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「ある男の初陣」 その一 この姉川の戦いが初陣となった武将がいた。 その当時は武将ではなく、単なる浅井方の端武者であった。 歳は十五歳である。身体は並みの大人より随分と大きかった。名は与右衛門である。近江国犬上郡在士村の出身であった。 父の旧姓は三井氏で、養子に出されて姓が変わった。母は多賀大社の代官、多賀好氏の娘である。兄の源七朗は、浅井勢に混じって織田勢の伊勢大河内城攻めに陣借りし、その地で討ち死にしている。この時が、この男の伊勢との関わり合いの最初である。 この男は、後に自身の運命を変える二人の武将と、姉川の合戦で敵として相見える事になった。 一人目は木下秀長である。 この男が山口茂左衛門の手勢として、阿閇貞秀に率いられて織田勢の木下隊に突撃した時だ。先陣の磯野員昌隊が、織田勢の坂井隊、池田隊を切り崩したがこの木下隊に前進を阻まれた。その磯野隊に替わる新手として、木下隊に挑みかかった時である。 木下隊の鉄砲による攻撃は凄まじかった。前を駆ける先手の将兵が次々となぎ倒されていく。この男の周囲でも、突然、人形の様に弾き飛ばされる兵が増え始めた。所詮はこの合戦限りの傭兵だ。阿閇貞秀の直属部隊の弾避けにしか過ぎない。 それでも命知らずの集団は前進を止めずに、ついに木下陣に踏み込んだ。長柄の足軽衆が押しに押している。長柄衆の左右では徒歩武者同士の、手槍や太刀を使っての個人戦闘が始まった。その後ろで、何人もの騎馬武者が声を枯らして督戦している。 その男は山口茂左衛門の背中を追いかけ突き進んだ。とにかく、前に進むだけだ。行く手を阻む者が出た時だけ、その連中を追い払う。手槍を突き出した織田兵が、前を走る浅井兵の腹を突き刺した。 その男は長めの太刀を奮って、槍を握ったままの織田兵の腕を、上から叩き斬った。男の進路を織田兵の血飛沫が閉ざした。獣のような悲鳴が起き、それと同時にその男目がけて槍が繰り出された。 男は危ういところで槍をかわすと、その槍を繰り出した織田兵の首を横に払った。思ったよりも遠くへ、その首は声も出さずに飛んで行った。 男の太刀筋の凄さに、辺りの織田兵は逃げ去った。その向こうの騎馬武者と目が会った。その男は知らなかったが、その騎馬武者こそ、木下秀長だった。 その男は、無謀にもその騎馬武者、木下秀長に突進していった。兜は被らず、額に鉢金しか巻いていない。その男の無防備な頭を、秀長はしたたか手槍の石鎚で撃ち付け、そのまま後へと退いて行った。 男はその場で昏倒し、草叢の中に倒れ込んだ。 男が意識を取り戻した時、戦場の様相は一変していた。浅井勢が織田勢に押しまくられ、敗走していた。このまま倒れていたら、織田勢の戦場処理部隊に生死を確認され、そのまま串刺しになってしまう。 「逃げなければ殺される…。」 男の頭に、これまで経験した事の無い、恐怖の感情が押し寄せた。 男は慌てて飛び起きると、太刀を拾い上げ、息の続く限り走った。姉川の中も、手で水をかき分けながら、泳ぐように川底を蹴って走った。 姉川の北岸は、深田が続く。畦道は逃げる浅井兵で混雑している。なるべく浅そうな泥田を選び、足を取られながら前に進んだ。辺りを敵の矢弾が飛び越していく。泥田につんのめって倒れ込んだ味方の背中を踏んで、先へ先へと逃げた。 「合戦とは…こんなに恐ろしいものか。」 男は訳も無く大声で叫びたかった。 声を出す事で恐怖を追い払いたかったが、思うように声が出ない。したたか撃たれた頭頂の痛みも忘れ、男は走り続けた。 前方に野村の集落が見えた。夜明け前、そこには浅井勢の本陣があった。その内の一軒のあばら家に、男は飛び込んだ。藁束の中に潜り込むと、全身を隠した。その中で息を整えた。 ようやく、頭の痛みが感じられるようになった。頭をさすると、大きなたんこぶができていた。ほんの一瞬であったが、騎馬武者の顔を見た。今でもはっきりと覚えている。悪鬼のような形相と思いきや、仏のような穏やかな表情であった。微笑みさえ浮かべていたように思えた。 「あんな凄い騎馬武者のいる木下隊とは…。」 あの騎馬武者の事を思い出してから、何故か恐怖が吹き飛んだ。 「あの騎馬武者に仕えてみたい…。」 男の唐突な想いは、その何年後かに叶う事になる。 が、今は姉川の戦場、野村のあばら家の中だ。間もなく敵兵がこのあばら家も取り囲むはずだ。急いで逃げた方がよいはずなのに、この男は藁束の下に潜り込んだままだ。 西の方から別の敵の一団がやってきた。その一団は、野村の各農家の井戸水で喉を潤すと、すぐに浅井、朝倉勢を追って駆け出して行った。農家に身を潜める敗残兵など、見向きもしない様だ。 男は藁束の中から這い出し、物陰に隠れて外を見た。次から次へと敵勢が、北に進路を変えて味方の敗兵を追って行く。野村の外れのあばら家など、見向きもしない。男は呆然と敵勢を見送っていた。 しばらくすると、周囲を騎馬や徒歩の武者と鉄砲足軽に守られた、大将らしい武将が通りかかった。武者達の旗指し物は三つ葉葵だった。 「と言うことは、あの大将が徳川家康か。厭離穢土欣求浄土の幟旗、間違いない。徳川家康様じゃ。何と堂々とした御姿…。今や三河と遠江の二ヶ国の太守か。仕官するなら、徳川家も良いかも…。」 恐怖を忘れ、この男は己の将来を夢見ていた。 |
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