田村ぼされました。
  とすれば、この広永の名前をとって、「広長」城としたのでしょうね。
 この出来事が、土御門上皇崩御44年前のことです。なので、この出来事と土御門上皇の話がざり合い、「土御門上皇は鎌倉方に攻め滅ぼされた」という伝説になったのではないでしょうか?
 
 「広長城(西光屋敷)」は、吉野町の若宮神社のすぐ南西の阿波高校グラウンドそばにあります。
 そしてこの付近の地名は「ヒロナカ」。
 これは「広永」が「ヒロナカ」に変化したのではないでしょうか?
 そうすると、近くにある若宮神社の大墓も、もしかしたら藤原広永に関連する遺跡なのかもしれません。
 
イメージ 1
↑ 阿波高校のグラウンド。校舎西側。野球部員が練習中でした。
昨年夏に来たときには、草ボウボウで、石碑が見つけられませんでしたが、今回行ってみると、グラウンド北側をなにやら整備中らしく、重機が入っていて、草もすっかりきれいに取り払われていました。
イメージ 2
↑上の写真の右手に、この石碑が立っておりました。
 

知恵島城
形式:平城?
歴史: 城主・知恵島源兵衛は(中富川の戦い)で敗死
所在地:阿波市吉野町柿原
城主:知恵島氏
今の様子と感想:これも「柿原」……ですが、遺構は残っておりません。「柿原」ならば、阿波中央橋の北の平地のどこかにあったのでしょう。
  中央橋を挟んで南側は、吉野川市鴨島町(旧麻植郡鴨島町)なのですが、この辺…中央橋を渡ってすぐのあたりは、「知恵島」という地名です。もしかしたらこっちにあったのかも知れませんし、知恵島氏が後にこちらに移り住んで、地名を残したのかもしれませんね?
 


詳しい地図で見る
「吉野町史」より引用
 
(『阿州古城諸将記』より引用した文)
知恵島城 知恵島源治兵衛、藤姓紋丸ノ内三藤、百〆 中富川ニテ討死ス。
○知恵島 清久左衛門治良ノ末葉久三之丞嫡子也、太平記廿二巻ニ出。
 内藤助太夫、藤姓紋藤丸立子。
奈良太郎兵衛、平姓紋菱。(注:市場町の「奈良坂城」の項参照)
香美馬之進、源姓紋丸中鷹羽違。一本蘇我氏紋二ツ引両鷹羽違。(注:市場町の「香美城」の項参照)
片山岸右衛門 源姓、紋丸中鷹羽違
角田平右衛門 千葉氏紋星丸
河村左馬亮 藤姓、紋竹丸中羽堀竹二本
右六人知恵島友達衆或ハ浪人衆或は一類トモ云
源太城
形式:不明
歴史:承暦・永保の頃、佐渡氏の居城。
所在地:阿波市吉野町柿原
城主:佐渡源太重実は、源頼光の孫と伝えられています。
…って、ええええ?? 源頼光って……あのあの…あの、「みなもとのらいこう」ぅぅぅ? 「平安のゴーストバスターズ」の異名を持つ……酒呑童子を倒した……「金太郎さん」(坂田公時)の上司の……あの?? あの頼光の……孫だって? そんな有名人の孫がこんなところにいたのっ(@_@)??
今の様子と感想:上記のように、源頼光の孫が城主だったという城。
 「柿原」とあるが……柿原って、広いんですよ〜(汗)。
 これも、社会教育課に問い合わせましたが、遺構は残っていないとのこと。
 源頼光の孫ってことは、平安時代ですよね? 承暦・永保の頃ってことは、1077-1084 ですね。土御門上皇の来県よりも、後述する広長城の西光の来県よりも前…です。
 それだけ古ければ、跡が残っていないのも当然でしょうね。
 
「吉野町史」より引用
 
(『阿州古城諸将記』より引用した文)
源太城 承暦、永保之頃、柿原邑、佐渡源太重実、佐渡前司重宗ノ嫡源頼光ノ孫也。


追記:2015年8月12日
 先日、子供たちと吉野川市鴨島町の花火大会に行ったときに、阿波中央橋の南側の土手沿い、河川敷に下りる道沿いにひっそりと「源太の渡し」と書かれた石碑を発見しました!!
 ということは……この対岸辺りに、源太城があったということでしょうか?
 もっと詳しく調べる必要がありそうですね!

