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律令制では陰陽道を世襲の職とは定めていません。
遣唐使を通じて最新の陰陽知識と書物がもたらされた時期には
陰陽職の固定化は起こりませんでした。
しかし平安期の国風文化の中で日本の陰陽道が確立してくると
陰陽道の有職故実化(ゆうそくこじつか/朝廷の儀式・礼法・法令などの定型化)が
起こりました。
新しい陰陽知識の導入が断たれた分だけ、前例重視の傾向が強まって
その結果として陰陽職の世襲化すなわち家道(かどう)としての陰陽道が誕生します。
それはまず賀茂氏において表れ、賀茂保憲(かものやすのり/917〜977)が
関白藤原忠平のひきたてによって暦博士となり、陰陽頭・天文博士をも歴任して
陰陽道の第一人者となりました。
保憲の父忠行に陰陽道を学んだのが安倍晴明(あべのせいめい/921〜1005)です。
保憲は晴明より4歳年上ですが保憲が比較的早く没したことで
晴明に実権が移る事態をひき起します。
保憲には晴明より18歳年下となる息子光栄がいて
保憲としては家道の中心である暦道を光栄に継承させる形で
晴明とのバランスをとったらしく
天文道が晴明の掌中に残ることになったようです。
暦道の主たる職務はカレンダー作成です。
一方の天文道は突発的天変地異に対処して、その政治的意味を占わなくてはならないので
時局に対する適切な判断を下さなくてはならず、正確さが求められました。
それゆえ天文道を掌握した晴明の存在の重要性が上がったわけです。
このように暦道・賀茂家 天文道・安部家という陰陽道家の両立体制が確立しました。
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