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奈良、薬師寺の第11回です。
今回で、薬師寺は最終回です。
帰路の梅を中心に撮りました。
では、薬師寺の梅の10連写、いきます。
並木道の左側にあった建物の周囲の梅群です。
長く楽しんでいただいた?薬師寺も終わりました。
次回は京都に戻って、嵐山清凉寺をご紹介します。
お庭が綺麗です。
次回は、明日、4月5日火曜日です。
では、また明日、お会いしましょう。
写真は、これくらいの間隔の方が見やすいかもしれませんね。
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近くの高槻、桜公園の横の山道を、関西大学の校門前へと抜ける、一方通行路があります。
つづら折れの道路の両側には桜並木が続きます。
はっきり言って、桜公園内より、この道路沿いの桜の方が、私は好きです。
今年は朝早く起きて、超短距離ドライブを楽しみがてら、この一方通行路を通ってみました。
関西大学の手前の一方通行路側に入った所に駐車し、少しこの道路を歩いて戻り、桜の写真を撮りました。
その中の10枚を厳選?して紹介します。
以上です。
お気に召しましたか?!
では、この辺で。
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「ある男の初陣」 その一 この姉川の戦いが初陣となった武将がいた。 その当時は武将ではなく、単なる浅井方の端武者であった。 歳は十五歳である。身体は並みの大人より随分と大きかった。名は与右衛門である。近江国犬上郡在士村の出身であった。 父の旧姓は三井氏で、養子に出されて姓が変わった。母は多賀大社の代官、多賀好氏の娘である。兄の源七朗は、浅井勢に混じって織田勢の伊勢大河内城攻めに陣借りし、その地で討ち死にしている。この時が、この男の伊勢との関わり合いの最初である。 この男は、後に自身の運命を変える二人の武将と、姉川の合戦で敵として相見える事になった。 一人目は木下秀長である。 この男が山口茂左衛門の手勢として、阿閇貞秀に率いられて織田勢の木下隊に突撃した時だ。先陣の磯野員昌隊が、織田勢の坂井隊、池田隊を切り崩したがこの木下隊に前進を阻まれた。その磯野隊に替わる新手として、木下隊に挑みかかった時である。 木下隊の鉄砲による攻撃は凄まじかった。前を駆ける先手の将兵が次々となぎ倒されていく。この男の周囲でも、突然、人形の様に弾き飛ばされる兵が増え始めた。所詮はこの合戦限りの傭兵だ。阿閇貞秀の直属部隊の弾避けにしか過ぎない。 それでも命知らずの集団は前進を止めずに、ついに木下陣に踏み込んだ。長柄の足軽衆が押しに押している。長柄衆の左右では徒歩武者同士の、手槍や太刀を使っての個人戦闘が始まった。その後ろで、何人もの騎馬武者が声を枯らして督戦している。 その男は山口茂左衛門の背中を追いかけ突き進んだ。とにかく、前に進むだけだ。行く手を阻む者が出た時だけ、その連中を追い払う。手槍を突き出した織田兵が、前を走る浅井兵の腹を突き刺した。 その男は長めの太刀を奮って、槍を握ったままの織田兵の腕を、上から叩き斬った。男の進路を織田兵の血飛沫が閉ざした。獣のような悲鳴が起き、それと同時にその男目がけて槍が繰り出された。 男は危ういところで槍をかわすと、その槍を繰り出した織田兵の首を横に払った。思ったよりも遠くへ、その首は声も出さずに飛んで行った。 男の太刀筋の凄さに、辺りの織田兵は逃げ去った。その向こうの騎馬武者と目が会った。その男は知らなかったが、その騎馬武者こそ、木下秀長だった。 その男は、無謀にもその騎馬武者、木下秀長に突進していった。兜は被らず、額に鉢金しか巻いていない。その男の無防備な頭を、秀長はしたたか手槍の石鎚で撃ち付け、そのまま後へと退いて行った。 男はその場で昏倒し、草叢の中に倒れ込んだ。 男が意識を取り戻した時、戦場の様相は一変していた。浅井勢が織田勢に押しまくられ、敗走していた。