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ついに台風が来そうな気配で、今朝から小雨が降ったり止んだりと少し不安定な空模様。
まあ稲刈りもほぼ終わっているようですから大丈夫でしょうね。
あっ、リンゴがまだかあ。。。
さてと、
タマに違う話と思って祖父の事でも書きましょうか。
私の祖父は戦争中に亡くなっているので当然ながら私が生まれた時にはこの世にいませんでした。
亡くなった時には私の父はまだ8才くらいだったそうです。
一家の大黒柱を失って祖母は一人で3人の子供を育てていったということですが、
幸い小さな村落の中に親戚も多数いたため、食べることには窮するところまではいかなかったものの
決して裕福ではなく、祖母は海水から塩を作り山を超えて他県まで売りに行ったこともあるとか。
幸いにして空襲とかは全く関係ない地域だったために家が焼けたとかそう言った苦労も
無いのですが「それなりに苦労した」という話は祖母からよく聞かされました。
ただ祖母も女性ですので女性の目線での話なので、男の私としては祖父から話が聞いてみたかった
というのは本音です。
父からそういう話が聞けるかと言えば、父も祖父を亡くしたのが8才という子供の頃のことですから
親戚の伯父さんからとか伝え聞いた話として聞いたことがある程度です。
祖父は戦争で亡くなったワケですが、兵隊ではありませんでした。
民間人だった祖父は船乗りをしていて、日章丸という油槽船(タンカー)の通信士(無電局長)でした。
ちなみに日章丸はあの「日章丸事件」の日章丸二世号ではなく、初代の日章丸です。
ググると画像もありますが、当時最先端のデザインを取り入れた高速線だったとか。
祖父はその船の無電局長という立場だったためか、話によると若くして高給取りだったそうで
今も残る実家の立派な建物は当時祖父が建てたもので、村では「若造が〜」と妬まれたとか(笑)
日章丸は1944年2月にミンダナオ付近で魚雷を受けて沈んでしまいましたが、
祖父は戦時中は日章丸ではなく、春泰丸という輸送船に乗り組んだのですが、1944年1月に徳之島付近で被雷して沈んだそうです。
45人の乗組員中40人が死亡。その中に祖父もいたと言うことです。
当時は米英の潜水艦が日本付近にまで入り込んでいて
各戦地への物資を断つべく民間から徴用された輸送船は戦略的な的でしたし、
いくら護衛艦がついていても潜水艦ではひとたまりもないですね。
当時、年の離れた若妻(だった)の祖母をはじめ、親戚もみな「戦争に行かないで」と懇願した
そうですが、祖父は「自分が行かなければ日本が負けてしまうから」と赴いたそうです。
当時は本気で日本を守ろうとしていたんですよね。
兵隊で行った方をはじめ、そうやって戦争で死んでいった人たちが
今の日本を見たら「なんで自分の国を守ろうとしないのか」と嘆き怒ることは想像に難くありません。
ここ最近の日本の領土に関する問題が早く解決してくれることを望みますが、
そのために日本がどうやっていかなければならないのかをしっかりと考えて行動しなくては
ならないですよね。
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人はどこから来て、どこに行くのか
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ワールドカップも日本が負けていなくなってしまったら、なんかチカラも入りません。
スゴいカードとはわかりつつも時間が時間です。
年には勝てないのか、ついつい寝てしまいます(笑)
そんなものですから最初は観ていたのですが、いつの間にか眠りに落ちていて、
朝ブラジルが負けた事を宿直のオジサンから聞いて知りました(笑)
まあそんなものですよね(笑)
ワールドカップも終われば高校野球だ!
日焼けがてらに県予選を観戦しようか。
なんて事を考えつつ寝ていたワケですが、
そうです、お察しの通り昨夜はまたゼロ件だったのです。
7月に入ったし、月が変わるとコロッと流れが変わったりすることも多いので
ある程度期待していたのですが、空気というか雰囲気というか、
「入りそう」なんて予感が大体無かったですね。
待機する事がひとつの仕事ですから仕方ありませんが、
仕事が無いのもツライところです。
そんな事で昨夜の仕事が無ければブログのネタにも窮するので、
「昔こんなことがあった」ネタか、時事ネタか、家族ネタとかになるのでしょうが・・・グルーン
(ルーレットを回しました)
と、出ました「恋ばな」・・・じゃなくて(オヤジが恋を語ってどうすんじゃ)
あまり深くは語れませんが、ちょっと昔の話でも。
ウチの子供は上と下で9才も離れています。
上の子が生まれる前から仕事上で転勤などが続き、子作り(笑)もままならない状況だったわけです。
これ、本当ですよ(笑)
転勤先では繁殖行動くらいはするものの、またいつ、どこへ転勤になるやらわかりませんし、
実家から離れた地で2人目3人目を出産・子育てとなると、上の子の面倒を
どうするかとか具体的に考えたら大変なんですよ。
子供と嫁さんを実家に戻して単身すればと思うでしょうが、
交通費を考えると上の子を年少保育に入れた方が安いワケですし、
実際子供をもう一人作ろうと思っても二の足を踏んでしまうのは否めません。
そんなことで上の子が生まれた時はたまたま私が地元に戻ってきた時でしたが、
1歳の年(つまり7ヶ月くらい)にまた転勤で県外に引っ越しました。
それから様々な土地を渡り歩き、2番目の子が家内のお腹に宿ったのは
これまた、たまたま地元に戻ってきている時でした。
「これ以上引っ越しはイヤ!」という家内の強い希望もあって、
今までの会社を辞めて新しい職に就いたころのことでした。
この頃はご存知のアメリカで9.11テロ事件があった頃です。
待望の妊娠に私も家内も喜んだのですが、仕事の方で私が上を目指したい事を