 柿原城 
形式:平城
歴史:上桜城合戦(大形殿と篠原自遁の仲を諌めた篠原長房を、「篠原長房に謀反有り」として、三好長治と弟の十河存保が上桜城を攻め、篠原一族を滅亡させてしまった戦)で篠原紫雲につき、落城
所在地:阿波市吉野町柿原
城主:柿原氏源吾
今の様子と感想:「吉野町史」には、編纂当時の写真が載っていて、多分、阿波中央橋から東へ 行ったところの田んぼの付近だろうと思われる風景が写っています。
 
 で、先日、阿波市の社会教育課の方に電話で問い合わせをいたしましたら、平城なので、城の遺構などはもう残っていないとのこと。文献や伝承として、この辺だろうと思われ、場所の特定はできない…とのことでした。
 
 それにしても…アレですね。この辺の城は、大抵「上桜城合戦」か、「中富川合戦」で城主が亡くなっているんですよね。吉野町史でも、上桜城合戦の阿波国内の混乱の隙をつかれて、長宗我部元親の侵攻を許してしまった…という感じに書かれていて、それほどまでに「小少将の局」が戦国期の阿波国にもたらした影響は大きかったのだな…と思いますね。
 

「吉野町史」より引用
 
(『阿州古城諸将記』より引用した文)
柿原城 柿原源吾、源姓紋五本骨扇中松。五十〆、上桜幕下。
篠原城
形式:平城
歴史:
所在地:阿波市吉野町柿原字シノ原
城主:篠原氏  上桜城守護、篠原氏の支族。
今の様子と感想:県道12号線、旧阿北高校前の交差点の三角地に建つSoftank裏側を通る方の道を、東へ進む。マルナリアグリセンターの次の交差点も直進し、次の二股を右へ。道の南側のシノ原集会所の横の道を南へ。墓地を過ぎてすぐの三叉路を右へ曲がり道なりに進むと、道の左側にこんもりと木の茂ったところがある。そこに、やや傾いた石碑が立っていました。(写真の石碑が斜めなのは、私の腕のせいではありませんです(笑))
この辺は「シノ原」という地名が残るとおり、篠原城があった付近です。知り合いの新聞配達のおっちゃんが、この碑のことを教えてくれました。
篠原氏の支族とのことなので、多分、後述する柿原城と同じく、上桜城合戦(大形殿と篠原自遁の仲を諌めた篠原長房を、「篠原長房に謀反有り」として、三好長治と弟の十河存保が上桜城を攻め、篠原一族を滅亡させてしまった戦)で、落城したのでしょう。
 
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五条城(高志城)
形式:平城
歴史:天正10年落城。 城主・高志右近は、中富川の戦いで敗死。
所在地:阿波市吉野町五條字本郷
城主:高志氏 
今の様子と感想:吉野町の東の端、五條神社の建つあたりから南の方にあった城だと伝えられています。「吉野町史」によると、その近辺に「城屋敷」と呼ばれる一角があるそうですが、現在は耕地になっていて何も残ってはいないそうです。
 
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↑五條神社の鳥居下から、南を撮影。あの家が立ち並んでいる辺りが城屋敷と呼ばれた所でしょうか?
 
 
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↑「吉野町史」に載っていた図。地図と見比べてみてくださいね。
 
 
「吉野町史」より引用
 
七 五条城
五条城については、『板野郡誌』に「高志下野守、姓源称小笠原又有右近、蓋其族也、其裔居五条」とある。そこで、つぎの「高志氏系図」が注目されることになる。
これによると、一宮氏から分れた孝哉が、高志四郎と称して応永年間に、名方郡高志荘に一五〇貫を領したとしている。そうして五条城に居城したとすれば、高志荘の地頭職を得たものと考えてよく、五条の一部が、その当時は名方郡に属していて、高志荘の四至のうちに包含されていたものと考えることができるであろう。(中略)(系図は略します)
なお、いま城址には城屋敷という一角があって、その北部山麓地帯には、南北朝内乱期の南朝拠点である台山城址(現上板町)の存在と、何らかの関係があるようにも考えられるのである。
以上のように、吉野町における中世の城の存在と、城主の系譜について、主として諸家系図によって考証してきたが、これらの城主は、もともと各荘園の地頭として定着し、守護大名または戦国大名の細川家や、三好家の被官となって、在地領主化したものと、荘園の名主から武士化して、被官化していったものとの二系列があったことは、当然のことであり、吉野町の場合にも例外ではない。しかし、諸家がどのタイプに類型化できるかについては、現存の史料だけで判断することは危険である。
ただ、これらの城主たちが、戦国期においてどのように活動し、そのもとで私たちの祖先たちが、どのような立場で、どのように対処したかということは、町民として興味の尽きない問題であろう。その意味において戦国期の吉野町は、まさに波瀾に富んだ歴史を持った町であり、町史の上で重要な節目であったことは疑いない。

