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神は我が身の内に宿る

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 御来訪感謝申し上げます。
 昨日の記事「日本の精神の原点は“道”」を上梓させていただきましたが、引用に使用しました松木天村先生の卓話には転載した本論の根底を為す前段がありました。本来はその前段部から始めて本論に行かなければならないのですが、文字数制限の関係上、省略いたしましたが、前段部分も非常に分かり易く「日本人の本質」について語っておられますので、“週末霊性特集”(!?)のしめとして紹介させていただきます。

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      ----天之御中主神(あまのみなかぬし)とは----
 万物の霊長という、霊肉一如という、こういうふうに“霊”ということを言っておりますけれども、そんなものは言うだけで、あってもなくてもいいように思っております。そうじゃないのであります。霊が元なのであります。魂が元なんであります。魂があって生まれてきて、今日の肉体を形成したのであります。脳細胞も何もかも肉体的なものは胡散霧消致しましても、本当の自分である魂は天に帰るのであります。
 ところがその魂が、生前において磨かれてない、そのまま放ったらかしておいた。つまり因縁を積んで、所謂スモッグの中にうずくまっていた霊は、天に帰れません。途中でうろうろしている。それだから供養して霊を慰めるのであります。本当はそれではいけないのでありまして、我々が生きている時にこの魂の存在を承認しなければならない。承認して、それを磨くということが必要なんであります。
 魂の本質は神そのものであります。古事記では高天原に成りました神の御名は天之御中主神、次の成りました神は高御産巣日神(たかみむすび)、次に神御産巣日神(かみむすび)、その次に成りました神は宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじ)、次に天之常立神(あめのとこたち)。この五柱の神は別天(ことあま)つ神。
 次に十柱の神になりますね。それから伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の神が生まれて、天照大御神(あまてらすおおみ)とこういう順序になっております。伊邪那岐・伊邪那美の命(みこと)から後は人間の問題であります。夫婦のありかたを教えたものであります。
 そこで高天原に成りました天之御中主神というのは神道では天津神の最高神として崇高致しておる神であります。人間は天津神、国津神、諸々の神を拝んでおりますが、そういう神々は今世紀まで、人間の為に能(はたら)いて下さったんであります。
 それはどういうわけかと申しますと、神と人間、天と人間との関係は丁度人間社会と同じであります。我々が生まれて間もない時に母の乳房にすがっておりますね。また幼稚園になったら幼稚園の先生に教わる、中学に行けば中学の先生に、大学に行けば大学の先生というように教え導かれております。
 それと同じように、人間の知性のまだ蒙昧な時代は幼稚園であります。それは国津神という低い神様によって導かれるのであります。高等学校、大学になりますと知性が相当出来てきますから、八百万の神、天津神が指導に当たります。
 しかし、今日我々は知性におきましては、大学の教授以上になりました。教えられた天津神の先生より、もっとえらくなった。大学院に入らなくてはなりません。そういう時代が来ました。そういたしますと、天津神、国津神の信仰、それを拝んでおったのでは間に合いませんのです。今日以後は我々は天に直結しなければいかんという非常に進化した時代が参ったのであります。
 しかしながら、神仏を拝まなくてもいいと言うのじゃございません、人類の未発達の時代、過去において我々人類が幼稚園の時代、中学校、高等学校、大学の時代にいろいろお世話になった神仏でありますが故に、そういう神仏には“有り難うございます”というお礼を申し上げることは当然なんでありますが、いつまでも既成宗教、あるいは新興宗教の神を拝んでおっては、どうにもこうにもならない、という時代が来ました。もっと高い時代に行かなきゃならんのであります。
 ところで、最高神の天之御中主神とは何かということであります。古事記もやっぱり漢字で書いてございます。これも日本人の本当の言葉を残したものでありますが故に、漢字に引っ掛かっては古事記の理解は出来ません。「天之」ということは形容であります。「神」ということも形容でありますよ。そうすると「中」だけ採ったらいいんです。天之御中主神の「天之」をとりまして、「神」をとりますと、まさに「御中主」となります。
 御中主とは何か。“高天原に成ります”という、そういう「原」ではございません。「高天」という敬語をつけ、なお「原」を書いてあるから分かりません。それを腹部の「腹」と書いたら分かるんであります。
 我の腹に宿ったものは、高天原のいわゆる天津神の最高神であるところの天之御中主神なんであります。

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 「我の腹に宿ったもの」とは「ヘソ」に宿ったものを指しています。我々人間はヘソを通じて天とつながっているということです。
 これが松木先生のいう「ヘソ学序論」の核心であります。我々人間は胎内に居る時は「ヘソ」から親の栄養素をもらってすくすくと育ちますが、栄養素だけでなく、親・先祖からの様々な遺伝子や情報、性質すべてを受け継いでいます。
 つまり、ヘソは先祖との結びつきの総合窓口であり、ヘソを通じて代々遡って行けば、天に通じるということであります。
 武士が切腹をするということは、自分の身の不祥事を代々の因縁と捉え、自分の代でその忌々しい因縁の連鎖を断ち切るために、腹(ヘソ)を掻っ捌いたという意味があるのだということを教えられたことがあります。
 腹を割って話そう、腹の底から言っているのか、アイツの腹は見えない、腹黒いヤツだ、等々、「腹」にまつわる話はたくさんありますが、それらも極めて日本的な言い回しであることを思えば、日本人は、頭=人間の知恵ではなく、腹(ヘソ)=天からの知恵、を至高の基準として我が身を御して来たのではないでしょうか。
 靖国神社の「みたままつり」が魂の慰めなのです。英霊のおなかに宿っていた「御霊=みたま=魂」を鎮魂する行事を行うゆえんがそこにあるのです。
 「お天道様が見ているぞ」という戒めの言葉がありますが、「お天道様」が我が身(ヘソ)に存在しているのですから、常に身のうちにあるお天道様から見られている自分を意識しつつ、日本人は身を律し、天の意志に報いるべく、それぞれの立場で精進して来たことが今日の、世界からも圧倒的な支持と信頼を受ける国を築いて来られたのではないかと感じるのです。
 以前、ある先輩に「お伊勢様の御神体が何か分かるか?」と訊かれたことがあります。
 当然、無知蒙昧かつ信仰心も持たない不肖敬天愛人は知る由もありません。「伊勢神宮の御神体は鏡だ。つまり、神様のお姿は?と訊ねると『それは鏡に写ったお前自身の姿だ!』ということだ、と教えられました。
 その意味の深層をなかなか理解できず悩んだ時期がありましたが、神は自らに宿っているという日本人の絶対真理を教えられた時、ようやく合点が行きました。と同時に日本人に生まれたことの至上の徳と、だからこその(世界に比類の無い日本人しか持ち得ない)道徳心の真髄を得心した思いに駆られました。
 これがまさに「日本人のアイデンティティーであり、つまり『根っ子』である」と確信します。
 
 こんなふうに、人類の真理を自然発生的に身につけている日本人こそ、世界最高の徳をいただいているのではないでしょうか。
 
 惜しむらくは我々の日本社会は、上に行けば行くほど、和魂を失い洋才(シナ・朝鮮も含む、神を冒涜する)に冒されていることであります。


 日本人は、神は我が身に宿っているのです!!
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