希望したために社員研修の名目でまた転勤・引っ越しをするハメになってしまいました。
これがその年の11月です。
しばらくレオパレスで単身生活を送りながらの仕事で、12月には新居を決め
年の瀬も近い、というより世間はクリスマスの12月25日の夜、
家内と7歳の娘と引っ越しトラックに積み残した荷物を満載した小さなフィットで
まるで夜逃げのように旅立ったのでした。
その頃家内は妊娠3カ月くらいでしたが、ヒドい妊娠中毒症状が出て
足はまるでゾウのように浮腫んでしまい、その意味でも引っ越しによる
かかりつけ医の変更も心配のタネでもありました。
その心配が現実になったのが年が明けた2月。
定期健診もあり、近くの産婦人科にかかることにしたのですが
妊娠中毒症の事もあり「病院に行ってくれ」と言われ、
そのまま市民病院の産婦人科に行ったのですが、これがまた病院の病院たるところで
時間ばかりかかるわけです。
2度ほど行って結局「少し様子を見てみましょう」なんて言われて帰って来た晩に破水です。
25週だったでしょうか。
さすがに慌ててしまいました。
一人で置いていくことも出来ませんので寝ていた娘も連れて病院に駆けつけ診てもらいましたが、
結局もうすでに産道に下りてきているということだったので出産させるしかないとう話でした。
テレビドラマでよくあるような待合室の向こうから「オギャー」なんて声も聞こえないまま
取り上げてくれた医師が「一応生まれました・・・、女の子です・・おめでとうございます・・」と
明らかにどう言っていいのか迷いながら、どこか申し訳なさそうにかけてくれた言葉を
覚えています。
もっとも私にはその医師がどんな顔をしていたのか、看護師も含め何人いたのかも曖昧です。
ただこんなに早く生まれてしまって大丈夫なのか、という気持ちと
とりあえず無事に産まれて良かったという気持ちが交差し、
ふーっと遠くなりそうな気持の中で病院の廊下がやたら白かったイメージがあります。
そんな私を現実に引き戻したのがやはり取り上げてくれた医師で
「これから迎えが来ますのでNICUに赤ちゃんを移します」と言います。
NICU・・?
ICUじゃなくて?
医師の言う事が何だか良く分かりませんが、
「こちらへ」と医師に誘われるままある部屋に入りました。
集中治療室です。
やっぱり記憶では「白い」というイメージしか残ってなく、その部屋が広いのか狭いのかも
覚えていない集中治療室の中ほどのテーブルの上に
多分それは保育器だろう、というものが置いてありました。
小さな保育器に入れられた生まれたばかりの、「これがあなたの子です」と言われたものの、
生まれた赤ちゃんと呼ぶにはあまりにも小さく細く、そして普通に知っている
赤ちゃんとは程遠い肌の色、それはまさに「土気色」というのはこういう色かと
納得せざるを得ない色をした「私の子」は声は聞こえませんがかすかに動き
泣いているだろうという顔をしていました。
「生まれました」というのに何故か体に厚みが無く、
小さいな、平べったいな、色が悪いなというのが我が子に対する第一印象でした。
動いていなければ本当に生きているのかさえ疑わしい様相の我が子にとって
その小さな鼻に差し込まれたチューブが生きる希望に見えました。
NICUからの迎えを待っている間に医師からの説明がありました。
「へその緒に腸が出ていまして、さい帯ヘルニアと言います。
これが感染症を引き起こす可能性もあります」
最初は気付きませんでしたが見ると確かに透明な赤ん坊のへその緒がお腹に付いていて、
その付け根から緑色のモノが見えています。
「これが腸なんですか」
「そうです」
なんで? 判ってたら早よ戻してあげろよ! かわいそうじゃないか!
いや待てよ、NICUってところで治療するから? どうなんだ!
何が何だか分からない。
アタマの中では説明する医師の声がリピートし、
それに対して自分の疑問を叫ぶ声で他は何も考える事が出来ない。
何しろアタマの中は「何で?」「何で?」「何で?」のオンパレードですから
医師の言う事も断片的にしか聞こえません。
当時幸いなのは娘が待合室のソファでおとなしく寝てくれていることと、
時間が夜中で私たちのほかには患者や人がいなかったことくらいでした。
「お迎えが来るまでお待ちください」と看護師に促され集中治療室を出て
待合室に戻ると何も知らない娘はまだ夢の中。
「お前に妹が生まれたんだよ」と眠っている娘に声をかけました。
私と娘意外誰も居ない、自動販売機の音だけが響く静かな病院の待合室で
節分の日を迎えたのでした。
やがてNICUから迎えがやってきたと告げられ、先ほどの集中治療室に行くと
NICUの方が我が子が入っている保育器を持ちだそうとしているところでした。
「お父さんですか、これからNICUに向かいますのでついて来て下さい」
『ついて来て』ってことはクルマで? タクシーで来たから車を取りに家に帰らなくてはなりません。
NICUの場所を聞いて、すぐに駆けつけますからと一旦私と寝ぼけていたままの娘は
タクシーで自宅マンションに戻り、取るもとりあえずそのままクルマでNICUへ向かいました。
NICU=新生児特定集中治療室は県の北部に近い山間いにありました。
高速を降りて案内板の通りに進むと病院の入り口を示す看板がありました。
病院に続く坂道はこれから始まる我が子と家族の闘病生活を暗示するかのような
長く険しい登り坂に感じました。
続きはまた・・・です。
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昨夜はホントは会社の忘年会だったので休みにして |
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今日も例の夫婦の事で午後から動かなければならないので |
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以前に私は「霊の存在を信じない」と書きました。「霊は存在しないだろう」と。 |