 
西条西城
形式:平城
歴史:天正10年落城。 西条壱岐守益太夫は、中富川の戦いで敗死
所在地:阿波市吉野町西条字中西?
城主:岡本氏・西条氏
今の様子と感想:吉野中学校前の県道15号線を東に進み、「福祉センターこすもす」を過ぎた次の交差点の右の細い道へ入ります。すぐの三叉路を右へ曲がり、南へ進んでいくと、田畑ばかりの一角になります。ここは本当に真っ平らの畑で、何のあとも石碑も立っていませんでした。
この城は、蛇池という大きな池に面して建てられていた城だと「吉野町史」にはありました。今も蛇池の地名はありますが、埋め立てられて平坦な水田になっています。
「吉野町史」には城の中心を示す杭が立っていたようですが、今はそれも見当たりませんでした。
 

 

詳しい地図で見る
↑地名に「蛇池」とあるのに注目! 多分このへんだったのでしょうね。
「吉野町史」より引用
 
(『阿州古城諸将記』より引用した文)
西条西城 天正十年落城、西条壱岐守同益太夫中富川ニテ戦死ス
 佐々木氏紋四ツ目結泰綱三男長綱嫡子也、百五十〆
 △佐々木壱岐守泰綱三男西条壱岐守守長嫡流也
 
六 西条西城
 西条西城は江戸時代の古図によると、大きな蛇池があり、いまは池も耕地となっていて、かって池が存在していたことを偲ばせるわずかな石垣などが残っている。池に面して城があったと伝えられているが、城については何らの構造物もなく、当時を偲ぶ面影とてない。『阿波古城記』によると、この城は「天正十年落城、主将西条壱岐守同益太夫中富川ニテ戦死ス佐々木氏紋四ツ目結」とある。
西条東城 (別名:戎城)
形式:平山城?
歴史:この城の築城年代についてははっきりしませんが、貞和2年(正平元年1346年)秋月城の支城として築かれたそうです。天文年間は、岡本美作守清宗が城主で、勝瑞・城主細川持隆に仕えていました。その後、土佐の長宗我部元親の侵攻により落城したそうです。
  天正14年、蜂須賀家政が阿波を与えられ、家政はこの西条東城を阿波9城(西条東城の役割は讃岐方面の押さえ)の一つとして修築し、家臣の森監物政国に兵300で守らせました。
その後、江戸時代の元和元年の一国一城令により寛永15年に廃城となりました。
この付近は古城山と称した小高い丘(これが天守台と伝わる)だったそうですが、昭和始めに山地が堀り崩され、今は平地になっています。昔の地名が「戎」だったらしく、別名が戎城なのはそのためでしょう。
城主:森監物政国,森氏,岡本清宗
所在地:徳島県阿波市吉野町西条字町口
今の様子と感想:県道15号線ぞいにある一條神社から西へゆくと、道の北側にJAがあります。その南側の民家の間の細い道を南へ少し歩くと、突き当たりにある民家の手前、道の右側に薮があり、その中に石碑がありました。
今は、田畑や住宅地になっていて、ここに昔、小高い丘があって、お城があったとは想像もできませんでした。お城の主要部は畑や竹やぶになっています。この石碑がなければ、城あととはとてもわかりませんでした。
「吉野町史」には、天守台への入口の写真が載っていましたが、今はなーんにもないです。
この城で生まれた女性で、戦国時代の阿波の国に、とても大きな影響を与えた人がいたそうです。「小少将の局=大形殿」……一人目の夫をもて遊び、夫を殺した男の妻となり、城内で権力を握り、二人目の夫の亡き後は、家臣と通じ、その不倫の仲を戒める忠臣を讒言で滅ぼし、自分の産んだ子供三人は権力闘争で生死を分け合い、阿波国内を大混乱に陥れた傾城の美女…「小少将の局」。
興味ある方は、調べてみてくださいまし。
 