このまま倒れていたら、織田勢の戦場処理部隊に生死を確認され、そのまま串刺しになってしまう。 「逃げなければ殺される…。」 男の頭に、これまで経験した事の無い、恐怖の感情が押し寄せた。 男は慌てて飛び起きると、太刀を拾い上げ、息の続く限り走った。姉川の中も、手で水をかき分けながら、泳ぐように川底を蹴って走った。 姉川の北岸は、深田が続く。畦道は逃げる浅井兵で混雑している。なるべく浅そうな泥田を選び、足を取られながら前に進んだ。辺りを敵の矢弾が飛び越していく。泥田につんのめって倒れ込んだ味方の背中を踏んで、先へ先へと逃げた。 「合戦とは…こんなに恐ろしいものか。」 男は訳も無く大声で叫びたかった。 声を出す事で恐怖を追い払いたかったが、思うように声が出ない。したたか撃たれた頭頂の痛みも忘れ、男は走り続けた。 前方に野村の集落が見えた。夜明け前、そこには浅井勢の本陣があった。その内の一軒のあばら家に、男は飛び込んだ。藁束の中に潜り込むと、全身を隠した。その中で息を整えた。 ようやく、頭の痛みが感じられるようになった。頭をさすると、大きなたんこぶができていた。ほんの一瞬であったが、騎馬武者の顔を見た。今でもはっきりと覚えている。悪鬼のような形相と思いきや、仏のような穏やかな表情であった。微笑みさえ浮かべていたように思えた。 「あんな凄い騎馬武者のいる木下隊とは…。」 あの騎馬武者の事を思い出してから、何故か恐怖が吹き飛んだ。 「あの騎馬武者に仕えてみたい…。」 男の唐突な想いは、その何年後かに叶う事になる。 が、今は姉川の戦場、野村のあばら家の中だ。間もなく敵兵がこのあばら家も取り囲むはずだ。急いで逃げた方がよいはずなのに、この男は藁束の下に潜り込んだままだ。 西の方から別の敵の一団がやってきた。その一団は、野村の各農家の井戸水で喉を潤すと、すぐに浅井、朝倉勢を追って駆け出して行った。農家に身を潜める敗残兵など、見向きもしない様だ。 男は藁束の中から這い出し、物陰に隠れて外を見た。次から次へと敵勢が、北に進路を変えて味方の敗兵を追って行く。野村の外れのあばら家など、見向きもしない。男は呆然と敵勢を見送っていた。 しばらくすると、周囲を騎馬や徒歩の武者と鉄砲足軽に守られた、大将らしい武将が通りかかった。武者達の旗指し物は三つ葉葵だった。 「と言うことは、あの大将が徳川家康か。厭離穢土欣求浄土の幟旗、間違いない。徳川家康様じゃ。何と堂々とした御姿…。今や三河と遠江の二ヶ国の太守か。仕官するなら、徳川家も良いかも…。」 恐怖を忘れ、この男は己の将来を夢見ていた。 |
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奈良、薬師寺の第10回です。
今回も、玄奘三蔵院の内部の風景です。
唐風の雰囲気のある院内です。
では玄奘三蔵院の10連写、いきます。
これで、玄奘三蔵院は終了です。
次回は、帰路の境内の梅の写真が中心になると思います。
次回が、薬師寺の最終回になります。
次回は、4月4日月曜日ですので、お忘れなく、ではでは。
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その九 虎御前山の首実験場で、家康は信長に会った。 徳川勢の奪った朝倉勢の武将達の首級も、信長の面前に差し出された。前波新八郎、前波新太郎、魚住景固、黒坂備中守、真柄直隆、真柄直基、小林瑞周軒などなど…。 信長は終始、上機嫌だった。家康の手を握ると、 「今度の合戦は、徳川勢が朝倉勢を敗走させ、我等織田勢を救援したことで、勝利を得る事が出来た。心底、忝いと思うておりますぞ。武田との合戦の折は、真っ先に我等織田軍が駆けつけますぞ。その節は、何なりとお申し付け下され。」 と、愛想良く話しかけた。 家康も信長に合わせ、親しげに口をきこうとしたが、……出来なかった。 「それでは、武田が我が領地を侵した時には、遠慮なく援兵を乞いまする。その節は、宜しくお願い致します。」 親しき仲にも礼儀ありで、家康はへりくだって答えると、深々と一礼した。 信長の前では、どうしても下手に出てしまう。