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旧三田女学校の教頭先生の、児玉尊臣と親交の機会に恵まれて、 2・3回添削していただいた事がありました。 丹羽路をはるばる訪えば 老い母は ソバをもむ脊の丸くなりたり 若かりし母と通いし水車小屋 谷の陽陰に今もめぐりぬ 不幸にあえば、里の母がこいしくて 母の歌もよく読みました。 児玉先生は伊勢の神宮館で学ばれ、台湾で永く神職をつとめられていましたが、 早くより歌集など、出版されて短歌に秀でられた方でした。 或る時、児玉先生より「兵庫知事、坂本勝氏が、有馬郡へ見え郡内を視察されて、 夜、心月院に同好会が相集い、知事を囲んで歓迎の短歌会を催しますので、 出席をお待ちいたします」との文面が届いてきました。 其の頃は、まだ町村合併施行直前の、昭和30年5月23日で、有馬郡でした。 何の資格もない農婦の私が、そんな場に出る事をためらいながら、 是非出席してみたい気持ちも入り交じって・当日になってもまだ決心が付き兼ねて迷っていました。 ところが当日の午後になって、大きな雷の鳴る夕立があって、 晴れ上がった空に双子虹が立ち美しい夕方でした。 刈り取る直前の稲穂が、黄金色に熟れて、 雨あとの風が誘ってくる香に急かされるように決心して、 自作二首を持って家を出て行きました。 御殿橋(おとのはし)を渡り、天神の丘を越えて心月院へと、足早に走りました。 心月院は、水軍を追われて、三田三万六千石の城主、九鬼家一族をおまつりする菩提寺 として名の知られている大きなお寺です。 私などに声を掛ける人もなく、 心細くて山門の辺りを二〜三回往き復していたが、もう帰らうと思って引き返しながら、 又折角ここまで来たのだからと決心して、 大広間に上がってゆき、敷居際の隅っこに小さくなって座っていました。 阪本勝知事は小柄な方で、細面に眼鏡をかけ、 見るからに気さくな方で、短歌会にはノウネクタイで臨んでおられました。 愈々互選に入り、知事選は、五首の中へ私の歌も選ばれているのに驚きました。 最後に知事は、声高々と私の歌を朗吟してくださいまして、 思わぬよろこびに身の置きどころもなく、なす術も失ってしまうほどの喜びでした。 賞品として 【 多 情 仏 心 】 の直筆を頂きました。 今でも少し色煤けていますが、大事の保管しています。其の時の私の作品は はるばると丹波路訪へば老い母は 桑の実うるる 山畑打ちおり 翌日の新聞に、「知事も苦吟」と題して、知事と短歌会場が出ており、 私の作品も発表されて、更に喜びを大きくしたのでした。 ルドベキア |
短歌の道すがら
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「太平洋戦争で出征して帰らぬ夫を待ちながら」
今入院中の母の記録を 原文そのままの仮名使い書いています。
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短歌の道すがら 遠く赤道を越えてい征ってしまった主人より、家族への憧れを行間に秘めた、 軍事便に短歌や俳句を、したためて届いてきました。 私も我が家の様子を、子供の事や四季等を、唯31文字に過ぎない短歌に託して、 少しでも異郷の主人の慰めにでもなればと思って書いていました。 併し主人との文通も、2年を待たずに消息を途絶えてしまいました。 そして終には公報が入り、待てど暮らせど帰らぬ悲しみを苦しみも、 短歌に綴ってメモ帳に記したり、時には、新聞に投稿して、 たまゆら選ばれて活字に変わってくる自分の短歌に、よろこび、慰めながら働いていました。 産まれくる 子にと夫の買いおきし 毛糸のあせて 今も還らず 復員船着く知らせにもあきらて ヤギの背撫でつつ夫を偲びぬ 等が新聞に載せて貰った最初の歌なのです |
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短歌の道すがら 遠く赤道を越えてい征ってしまった主人より、家族への憧れを行間に秘めた、 軍事便に短歌や俳句を、したためて届いてきました。 私も我が家の様子を、子供の事や四季等を、唯31文字に過ぎない短歌に託して、 少しでも異郷の主人の慰めにでもなればと思って書いていました。 併し主人との文通も、2年を待たずに消息を途絶えてしまいました。 そして終には公報が入り、待てど暮らせど帰らぬ悲しみを苦しみも、 短歌に綴ってメモ帳に記したり、時には、新聞に投稿して、 たまゆら選ばれて活字に変わってくる自分の短歌に、よろこび、慰めながら働いていました。 産まれくる 子にと夫の買いおきし 毛糸のあせて 今も還らず 復員船着く知らせにもあきらて ヤギの背撫でつつ夫を偲びぬ 等が新聞に載せて貰った最初の歌なのです |
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