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久しぶりに法律関連の話題を。
有斐閣が発刊している判例百選と言えば
全受験生が必ず持っている必携教材です。
その第5版が今年11月上旬に出版される予定であったところ、
第4版の編者(4人)の一人であったのに
第5版からは外されてしまった大渕哲也教授が、
編集著作権の侵害を主張して
出版差止めの仮処分を東京地裁に求めていたそうです。

そして、26日付けで差止めを認める仮処分が下された、
と今日、時事通信が報じました。
有斐閣側は、4人の編者のうち2人だけが実質的に
編集作業に関与しており、
大渕教授には編集著作権は帰属しない、
と主張していたようですが、
(少なくとも仮処分段階では)その主張は退けられたようです。

ちなみに、編集著作権とは、
データベース(構成要素そのものには著作物性がない)
もしくは雑誌・情報誌のように複数の著作物で構成された
全体について、その選択・配列に創作性が認められる場合に
編集した人に認められる著作権、と定義されます。
判例百選の場合、個々の解説部分はその解説者が
著作権を有しますが、百選全体について編者にも独自の権利が認められます。

六法でも、著名な学者が複数名、編者として
名を連ねているものの、実際上、作業をしているのは
この人たちではなく、名前だけ貸している、という状況だと思われ、
編者に名前が掲載されることは教授にとって名誉であり、
それほど多額の金銭を払っているわけでもないのでは、
と部外者ながら思うので、なぜ有斐閣があえて大渕教授を外したのか、
第5版の編集方針で大渕教授と意見が合わなかったのか、
様々な憶測を生みそうです。
たぶん和解で終わると思いますが、万が一、判決まで行くと
百選の編集の内情が判決文に書かれる、という画期的なものとなりそうです。
<10年後の日本、感情の劣化がとまらない・宮台真司>
耳で聞いて、この内容を理解できる聴衆が
日本国民の中で何割いるんだろう、と感じてしまう位に
高度、かつ複数の話題が登場し、
最後に集約されていく、という講義で
文字化されていても、議論の筋を追うのが大変です。

ざっと要約すると、
最近の民主制が、大衆を感情のフックで釣って
大量動員する政治になっている
←『社会はなぜ左と右にわかれるのか』(ジョナサン・ハイト)
 ケア・公正・忠誠・権威・神聖という5つの感情のボタンがある
 と分析し、オバマ大統領の演説を感情的動員の観点から分析
  ↓
国民国家、という概念はウェストファリア体制以降の
たかだか200年程度の歴史しかないので、
<見ず知らずからなる我々>という共同体意識は
人為的に維持しないと続かない
  ↓
真の保守として<社会保守>を紹介し、
これは「その社会のその社会らしさ」を破壊しないように
手立てを動員する立場であるとして、
コミュニタリアン(サンデル教授)の考え方や、
トロッコ問題(感情の越えられない壁が登場する典型)、
ドイツ哲学的人間学(制度が人間の負担を軽減し、自由にする)
を説明
  ↓
デュルケームが唱えた「社会学の使命」は
「本当はどうとでもあり得るのに、もはや選べないもの」
の前提条件を考察すること、
難しく言うと、「選べない恣意性」の条件の考察である、
という言説の解説
  ↓
ここ20年間の人文・社会系の最先端が議論してきた論点として、
・人間に豊かな感情表現があるのはなぜか
・文化に依存しない感情の共通焦点(押しボタン)は何か
・文化依存的な感情の押しボタンは何か
・文化普遍的/依存的な感情プログラムをどのように組み込むか
・仮に、この組み込みが今後は持続不可能だとすると
 社会はどうなってしまうのか
といった問題であったとして、様々な現代思想家が登場します。
この部分は私の能力をはるかに超えてしまうので、
要約不能です。

