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蕎麦の花 三宅慎也の森林通信 「植物たちの幸福論」
自然と共生するということ
昨日、青野ヶ原周辺の調査に出かけた。子供の頃。青野ヶ原の兵陵地を越えると、
道を横切るキツネの目がよく光り恐ろしかった。兄は、8歳、私は、5歳であった。
このやせ山は、40年以上たった今もさほど変化していない。
父は、自分の子供の頃のことを私たちによく話して聞かせてくれた。
それはまるで物語を聞いているように思えるものだった。
「どうしてだろう。」といつも考える。
ここに知人の祖母からの手紙を紹介してみよう。
蕎麦の思い出
私がふる里で育ったのは、大正から昭和改元のころだった。
デカンショ節と牡丹鍋で広く知られている。
有名な丹波篠山から少し離れた処で田の少ない
山林と茶畑の多い地形である。
その頃、7月の末頃に2番茶の終わった茶畑に、よく蕎麦が播かれていた。
蕎麦の種蒔きは、立春から数えて190日から200日頃が適期だと、
父母からきいている。お盆の仏まつりの行事が終わるとすぐ、
父や母は畑に出て、蕎麦を播く準備に忙しそうに働いていた。
蕎麦は生育の早い植物である。
お盆過ぎてから播いた蕎麦は、旧暦9月15日の名月頃には、
もう白い花を一面に咲かせている。
月に浮く蕎麦の花盛りは美しい夜景である。蕎麦の花が終わり、
実が入り始めると、猪がそれをねらって山からおりてくる。
山裾に長い「猪 ( しし )がき」を作ったり、鳴子や火づとを木の枝から吊して、
収穫が終わるまで家族が交代で、徹夜の猪( しし)番をしていた。
電灯も無い頃は、闇の流れる音さえ聞こえるほどだった。秋の夜は長くて、猪蕃にはおやつが欲しくなる、猪番のおやつは、いつでも柿や栗、さつまいもなどを食べていた。
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母の記録 戦争未亡人を生きて
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ビルマ戦線で夫を亡くした母の手記
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