 
イメージ 1

↑写真左側に一件の民家があり。おばあさんが一人暮らしなんだそうですが…この荒れようは、酷いですよね?この石碑の前の廃車、どうにか処理してくれませんかね…? 割に有名な城跡だから、訪ねてくる人も多いと、近所のおじさんもおっしゃっていたのに…。
 
 
 「吉野町史」より引用
 
(『阿州古城諸将記』より引用した文)
西条東城 天正十年落城、岡本美作守入道牧西、有美人小少将局ト云、細川氏ニ奉仕シテ真之ヲ産ム、後三好義賢入道実体ノ妄トナリ大形殿ト云、長治、存保ヲ産、天正十四年家政公森監物ヲ置与力三百人一国一城御定後廃セリ
○同 岡本美作守 友達衆
    岡本甚之丞 △岡本美作守同牧世也
五 西条東城
 以上のように戦国期の吉野町には、多くの城主が勢力を張り、細川氏あるいは三好氏の被官として、城を構えていたが、そのうち最大の勢力を誇っていたのは西条東城であった。『阿州古城諸将記』によると、岡本美作守は細川氏の被官として、西条で勢力をもち、守護所のあった勝瑞城に呼応して、有数の存在であったことがわかる。その後に下克上で三好義賢が阿波の実権を掌握すると、直ちに三好家の有力被官となったこともわかる。さて岡本美作守の人物像を紹介してみよう。
 「阿波国徴古雑抄」所収の「昔阿波物語」によって、西条東城主であった岡本美作守に関する記事を引用すれば、つぎの通りである。
岡本卜世(牧西)(注:ぼくせい)と申すは、大形殿ちちにて、おやかた様(細川真之)・三好長治様はをい(注:甥)にて候。弓方の躾方、仏事の事、日どり・軍ぱい・連歌何たる事を問い申しても、御存知なき事無之候。天正四年十二月半に、御屋形様仁宇へ御隠れ成され候時、卜西之仰せられ候は、めいめい為ぞと仰せられ候。大形はどうたい(胴体)なり。御屋形・三好は二つのはし(くちばし)なり。じき(食)をあらそい候時、壱ツのはし、毒をくわへて見せる時、どくとはしらずして、ばいくうて死ぬる時、どう一体なるゆへに、どれも死ぬるなりと仰せられ候事、少も違はず候。同四年霜月に、加地又五郎へ、川村殿むすめ入申す時、是は死わかれ同前と仰せられ候。是少も違はず、其年の十二月廿七日に、別室にて、長治様の御伽なされ候。かやうに日取りなる数限りもなく一つもちがいなく候。
この史料によって美作守を推測すると、すぐれて先見性をもった知将という印象が強いのであるが、「昔物語」にはまた次のように美作守の戦術家としての一面を伝えている。
弓方には、軍はいく(生)る事専一と、不断ト世の申され候。日々いくさは御座候に付、今日はてきが負とある時は、必ずちがいなく候。卜世は勝瑞に御住着なされ候に付て、碁を御すきなされ、日々に御座候に付、御物語を承り候。卜世と申すは、新乗院住寺にて候ひつれ共、寺を御すて成され候て、其寺は赤沢殿(板野郡板西城主)御舎弟の住寺に御なり候。
(以下略・三木家系図も略)
 西条東城は、「西条戎台之上に高櫓あり、その周囲に館構にて東西二百歩南北百五拾歩その内外に濠をめぐらし、大樹あり。櫓の台地は高さ弐丈(約六m)周囲六拾歩、櫓の高さは弐丈五尺(約七・五m)ありき」とされている。なお、一万五千貫の所領貫高については、一貫が石高に換算すると約五石に当たるので、七万五千石以上となり、史実としては認められず、若干の誇張といわざるを得ない。