ということで、結局、菊池成孔さんが危惧していた
全国民がSNSジャンキー化している、という話と共通する部分だけを
最後に紹介して、この項のまとめ、とします。
曰く、
ネットが「誰にでも開かれている」がゆえに
政治もコミュニティも<感情の劣化>に見舞われることが判明。
そこで、顔が見える小さい共同体を作り、
その共同体の営みはネットからは見えなくする動きが
1980年代以降現れる(スローフード運動や
脱原発に象徴されるエネルギーの共同体自治)。
この<見えないコミュニティ化>が進行すると、
見える部分(=ネット上)はより劣化が進むため、
<見えないコミュニティ>に所属していない人から見ると、
社会の劣化が実際よりも進んでいるように見えてしまい、
ネット上の<劣化空間>はますます何でもあり、
となって劣化が加速し、ますますゲーテッドを高くした
<見えないコミュニティ>が拡がっていく、という
再帰的な循環が発生する。
しかし、<見えないコミュニティ>を増やしていくだけでは、
その<見えない壁>の外に弾かれた人が
壁の内側への怨念を持ってしまい、
その社会的分断は社会の存続を危うくする(テロが起きる)。
そこで、宮台氏は、<見えないコミュニティ化>に関わりつつも、
社会の一体性を持続する<我々>に含まれる人を増やす、
という一見すると矛盾する2つの活動を両立させなければならない、
と主張しています。
正直、この最後の部分は抽象的で
漠然とした理解になってしまいますが、
ゲーテッドコミュニティの中に住む人が
ゲートの外側を全く無視して暮らすことはできない以上、
ゲートを作りつつも、外側の<感情の劣化>を食い止める策も
同時に考えていかなければならない、
といった程度に理解しています。

<戦後日本のナショナリズムと東京オリンピック・大澤真幸>
宮台氏のパートがだいぶ長くなったので、
あとは簡潔に。大澤氏は生活満足度調査で、
「現在の生活に満足していますか?」という質問への回答で
満足度の高さを回答した人の年代別に見ていくと、
1970年代・80年代には、歳をとればとるほど幸せになっていた
(←人生が最終局面に入っているので、これから良いことが
 起こるとは思えない。そこで、今が幸せ、つまり自分の人生全体が
 それほど悪くはなかった、と感じる。逆に、若い世代は
 これからが人生本番なので、幸せは後からやってくる。
 つまい、今現在はそれほど満足ではない。不満)
のに対し、2000年代以降は、20代前半の若い世代の
生活満足度が高齢者と同じように上がっていって、
若いときは満足度が高いが、30代〜50代は低い、というグラフになる。
この傾向を、大澤氏は「不可能性の時代」と表現します。
曰く、
若い人がかつての年寄りのように自分の人生を捉えているのは、
この先、まだ何十年も生きるけれども、
今以上にいいことは将来起きそうもない、と思っている。
だから、現段階で満足しているのだ、と。

ここからの講義は、日本社会の将来に対して
かなり悲観的な見方が展開されてしまうので、
この記事では紹介しません。ぜひ本書の203ページ以降、
特に、「2020年―不可能性の時代の特徴」
「タイタニック号と幽霊船」の項を読んでみてください。

最後に、2009年の政権交代と、民主党の失敗
そして自民党の政権復帰、安倍政権を
<不可能><可能>という二軸で整理しています。
曰く、
自民党政治を変えた民衆の意識は
「今まで不可能だと思っていたことが、実は可能ではないか」
という期待に基づくもので、
民主党の失敗によって「不可能なことはやっぱり不可能だ」
と証明してしまったこと。
そして、安倍内閣は真逆で「可能なことだけは可能」
という安全運転であった(アベノミクス第一弾まで)。
ただ、<不可能><可能>の組み合わせがあと一個
残っていて、これから来るのは
「可能だと思ったものも実は不可能なのではないか」
という話で、経済政策(GDP600兆円、出生率1.8、介護離職ゼロ)
に始まり、外交・社会保障など全ての施策目標が
実は達成不可能だ、と国民が感じてしまったら、
そして、その閉塞感から抜け出すために、
もうこの道しかない、という何か危険な選択肢
(戦争を示唆)に走るのではないか、という危惧が述べられています。

<2015年の介護:おひとりさま時代の老い方・死に方・上野千鶴子>
介護保険制度の見直しによって
施設や病院での介護や最期ではなく、在宅介護が基本となった。
しかし、家族は従来の考え方から抜け出せず、
また、在宅介護の負担を逃れるために、
高齢者をすぐに施設に入れようとする。
こう考えると、家族がいることはかえってマイナスになる場合もある。
おひとりさまが安静に自宅で最期を迎えることができるよう
地域包括ケアなど、システムを見直すべき、という提言です。
最後に、かなり毒を吐いていて、
今の団塊世代は持ち家もあるし、それなりの金融資産(現金)
もあるので、制度を作り直すことで、
他の世代に迷惑をかけずに、老後生活を送ることは
ギリギリ可能であるものの
団塊ジュニア世代が同じようにお一人で
安静に最期を迎えられる制度設計は全く分からず、
「2025年問題」は乗り切れるが、「2050年問題」の解決は
本当に知りませんよ、という警告で締められています。
朝日新聞社と集英社の共催で行われた
「本と新聞の大学」の連続講演を収録した新書です。

