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弟子たちの力量が祖師の法を伝える水準に達したのを悟った 禅宗五祖弘忍(ぐにん)は、各々の境地を詩に託して表明させ 優れたものを自らの後継者に指名することにしました。 そして 菩提本樹無し 明鏡も亦台に非ず 本来無一物 何れの処にか塵埃を惹かん(悟りという樹も鏡のような心もありはしない。 もともと何もないのだから、どこに塵埃がたまっても 何を払拭しようというのか。) の詩を提出した廬行者(ろあんじゃ)、のちの慧能(えのう)を認めたのでした。 今年1年『一日一禅』として続けてまいりました書庫ですが 本日240記事をもちまして、終わりにいたします。 みなさま拙文をお読みくださり、ありがとうございました。 まだまだ自分自身、未熟者で禅語の意味を理解できたとはいえませんが 茶席には必ず掛ります禅語。 これからも精進して、学んでいきたいと思います。 「本来無一物」いくら学んでも修行を積んでも、結局は何もないのだ。 と言えるまでには到底なれるはずもありませんが そこまでに到るまでの様々な知識・経験を少しでも多く身につけたいと思います。 また来年は何を記事にしようか、暮れの大掃除やお正月の準備をしながら 考えますので、どうぞ来年もよろしくお願いいたします。 ありがとうございました。 なお、このブログは今年は25日まで更新するつもりでおります。
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宗恵の『一日一禅』
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毎日1つ禅語をご紹介いたします。
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「光」は日、「陰」は月のことですので 「光陰」は「月日」と言い換えることができます。 「箭の如し」とは弓から放たれた矢のことで 歳月が過ぎていくことは矢のように速いということですね。 同じ時間をいかに効率よく使うか…。 わたしはボーッとしている時間が長くて、なかなか大掃除がはかどりません。 さてさて、子供たちも帰ってくることだし 重い腰を上げてせっせとお掃除いたしましょう。
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『虚堂録』巻九に見える「坐一走一」を出典とする句です。 「一」は「万法一に帰す」という場合の一、絶対なる真理をあらわし 「七」は日常的なさまざまな雑事を指し 「唯一絶対の真理に腰を落ち着けていながら、 その一方では俗世間の中での諸事に臨機応変、無碍自在に対応する」 という意味を表すそうです。 坐禅に励み、禅語録などで禅者の言行を学び、真理を追究し それが具体的に実生活に生かされなければ、 修行をする意味はない、ということでしょうか。 何事も自己満足に終わることなく、何かしら世のため人のためになるように務めること できそうで、できませんね…。
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この言葉は陶淵明の『雑詩十二首』の最初の詩にあります。 盛年重ねては来らず 一日再び晨(あした)なり難し 時に及んで当に勉励すべし 歳月人を待たず意気盛んな年代が再び訪れることはない。また、一日に二度朝が来ることもない。 だから、適当な時期を逃すことなく努力しなければならない。 年月は人を待たずに忽ち過ぎ去ってしまうものだから。 ということで「適当な時期」を逃さないためには、常に今自分が何を成すべきかを しっかりと見極めなくてはなりませんね。 早く大掃除しなくちゃ、すぐにお正月が来ちゃう…。 わぁ〜すっごく現実的です…。
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昨日13日は「事始め」。 昔はこの日にお正月の準備を始め、 飾り松を山から切り出してくる「松迎え」の習慣があったそうです。 松は本来、年の初めに迎える神の依り代の意味を持ち しだいに長寿を願う意味も加わって正月飾りに広く用いられるようになったそうです。 一面に降り積もった雪の中、新年を迎える松飾りの緑が雪に映えている様子は 年の暮れの句としてぴったりですね。
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