現在の両者の力関係からすれば、致し方無いことではある。 家康と共に信長と会った酒井忠次には、その家康の態度が歯がゆくて仕方が無かった。 信長は家康に最大限の労いの言葉を並べた後、別れの挨拶を告げた。家康が馬から何度振り返ってみても、信長は家康の方に手を掲げて敬意を表している様に見えた。 「信長様にしては珍しいのう。えらく丁寧な挨拶じゃった。」 忠次が苦々しい顔で家康に応えた。 「殿は人が良過ぎますぞ。もっと恩着せがましく振る舞われても、良かったはずですぞ。今度の合戦は、我等徳川勢がおらなければ、織田勢は敗けておりましたぞ。我等が朝倉勢を突き崩し、浅井勢をも左側背から襲ったからこそ、織田勢は息を吹き返したのです。我等徳川勢は、勝利の代償として三百近い戦死者と、それに倍する手負いの者を出しました。もっと、信長様の前ででんと構え、ふんぞり返っておっても良かったはず…。」 「そうは言うがの、次は我等が織田家の加勢を頼まねばならぬ。」 「武田信玄との戦でござるか…。」 「そうじゃ。信玄は、必ずや京を目指すはず。その通り道に、徳川はある…。」 「それは、信長公とて同じこと。我等と織田家とは一蓮托生。加勢ではなく、織田家も己の生き残りを賭けた戦でござるぞ。」 家康は忠次との会話が無意味に感じられて、答えるのを止めた。 遠からず武田との合戦は起こるはず。避けられない合戦である事は百も承知だ。 宿老の一部には、織田家を見限って武田に味方すべきだと主張する者もいる。その反織田勢力が増大すれば、徳川家を二つに割る程の争いになりかねない。 昨今の現状を考慮すれば、武田家に味方した方が、徳川家が生き残れる確率は高そうである。味方しないまでも、黙って武田勢に領国を通過させ、中立を決め込む事も可能だ。 十年前の家康は、今の武田勢に相当する今川勢に、味方せざるを得なかった。今川義元の上洛の先兵となり、織田領に侵入し、敵前での大高城への兵糧補給を成功させている。その後の田楽狭間の合戦での織田勢の勝利は、信長の一大転機となると同時に、家康にとっても人生初の瑞兆であった。 今川義元の属将として、織田勢を屈服させて京畿の地に入っても、今川家の前途はそれほど明るいものには思えなかった。 日本の各地には有力大名達が割拠しており、今川家程度の領国を支配する大名は幾人もいた。今川義元が将軍に代わって天下に号令したところで、ほとんどの戦国大名は無視するだろう。この戦国の世は何も変わらず、義元は領国が周りの諸大名から侵略されそうだとの報せを受け、慌てて京を逃げるようにして出て行くことになる…。 そんな筋書きしか、家康には見えて来なかった。 「今川や武田より、織田の天下取りの方が理に適っておる…。」 そう、家康は確信を持って己に言い聞かせていた。傍らの忠次には、家康の心中は読めないであろう。 「それで良いのじゃ、忠次。おぬし達は黙ってわしに付いてきてくれればよい。たった一度のわしの人生じゃ。わしは、何があっても、どんな屈辱を受けたとしても、このわし自身が選んだ道を、全ての重荷を背負って歩んで行くだけよ…。」 家康の独り言がぶつぶつと続いた。 隣の忠次が、仏頂面を崩して苦笑した。己の主君がこうなると、もう誰の言葉も耳に入らないことを、嫌というほど心得ているからだ。 「もう、我等では殿の心の内には入れなくなってしもうた。少し寂しくもあるが、殿にはもっともっと大きくなって貰わねば…。」 忠次も主君の癖が移ったのか、ぶつぶつと独り言を始めた。 似た者主従と言うべきか、家康には掛け替えのない家臣であった。 家康の将来への勝算の裏付けは、信長より長くなるはずの寿命だけでは無かった。この気心の知れた、人質時代の苦難を共に生き抜いてきた忠節無比の家臣団であった。 この地の豪族集団の二大巨頭であった酒井と松平の両家と縁続きになった家康の先祖以来、徳川家臣団は紆余曲折の後、三河の地にしっかりと根を張った。 内紛を繰り返した織田氏と違い、松平氏はあくまでも一枚岩であった。 この強固な家臣団こそ、家康の勝算の根拠であり、それは後に徳川幕府二百六十余年の礎となる。 |