朝日新聞、ということで、
リベラル・反体制的な内容が多いですが、
魅力的な講師を集めているので、
それぞれ印象に残った部分を書いておきます。

<反知性主義との戦い・佐藤優>
経済の右肩下がりよりも深刻な問題として
「教育の右肩下がり」を指摘。

アメリカの大学の学費が上昇しているように、
日本でも学費が上がっていって、
年間の学費が300万円位になるかも。
(以下、佐藤氏は述べていないが、私の推測として
文科省が進めている人文系の縮小が
国公立だけでなく私立でも進むと、
コストが低い文系であがっている利益での穴埋めができなくなり、
理工系の学費を上げていく方向になるはず。
そして、文系であっても、佐藤氏が述べているように
「グローバル人材の養成」として、一定期間の外国留学や
交換留学を全学生に課すとなると、それだけで
数十万円がかかることになる)
  ↓
親がそれなりの高学歴で1000万円の年収があっても、
手取りは月43万円くらい。
都心に住んでいると、住宅ローン・家賃、生活費が高いので、
子供1人なら何とかなるが、
子供が2人いた場合に、両方とも塾に通わせて、
親と同等の大学に行かせることは無理
=子供世代に、自分が受けた教育よりも低いレベルの
 教育しか受けさせることができない、という右肩下がりに
 明治維新以降、初めて直面する

<高齢化社会と日本の医療・上昌広>
地方ごとの医学部数や医師人数を比較する表を示した上で
医師の偏在の遠因として
明治初期の維新政府の「どこに医学部がある大学を作るか」
の判断が影響している、と指摘。
  ↓
愛知県では、医師が名古屋市に偏在。
これは名古屋がお金を持っているから、という話ではなく。
戊辰戦争時に、尾張藩は真っ先に官軍に寝返ったのに対し、
三河藩は最後まで抵抗したために、
尾張地域には医学部が4つあるのに、三河はゼロ、となった。
他にも、兵庫県では、姫路を本拠地とする酒井家が
最後まで幕府側で戦ったために、播磨地区(中心地が姫路)には
医学部や工学部を持つ総合大学が置かれなかった。

さらに、その後、田中角栄首相が
「一県一医大構想」を掲げて70年代に医学部増設をした際に、
四国にはそれぞれの県で国立の医学部が作られたのに対し、
千葉県は単体で四国全体と同じ人口があったにも
関わらず、すでに千葉大学があったために増設されず、
その後の人口は千葉県が急増、四国は微減、という状況も加味されて、
千葉県VS四国、という対比で見ると、
620万人の県民に医学部1校VS四国388万人で4校の医学部
という極端な不均衡となりました。
もちろん、千葉に住む人は東京の医学部に通うことはできますが、
廃藩置県の際に、西日本では相対的に人口が少ない地域でも
1つの県として独立したことが、
150年以上後にも影響を与え続けている、という話。

地方創生をはじめ、現在でも
県単位で施策が採られることが多いですが、
明治維新に遡って、どの固まりが1つの県となったか、
さらに、県内のどの地域が中心地とされたか
を検証すると、新たな発見が得られるな、と感じました。

<沈みゆく大国アメリカと、日本の未来・堤未果>
オバマケアの問題点を簡潔に説明している点は
参考になりましたが、
彼女の本を何冊か読んでいたので、
特に新たな気付きはなかったです。

Q&Aの中で、大統領選挙においては
テレビCMにかかるお金が莫大で、
企業からの献金が勝負を決めてしまうこと、
また、以前はNGOが主催していた大統領候補の
討論会が今では大企業に買われてしまい、
議題がスポンサーの意向で決められるようになった
(大企業の利益を損ねるテーマはそもそも
討論のテーブルに出てこない)、という話は、
都知事選挙の討論会が、
公示日前に会場型で行ってきたJCの伝統的スタイルから、
公示日後に、マスコミだけを呼んで、ネット配信で
ドワンゴ(@ニコファーレ)で行う形に移行しつつあること
を連想してしまいました。

だいぶ長くなったので、続きは明日の記事にします。
ちなみに、この後の3つは
<10年後の日本、感情の劣化がとまらない・宮台真司>
<戦後日本のナショナリズムと東京オリンピック・大澤正幸>
<2015年の介護:おひとりさま時代の老い方・死に方・上野千鶴子>
という、前半以上に重いテーマとなります。
OAZOの丸善にて、文庫コーナーを探索して
菊地成孔著「時事ネタ嫌い」を購入。

