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尖閣諸島の地主さんの証言から史実を検証する。
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[ 高砂のPCB汚泥の盛立地浄化 ]
2012/9/18(火) 午後 10:34
1900年5月に古賀辰四郎氏は永康丸をチャーターし、宮島幹之助理学士(北里研究所技師を経て慶応大学医学部教授)に頼んで久場島(黄尾嶼)の調査をしてもらうことにした。
沖縄師範学校教論黒岩恒氏(1892年に沖縄に赴任)は校長の命令で同行し、また野村道安八重山島司も一緒に行った。
この『地学雑誌』に出てくる「余」とは、文章を書いている黒岩恒氏のことである。
宮島理学士が黄尾嶼で調査をしているあいだに黒岩氏は、永康丸を魚釣島に向け、5月12日午後4時、古賀辰四郎、野村道安氏とともに釣魚嶼に上陸した。
古賀氏と野村氏はちょっと上陸しただけで船にもどり、二日後に迎えにくるからといって黄尾嶼に帰った。黒岩氏の釣魚嶼の探検記事には、「教導(伊沢氏)一名、人夫三名」をもって探検隊を組織したとある。教導とは案内役のことである。
この伊沢氏というのは伊沢弥喜太氏である。弥喜太氏は釣魚嶼のことを知っていた。
「午後尾滝谷に着す、此地古賀氏の設けたる小舎一、二あり、屋背屋壁皆蒲葵葉を用い」と黒岩氏は書いる。
尖閣諸島の地主さんの証言から史実を検証する。
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[ アジアや世界の歴史や環境を学ぶ ]
2012/9/18(火) 午後 7:55
明治4年(1871)、明治政府は廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島県の管轄とする。それまで琉球は慶長14年(1609)幕府の認可を受けた薩摩の3000の軍勢により占領され、以降実質的に薩摩(日本)の支配下に置かれた。
併しその一方で薩摩は対外貿易による利益を欲したため、表面上は琉球の支那に対する朝貢を黙認した。
朝貢 するということは属国ということである。つまり琉球は二重に属国となったのである。
支那(明と清)に470年ほど、日本に263年である。
併し乍ら、中国の嶼と同様にそのどこにもこれらの島が支那の領土であるとは書いていない。
そしてその主権が及ん だ形跡もない。册封船の目標物に過ぎない。発見した、書物に書いてある、それだけで領有権を主張できるものではない。
そのことは既に18世紀には決められていた。明治の日本がそれを知っているのは当然である。だから調査して「釣魚嶼」、「黄尾嶼」、「赤尾嶼」に当たることは確認した上で、国際公法に照らしていかなる国の領土にも属しない、支那の主権も及んでいないことを確認した上で国際的な手続きを経て日本の領土に編入したのである。
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[ 高砂のPCB汚泥の盛立地浄化 ]
2012/9/17(月) 午後 8:42
田母神俊雄ブログより
2012-08-26
尖閣諸島訪問記
平成24年8月18、19日の2日間で、尖閣諸島領海内で集団漁業活動を実施した。目的は漁業活動とともに、大東亜戦争尖閣諸島戦時遭難事件の慰霊祭を行うことであった。
本活動は、日本の領土を守るため行動する議員連盟(領土議連)、領土を守る地方議員の会、頑張れ日本!全国行動委員会 (以下、頑張れ日本)の協同主催で行われたものである。
領土議連からは山谷えり子会長、新藤義孝、向山好一、長尾敬議員など8名が参加された。地方議員の会からは、会長である都議会の小磯明議員、東京都の松浦芳子杉並区議、小坂英二荒川区議、茨城県取手市の小嶋吉浩市議など16名が参加された。
頑張れ日本からは、田母神、水島幹事長など10名ほどが参加した。その他公式サイトで募集した一般参加者100名弱の総勢150名、21隻の洋上慰霊祭であった。
尖閣諸島の地主さんの証言から史実を検証する。
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[ 環境歴史観光防災カメラマン ]
2012/9/3(月) 午後 10:54
かつて尖閣諸島には私達日本人の祖先が住んでいました。他国の者が尖閣諸島で生活したことはありません。
多い時には200名ほどが魚釣島の鰹節工場で働き、久場島でアホウドリなどの海鳥を捕獲していました。
今も魚釣島にはその工場 の跡地があり、多くの写真に記録されています。
魚釣島地名入り地図 は、黒岩恒氏が作成したものてす。
黒岩恒氏は沖縄県師範学校教諭。
明洽33(1900)年5月に、沖縄県那覇区在住古賀辰四郎氏は、その借区たる無入島へ向け、 汽船大阪商船会社汽船永康丸を派遣した。その時調査に従事したのが、沖縄師範学校教諭:黒岩恒と理学博士宮島岩之助
奈良原岳の奈良原は当時の第8代沖縄県知事奈良原繁の名前をとったもの。
道案渓(どうあんたに)は探険に同行した八重山島司・野村道安氏の名前からとったもの。
尖閣諸島の地主さんの証言から史実を検証する。
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[ 中国韓国の原発リスク ]
2012/8/19(日) 午前 9:14
古賀 辰四郎は尖閣諸島の開拓者である。
1856年(安政3年) - 福岡県八女郡山内村に生まれる。実家は、茶の栽培と販売を行う農家であった。
1879年(明治12年) - 24歳で那覇に渡り、寄留商人として茶と海産物業の古賀商店を開業。
1884年(明治17年) - 尖閣諸島八島のうち魚釣島、久場島、南小島、北小島の四島を明治政府から30年間無料で借受け、家屋建設や船着場設置などの開拓事業に従事。
1909年(明治42年) - 養殖興業の功績を認められ藍綬褒章を受ける。
1918年(大正7年) - 死去する。
古賀辰四郎は明治30(1879)年、沖縄県庁に開拓の目的をもって無人島借区を願い出て30年間無償借
地の許可をとると、翌明治31年には大阪商船の須磨丸を久場島に寄航させて移住労働者28名を送り込むことに成功し、さらに明治32年には大阪商船の永康丸で男子13名、女子9名を送り込んだ。
この年の 久場島在留者は23名となり古賀村なる一村を形作るまでになった。
基地外と無法国家に囲まれた日本
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[ 環境歴史観光防災カメラマン ]
2012/8/14(火) 午後 1:30
古代から現代に至るまで、朝鮮は中国の圧倒的に大きな影響を受け続けてきた。
政治的には、朝貢冊封関係を続け、元号も中国の元号を使っていた。
そこから脱するのは、日清戦争で日本の勝利による。
朝鮮は長い間朝鮮語を表す独自の文字を持たず、15世紀にようやくハングルを作った後も、漢文を正式とし、ハングルは下等なものとされ続けた。日本統治時代になってハングルの辞書や正書法が作られ普及した。
そもそも、朝鮮の歴史は、中国の植民地として始まった。
大韓民国では、檀君王倹が紀元前2333年に檀君朝鮮を建てたと称しているが、これは13世紀末に一然が書いた『三国遺事』に初めて現れる神話に過ぎない。
燕 (春秋)の将軍だった衛満が、衛氏朝鮮を建てるが、漢に滅ぼされ漢四郡が置かれる。
高句麗が興るが、これを中国の地方政権とするか、朝鮮の歴史に含めるかについては議論がある。
公孫氏 (遼東)が朝鮮を支配し帯方郡を置くが、その後、楽浪郡と帯方郡は魏 (三国)から西晋に引き継がれる。
また、朝鮮半島東南部の辰韓は秦からの移民ともいわれる。


