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比叡山延暦寺

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一隅を照らす此れ即ち国宝なり

京都府と滋賀県の境にある天台仏教の聖地

比叡山延暦寺は奈良時代末期 伝憎導大師最澄により開かれました。

延暦寺は平安京の北東にあり鬼門に位置することから

都を守る道場として、伽藍が整えられました。

総本堂の根本中堂は、最澄が最初に庵を結んだところに建てられました。

戦国時代延暦寺は織田信長の焼け打ちで、伽藍のほとんどは失いましたが




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根本中堂  
全体が移せる場所は、ここなのだそうです。

現代の建物は、徳川三代将軍 家光の命によって再建されました。
根本中堂は間口およそ37メートル 高さ24メートルあまりあります。
内陣の逗子には、本尊薬師如来が祀られています。
秘仏の本尊の前には、延暦寺開創から
1200年間「不滅の法灯」が消えることなく輝いています。
信長の焼けうちにあったとき法灯は、分灯され。
立石寺(りっしゃくじ・山形県の)で灯し続けられていたのです。
それを元の延暦寺に再分灯しましたので、
法灯は1200年も灯し続けられているってことです。
“一隅を照らす” と言う最澄の心を受け継いだきよらかな光です。  

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不滅の法灯お守り
(カードになっていました
)

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根本中堂の正面入口

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  根本中堂の西に位置する大講堂は、
        
           経典の講義などが行われた。学問修行の道場。
      現在の建物は、昭和31年大津市坂本から賛仏堂を移築したもので

           内陣に祀られた諸物も新しく作られました。


         延暦寺は仏教教学の中心地で新しい宗派の開祖 
     法然、親鸞、栄西、道元、日蓮などもここで修業を始めたのです。

       多くの僧を送り出した。日本仏教のふるさとなのです。


お参りする機会がなく なかなか行けなかった延暦寺に行ってきました。
少しずつ歴史に興味を持ち始めた私にとって 感動の一日でした。
一隅を照らすこれすなわち国宝なり 一隅を照らすことが出来る人に なれたらいいな
大切に持って帰りました。








京都 法然院

萬無教寺 (法然院)
  
京都哲学の道から東山の山あい少し行くと萬夢教寺がある
入口には臭いの強いもの辛いもの酒、肉を持ち込んではならないと
戒律が書かれていて静かななかに緊張感が走る。
 
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浄土宗開祖法然上人が弟子と共に念仏三昧の庵をむすばれた寺 
 
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山門を入ると白砂檀があり 
ここを通ると 自然との一体感と無心の境地に入る
 
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人々は美しい四季の中に自らを写し往生極楽を願ったと言う
 
 
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奈良の大仏さん

“金剛力士像”
高さ約8mの巨像です。

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中門 
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大仏殿

2度の消失に合い、最初たてられたものの3分の2ぐらいですが、木造建築として世界で1番大きい建築。
大きさ  奥行き  50.48m  高さ  48.74m     間口   57.01m                
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大仏さん
毘盧遮那仏(釈迦如来の別名で、世界を照らす仏の意味)
大きさ 像高  14.98m   頭部  5.41m     目長  1.02m    耳長   2.54m     台座高  3.05m

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よく整備された芝生 一寸の乱れも無い
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華厳宗の本山東大寺は、明冶以前は、八つの宗派が存在しました。

日本に佛教が伝わったのは、6世紀の半ばでそれから200年聖武天皇が741年に全国に

国分寺の詔を出され東大寺は都の国分寺として建てられました。国分寺には、20人の僧侶を置くと定められ

東大寺は、全国の僧侶の教育を受け持つことになり大仏殿の

僧坊や校舎があり、そこでおよそ一千人の僧が勉強した

総合大学のようなものであったようです。

聖武天皇は、華厳経が根本だと言う詔を出されています。

旱魃、飢饉、地震、疫病が多発し、多くの国民がの多くが亡くなりました。

国民を救うには、どうすればいいか大いに悩まれ人徳をもって

治める儒教から。政治を治めるには、佛教のほうがいいと、

政治の方針を佛教に代えられました。

その際根拠にされたのが、金光明最勝王経です。支配者の為に

説かれたお経で、神々に王権を授けられたと言うことは、

神々に対する責任を負わないといけないと同時に国民に安寧な

暮らしを与える義務があると言う、王権神授説が説かれていま

した。この考えには、限界があり一国の範囲を超えるものでは

なかったわけです。この時代強大な中国をはじめ、

新羅や、渤海など 国外にも目を向けねばならず

国家と言う枠組みを超えた世界観を持たねばならなかったのです。、

そんな普遍的な思想の原理を華厳経に見だしたのでした。

聖武天皇が華厳経に出逢うのは、731年31歳のときです。 
華厳経の象徴的な本尊である毘盧遮那仏(釈迦如来の別名で、

世界を照らす仏の意味)について書かれた「盧遮那像讃」

を写しておられます。「姿形の無い法身としての盧遮那像が、

人々を救う為に姿を現されることがある」等華厳宗の真髄に触

れているところがあるのです。

743年聖武天皇は盧遮那大仏造立の詔を出されます。

しかしこの巨大な大仏様を建立するのには、困難な道のりがあったようです。

当時平城京にはいろんな災害が起こり、天然痘も続いて流行し穢れたこの土地では、

理想は、実現できないと山城の国に都を造りますが、ふさわしくないとして

信楽で都造りと大仏工事を始め、ここでも大きな地震に遭い

平城京に帰ってきたようです。この期間を「彷徨の五年」と言われています。

聖武天皇は、大仏様を造ることによって国民の力を結集しようと思われ

それを少しずつ実現させていきました。

当時の国民の半分に近いと言われる260万人が大仏様の造像

に賛同し協力したと言われます。

お金を出せる者はお金を、労働力、産物と次第に大きな動きに

なっていったのだと思われます。

聖武天皇の治世の前半には、飢饉、地震、疫病などの災害が起こり

「こんなことが起こるのは自分の政治が行き届かない為責任は

すべて自分にある」と考え恩赦を与えたり、

そんな苦しみの中から「毘盧遮那仏を造ろう」と言う願いであったろうと思われます。

東大寺に来られた方が当時の天皇が自分の力を誇示する為にこ

の大仏を造ったと思われがちですが

国民の幸せを願って造られたようです。

こんな大きなものをどうして建てたのかと言う単純な疑問から
華厳宗大本山 東大寺長老の お話を参考にさせていただきました。

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