菊地氏が2007年から2010年末(震災前)まで、
講談社の女性誌「フラウ」に連載コラムとして
書いていた「時事ネタ嫌い」が2013年7月に単行本化され、
さらに、今年9月、巻末に書き下ろし(文庫版あとがき)
「その後の時事ネタ嫌い〜SNSってファシズム用だっけ?
逆だっけ?どっちでもいいか」が加わる等、
再編集されて文庫化された、という経緯の本です。

立ち読みで、あとがきを読んで、即、購入しました。
菊地氏曰く、
2011年から2015年夏にかけて起こった事件から
無理やり3つ選ぶとすると
「震災」「SNSの定着」「安倍政権の強硬な動向」となるものの、

「震災」を時事<ネタ>などと称して
エッセイとして語ることは、第二には菊地氏の能力外、
第一にあらゆる人物にとって能力外、
そして、第ゼロとして、「そんなことはまだ誰もやってはいけないこと」
という、至極、真っ当な判断が語れています。

菊地氏があとがきで繰り返し指摘しているのは、
2008年に、Facebook、Twitterともに日本語版が開始され、
同じ年、iPhoneの初号機も発売され、
その2年後、2010年までに、爆発的に普及・定着した
SNSによって、国民が総コメントジャンキー化したことの危険性です。

菊地氏の喩えで、食事と間食の対比、は秀逸です。
曰く、
「食事」は、ある一定時間、食欲を溜めて、
その後、食べて栄養がもたらす活力を溜める、
という繰り返しによって、日々・人生を構造化しているのに対し、
「間食」は、こうした「溜め」と「出し」を液状化させる。

SNSに一日中何かを書いている状態は
一日中、お菓子をダラダラ食べ続けているのと同じで
お腹は空かず、かといって腹も満たされず、
SNS上の表現には重みも責任感も生まれない、といった話。

他にも、

「自分は安全圏にいながらにして、相手の盲点から撃つ」
というテロリズムの原理と快楽をSNSが教育してしまう

「潜伏させる、可視化」「分断させず、繋げる」
といった一見進歩的な発想は、反作用的に
極端な自閉に対する欲求を亢進させる(たかぶらせる)

といった指摘はまさにその通りと感じました。

「あとがき」だけでも購入の価値がある文庫ですし、
本体のエッセイも、だいぶ前の時事ネタであるのに、
デジャブを感じさせ、色々と考えさせられる一冊です。

街・社会→政治→選挙

今日、東京青年会議所と
NPO法人YouthCreate、中野区選挙管理委員会の共催にて
中野区立中野中学校にて
模擬選挙を中学3年生に経験してもらう
授業を行いました。

中身はYouthCreate代表の原田謙介さんに
考えてもらい、全体司会も原田さんにお願いしました。

彼が中3向けに説明したスライドの中で、
「街・社会」を一番外側の円として、
その内側に「政治」を、そして
さらに内側、一番小さい円で「選挙」を図示したものがありました。

ちなみに、「家族」を一番小さい円にして、
次に「地域」を外側で囲むように円にして、
その後、「社会」「国家」が外側の円として登場するモデル
を見たことがあるかもしれません。
これは、子供が自分と他者を峻別する際の
発達モデルとして考えられているものであり、
乳児期は家族との接点だけであったのが、
公園デビューとか保育園とか、段々と地域とも触れ合い、
その後、学校という「社会」で人間関係を作っていく、
という段階を指しているにすぎません。
これを無理やり道徳教育などに応用して、
家族間の愛情や、地域愛・郷土愛を持つことが
愛国心に繋がり、国民の一体感・連帯感を生み出す
考え方は飛躍し過ぎで、要注意です。

さて、原田さんが示した図は、
「政治」が自分たちの生活を離れたところにあるのではなく、
街や社会がどうあるべきかを決めるのが「政治」であり、
民主主義の場合には、「選挙」によって
「政治」を実際に担う人を選ぶことになるが、
それは「政治」の一部に過ぎず、
街・社会の観点からは「選挙」を離れた場所でも
「政治」の一環として、皆で討議して決めていく事柄も多いよ、
という話です。

このスライドの後、今回の模擬選挙の例である
<公園整備のために750万円の予算があって、
 その予算の使い道について3人の候補者・考えから
 1つを選んでもらう>の紹介に移りました。

