そうあん

植物を栽培しながら、気ままな毎日

全体表示

[ リスト ]

イメージ 1

思い出の数々        
 
我が家は、男ばかりの二人きょうだいだった。

義弟は、昭和十六年に結婚して、男の子に恵まれ喜んだのも束の間の、

一ヵ月後に朝鮮龍山に入隊、二度目の応招だった。

其の後の行方が分からなかったが、

公報がはいって東部ニュウギニヤ スブグンで、戦死している事が分かったのが、

昭和二十年もあきの末の頃だった。
 
わたしには、三人の子供があり、末っ子は、

時品を出帆する際、投稿したらしい一葉の簡単な葉書に、

男なれば「健雄」と名づけよ、と書かれていた。

二十日余りして男の子がうまれた。時代は、食料難の声が高く、

増産増産で質より量の時代だった。
 
主人は、招集令状をを受け取ってから、出発までいくらも無い時間を割いて、

「供出量が不足しては困るだろう」と、施肥して回った。

その其の年は、気候の不順な年で 麦の生育が遅れ、田植えの時期を延ばしたほどだったが、

我が家は、大勢の奉仕を受けながら、二十俵、今の一二〇〇キロの供出は大変だった。
 
主人も気にかかっていたらしく、初めてジャワから届いてきた軍事便に、

麦の収穫のたいへんだったことをかいていた。
 
『三人の 子の母忙し 麦の秋』と、記されていて、慰められた。

三人目の子の顔を,見ずに出て行った主人に、

せめて写真でもと思っても、ままならぬ時代、子供の足の裏に墨汁をつけ、

足型を取って送った。健在であるしるしだった。「子供の足拝見せり」、と便りが届いてきた。
 
其の後、ようやく写真を撮ることが出来て送ったのが、昭和二十年も五月頃だった。
 
其のとき主人は、すでに、戦死して三ヶ月も経っていたのである。

あの写真は、どうなったんだろうと、そんなことを思ってみることがある。

影膳を据えて、武運を祈っていた人間の気力をはかなむ一刻は悲しい。
 
主人の実母は、大正七年のスペインかぜの大流行で失い、

姑は、後添えに来た人だった。

何時の便りにも、姑への心遣いは、忘れず書かれていた。

義母もまたよく出来た人だった。
 
主人は、県立三田農林学校。弟は、県立神戸工業学校を卒業していた。

当時の百姓は貧しかった中から、珍しく学資を貢ぎながら、

戦争の思いがけない渦中に、巻き込まれて逝かせてしまった両親の、

晩年は、寂しい晩年だった。
 
父は、街の方を眺めていた。

母は、毎年連隊旗花が咲けば泣けてくると、言いつづけ

八十二歳まで生きて、迷惑をかけず、逝かれてしまった。

閉じる コメント(2)

顔アイコン

お母様は御苦労されましたね。
二度と戦争はいやですね。
阪神淡路大震災の記事も読ませていただきました。
ハーブを楽しみ、義妹さんと仲良く温泉にゆかれるお幸せを、
本当によかった・・と思いました。

2008/10/10(金) 午後 11:15 cam*m*lero*emar** 返信する

顔アイコン

camomileさん、拙い文をたくさん見ていただいたんですね
有難う御座います。

2008/10/11(土) 午前 5:56 rosemary 返信する

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

開く トラックバック(3)


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事