 
自然寺城 
形式:山城?
歴史:不明
所在地:阿波市土成町水田 日吉山頂が城址
今の様子と感想: J クラシックゴルフのある辺りが「水田字日吉」という地名で、日吉神明神社が建っています。その背後の山の上に城玉神社という神社があるので、この辺ではないかと思いますが…車で登っていくのがためらわれ、今回は断念しました。
それに、土成町史にも城の名前はなく、地元の人(郷土史に詳しい小学校の教頭先生)に聞いても、知らないとのことで、市場町の観音城と同じく、他の城の支城か何らかの施設だったのかも知れません。「山頂」とのことなので、見晴らしは良かったでしょうから。
この城の名前は「帝國博物学協会」というHPの「阿波國徳島縣城址探訪日本の城 全国城址一覧より増補」(http://www42.tok2.com/home/hakubutukan/awa/Awa_Tokushima.html)に載っていたのですが…。この手のHPや本(探訪日本の城9巻・南海道)の中では、ここが一番沢山、城名が載っていましたが、町名が違っていたり字名が違っていたりして、少々混乱しました。

 
 
追記:2013年10月3日
 
阿波市社会教育課の方にお聞きしたところ…
「自然(じねん)寺」という寺の名称が、土御門上皇関連の文献に見えるそうです。
上皇の遺骸を、その寺に一時安置したとか葬ったとか…。
場所としては、現在はJクラシックゴルフの敷地内ということで、自然寺の跡も、多分今はもうないだろうとのこと。
こんもり盛り上がった山の辺りですから、この寺のことが地元の伝承などとして「城」として伝わった可能性もあるとのことでした。
 
原田城                                                                 
形式:平城
歴史:天正10年落城。城主・原田久左衛門は中富川合戦で敗死
所在地:阿波市土成町吉田字北門 
城主:原田氏 
今の様子と感想:阿波中央橋から国道318号線を北に進み、マルナカ柿原店の交差点をさらに北に進みます。そのまま道なりに進み、御所郵便局を過ぎた次の交差点の細い道を右に入ります。道の南にあるお米屋さんの斜め北向かいの民家の庭に、石碑がありました。家の人にことわって庭に入らせていただき、写真を撮りました。
 立派な御影石の説明書きもあり、それによると「城がなくなったあと、竹やぶになったので、近辺の人が城藪と呼んでいた」と書いてあり、これが土成町史に載っていた地名でした。今は「北門」という地名で、この辺だろうなと見当をつけて行ったのですがなかなか見つからず、薬屋のおばちゃんに訪ねたところ、この近辺に詳しいという商店街の方から、やっと場所を教えていただきました。民家の庭にあるとはね…普通に探しても見つからないよね、これは。
 ちなみに紹介してもらったおじさんは…実は私の妹の、高校時代の同級生のお父様でした(汗)。
 ありがとうございます。来年3月末の「土御門ウオーク」には、きっと、子供たちと参加させてもらいますから!!
 
イメージ 1

↑ホントに民家の庭先に建っている石碑(汗)。おうちの方も慣れたもんで、訪ねていくと快く承諾してくださいました。

 
「土成町史」より引用
 
一、 原田城
 吉田字城藪にあり(注:昔の地名です。現在は土成町吉田字北門)
 古城諸将記に
一、 原田□□ 原田久左衛門、源氏四十貫(或は五十貫とも)、紋五本扇絵松也
一、 同所 高志石近、小笠原氏、紋松皮菱雲龍
一、 同所 野中玄蕃、同紋、同浪人衆
原田城主原田久左右衛門はわずかに四十貫で、後の石高に換算すると大体阿波では普通壱貫を五石とするので約二百石である。高志、野中二氏が部下にあるとも考えられず、元亀三壬申年(1572)正月の奥書がある「故城記」には板西郡分として三家併記してあげてある。
一、 原田殿 柿原 源氏 五本骨扇絵松也
一、 高志殿 小笠原 源氏 松皮ニ雲
一、 野中殿 小笠原 源氏 松皮ニ竹ノ丸
高志殿は五条(吉野町)に城屋敷という地があり(注:五条城の項で書きます)、約三反歩、北門または城の西の地名もあり城跡も残っている。(注:現在はほぼ地名だけです)野中殿の居住地は明らかではない。
 なお「城跡記」には、
  原田城 天正十年落城 吉田邑
  主将原田小内膳 中富川ニテ討死ス。
 とあるが、原田小内膳は、原田系図によれば、久左衛門義景の嫡男で三好長治の御傍小姓を務め天正五年三月二十八日長治が長原(松茂町)で自殺したとき、乱軍中に戦死した。年十八歳。原田久左衛門は、高志右近、野中玄蕃と共に天正十年八月二十八日中富川合戦に、長宗我部元親の軍のために壮烈な戦死をした三好方将七百六十三人の姓名を連ねた中に加わっている。

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