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<10年後の日本、感情の劣化がとまらない・宮台真司>
耳で聞いて、この内容を理解できる聴衆が
日本国民の中で何割いるんだろう、と感じてしまう位に
高度、かつ複数の話題が登場し、
最後に集約されていく、という講義で
文字化されていても、議論の筋を追うのが大変です。
ざっと要約すると、
最近の民主制が、大衆を感情のフックで釣って
大量動員する政治になっている
←『社会はなぜ左と右にわかれるのか』(ジョナサン・ハイト)
ケア・公正・忠誠・権威・神聖という5つの感情のボタンがある
と分析し、オバマ大統領の演説を感情的動員の観点から分析
↓
国民国家、という概念はウェストファリア体制以降の
たかだか200年程度の歴史しかないので、
<見ず知らずからなる我々>という共同体意識は
人為的に維持しないと続かない
↓
真の保守として<社会保守>を紹介し、
これは「その社会のその社会らしさ」を破壊しないように
手立てを動員する立場であるとして、
コミュニタリアン(サンデル教授)の考え方や、
トロッコ問題(感情の越えられない壁が登場する典型)、
ドイツ哲学的人間学(制度が人間の負担を軽減し、自由にする)
を説明
↓
デュルケームが唱えた「社会学の使命」は
「本当はどうとでもあり得るのに、もはや選べないもの」
の前提条件を考察すること、
難しく言うと、「選べない恣意性」の条件の考察である、
という言説の解説
↓
ここ20年間の人文・社会系の最先端が議論してきた論点として、
・人間に豊かな感情表現があるのはなぜか
・文化に依存しない感情の共通焦点(押しボタン)は何か
・文化依存的な感情の押しボタンは何か
・文化普遍的/依存的な感情プログラムをどのように組み込むか
・仮に、この組み込みが今後は持続不可能だとすると
社会はどうなってしまうのか
といった問題であったとして、様々な現代思想家が登場します。
この部分は私の能力をはるかに超えてしまうので、
要約不能です。
ということで、結局、菊池成孔さんが危惧していた
全国民がSNSジャンキー化している、という話と共通する部分だけを
最後に紹介して、この項のまとめ、とします。
曰く、
ネットが「誰にでも開かれている」がゆえに
政治もコミュニティも<感情の劣化>に見舞われることが判明。
そこで、顔が見える小さい共同体を作り、
その共同体の営みはネットからは見えなくする動きが
1980年代以降現れる(スローフード運動や
脱原発に象徴されるエネルギーの共同体自治)。
この<見えないコミュニティ化>が進行すると、
見える部分(=ネット上)はより劣化が進むため、
<見えないコミュニティ>に所属していない人から見ると、
社会の劣化が実際よりも進んでいるように見えてしまい、
ネット上の<劣化空間>はますます何でもあり、
となって劣化が加速し、ますますゲーテッドを高くした
<見えないコミュニティ>が拡がっていく、という
再帰的な循環が発生する。
しかし、<見えないコミュニティ>を増やしていくだけでは、
その<見えない壁>の外に弾かれた人が
壁の内側への怨念を持ってしまい、
その社会的分断は社会の存続を危うくする(テロが起きる)。
そこで、宮台氏は、<見えないコミュニティ化>に関わりつつも、
社会の一体性を持続する<我々>に含まれる人を増やす、
という一見すると矛盾する2つの活動を両立させなければならない、
と主張しています。
正直、この最後の部分は抽象的で
漠然とした理解になってしまいますが、
ゲーテッドコミュニティの中に住む人が
ゲートの外側を全く無視して暮らすことはできない以上、
ゲートを作りつつも、外側の<感情の劣化>を食い止める策も
同時に考えていかなければならない、
といった程度に理解しています。
<戦後日本のナショナリズムと東京オリンピック・大澤真幸>
宮台氏のパートがだいぶ長くなったので、
あとは簡潔に。大澤氏は生活満足度調査で、
「現在の生活に満足していますか?」という質問への回答で
満足度の高さを回答した人の年代別に見ていくと、
1970年代・80年代には、歳をとればとるほど幸せになっていた
(←人生が最終局面に入っているので、これから良いことが
起こるとは思えない。そこで、今が幸せ、つまり自分の人生全体が
それほど悪くはなかった、と感じる。逆に、若い世代は
これからが人生本番なので、幸せは後からやってくる。
つまい、今現在はそれほど満足ではない。不満)
のに対し、2000年代以降は、20代前半の若い世代の
生活満足度が高齢者と同じように上がっていって、
若いときは満足度が高いが、30代〜50代は低い、というグラフになる。
この傾向を、大澤氏は「不可能性の時代」と表現します。
曰く、
若い人がかつての年寄りのように自分の人生を捉えているのは、
この先、まだ何十年も生きるけれども、
今以上にいいことは将来起きそうもない、と思っている。
だから、現段階で満足しているのだ、と。
ここからの講義は、日本社会の将来に対して
かなり悲観的な見方が展開されてしまうので、
この記事では紹介しません。ぜひ本書の203ページ以降、
特に、「2020年―不可能性の時代の特徴」
「タイタニック号と幽霊船」の項を読んでみてください。
最後に、2009年の政権交代と、民主党の失敗
そして自民党の政権復帰、安倍政権を
<不可能><可能>という二軸で整理しています。
曰く、
自民党政治を変えた民衆の意識は
「今まで不可能だと思っていたことが、実は可能ではないか」
という期待に基づくもので、
民主党の失敗によって「不可能なことはやっぱり不可能だ」
と証明してしまったこと。
そして、安倍内閣は真逆で「可能なことだけは可能」
という安全運転であった(アベノミクス第一弾まで)。
ただ、<不可能><可能>の組み合わせがあと一個
残っていて、これから来るのは
「可能だと思ったものも実は不可能なのではないか」
という話で、経済政策(GDP600兆円、出生率1.8、介護離職ゼロ)
に始まり、外交・社会保障など全ての施策目標が
実は達成不可能だ、と国民が感じてしまったら、
そして、その閉塞感から抜け出すために、
もうこの道しかない、という何か危険な選択肢
(戦争を示唆)に走るのではないか、という危惧が述べられています。
<2015年の介護:おひとりさま時代の老い方・死に方・上野千鶴子>
介護保険制度の見直しによって
施設や病院での介護や最期ではなく、在宅介護が基本となった。
しかし、家族は従来の考え方から抜け出せず、
また、在宅介護の負担を逃れるために、
高齢者をすぐに施設に入れようとする。
こう考えると、家族がいることはかえってマイナスになる場合もある。
おひとりさまが安静に自宅で最期を迎えることができるよう
地域包括ケアなど、システムを見直すべき、という提言です。
最後に、かなり毒を吐いていて、
今の団塊世代は持ち家もあるし、それなりの金融資産(現金)
もあるので、制度を作り直すことで、
他の世代に迷惑をかけずに、老後生活を送ることは
ギリギリ可能であるものの
団塊ジュニア世代が同じようにお一人で
安静に最期を迎えられる制度設計は全く分からず、
「2025年問題」は乗り切れるが、「2050年問題」の解決は
本当に知りませんよ、という警告で締められています。
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