①親子で楽しむことができる公園(芝生や樹木、テーブル付きベンチを整備)、
②夜までスポーツができる公園(ナイター設備付きのグラウンドを整備)、
③防災に強い公園(太陽光発電の照明、防災トイレ、飲料などの備蓄)
という3つの案で、
中学3年生であれば②が多くなるかな、という
事前予想を持っていましたが、
5限に行ったクラスでは③が、
6限の方では②がそれぞれ最多票でした。

①を発表した候補者役は一番若い女性で、
中3の、特に女子生徒の支持を集めるのでは、
という予想もあったのですが、
中3だと、すでに家族で公園に行くシチュエーションが
想像できなくなっていて、
30年の間には7割以上の確率で来ると言われている震災か、
身近に利益が実感できるスポーツか、
いずれかに分かれました。

最後の締めとして、原田さんからは

1.同じ学校に通う3年生、という比較的同質なグループですら
 3つの案で票が分かれることを実感してもらい、
2.その上で、実際に公園整備を決める際には
 周辺住民、子育て世代、高齢者など
 中学生とは全く異なる利害を持った人も登場してくること、
3.そういった多様な意見を調整していくのが「政治」であり、
4.さらに、「選挙」では、1つの公園整備という単一論点ではないこと、
 例えば、中野区の予算だけを考えても年間1300億円
 (実際には、義務的経費も多いので、議会等で自由に決めることが
 出来る金額はこの2割程度だが)もあり、
 様々な政策のパッケージから選んでいくので、
 誰に投票すればよいか悩むと思うが、それでも投票はして欲しいこと

等をメッセージとして伝え、
3年後(区長選)ないし4年後(統一地方選で区議選)で
投票権を得ることになる中3に対し、
だいぶ先ではあるものの、3、4年後、何かのきっかけで
思い出して、投票に行って欲しい、という想いで行った授業でした。

先日(16日)、東京JCの例会で、
ショーン・K氏の講演を聞く機会がありました。
この例会では、来年から投票権年齢が18歳になること
を踏まえて、18歳、19歳に選挙へ行ってもらうための説得として
以下のように、政策を商品、有権者を消費者に対応させて
説明していました。
曰く、候補者が当選するには、自分の政策(商品)を
より多くの有権者(消費者)に認めて(買って)もらう必要がある。
ある選挙区で、60歳以上が100人、20代・30代も100人いるが、
20代・30代はそもそも投票に来ないので、
実際に消費者としてカウントできるのは30人しかいない。
他方、60歳以上は70人が買いに来てくれる。
この状況を放置すれば、高齢者寄りの政策が出来上がるのは必然であり、
今回、18歳・19歳の投票権が認められて
新たな消費者が市場に出てきたのだから、
この人たちが投票に行って、若い人向けの商品作りに
目を向けさせることが必要であり、その意味で、
20代・30代は18歳・19歳の投票率を上げることについて
利益を共にするのだ、という話でした。

この話は分かりやすいのですが、
小選挙区での選挙戦術の話まで踏み込んでくれると
無党派・浮動票の存在がいかに重要か、
がより説得的になったと思います。
以前(だいぶ前)の記事でも書いた覚えがありますが、
そもそも、小選挙区の場合、
立候補者は無制限に多くの票を得ようとするのではなく、
ここまで獲得すれば当選できるだろう、
という票数を狙いに行きます。
下手に、多方面に約束をして票をもらってしまうと
当選後に、自身の議員活動に制約が生じるからです。

有権者を細切れに分析し、
自己の政策・スタンスに近い層(後援会等)から
スタートして、支持層を順に積み上げて、
当選に必要な最低ギリギリの票数を
得ようとするのが、合理的な戦術となります。
もちろん、実際にはギリギリでは怖いので、
そこから「ある程度」積み上げるために、
いつもの支持者層以外にも目を向けていくわけですが、
ここで、前回の選挙よりも
浮動票が多くなる、という予想があれば、
上記のセグメント戦術が通用しなくなる危険性が高まるので、
多くの利害を調整できるよう奔走することになります。

つまり、18歳・19歳投票権が上がるという予想を広めることができれば、
選挙活動は活発になり、結果、若い人の関心も高まり、
本当に投票率が上がる、という「予言の自己成就」となります。

先ほどの商品・消費者の例えに加えて、
小選挙区における選挙戦術(中選挙区でもある程度は妥当)
の話を加えると、効果が増すと思います。
来年18歳になる方が身近にいる場合には、ぜひ使ってみて下さい。

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