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長らくお付き合いいただきました「茶の湯 あいうえお」 今回の「わ」をもって終わりとなります。 「わ」はなんと言っても和敬清寂ですね。 利休さんの茶道精神を要約した言葉です。 「四規」といわれ「利休七則」と合わせて「四規七則」と称されます。 この言葉につきましては「四規七則」の書庫で説明しておりますので そちらをご覧くださいませ。 http://blogs.yahoo.co.jp/soukei0322/folder/280904.html さてお次のテーマは… 近日中に発表いたします♪
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茶の湯 あいうえお
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茶の湯に関する言葉を毎日一つずつあいうえお順にご紹介いたします。
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民間では主として十月亥の日、とくに中の亥の子の日と称して、中旬に炉を開いて小豆餅で祝います。 『茶湯三伝書』には「いろりの初は九月朔日頃より三月晦日頃まで、風炉の初は四月朔日頃より八月晦日まで」 とあるそうです。 今とは…違いますね。 裏千家宗家では10月29日が炉開きで、直門稽古の志倶会員が、お菓子に善哉餅をいただいて お濃茶を順服するのが恒例だそうです。 「べ」のつくお道具を使う、とよく聞きます。 ふくべの炭斗…織部の茶碗…木米の菓子器…とかね… 何でなのでしょう??? いよいよお次は「わ」…最後です…。
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川上不白が宝暦5年(1755)神田明神境内に造立した茶室。 |
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フィリピンのルソン島から渡来したと伝えられる陶磁器の総称。
南蛮水指などもその一種と考えられますが、一般的には四耳ないし三耳の付いた壺をいいます。 もっともルソン島産とするのは誤りで、中世の貿易船がルソン島経由で来たからにすぎません。 当時わが国の茶道界では、それらの壺を葉茶壺として珍重しましたが、 本来は酒・香料・薬草などの容器だったと思われます。 材質や形状から考えると、原産地は中国南岸の福建・広東あるいは北ベトナムあたりの雑器窯と推定されます。 いずれも細かい鉄分を含んだ土で薄作りにし、黄褐色ないし黒褐色の渋い釉をかけています。 わが国ではそれらを真壺・清香・蓮花王などに類別しました。 真壺を除く二つは肩にその文字が刻まれています。 |
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利休堂(りきゅうどう) 三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)には千家の祖である利休像を祀る利休堂(祖堂)があります。 裏千家の4代仙叟宗室が元禄3年(1690)利休百年忌に際し利休堂を建立し、仏師隠達作の像を祀ったのが最初です。 それは三畳中板の座敷に上段の板間を設けて正面円窓の奥を利休像の安置場所としました。 天明大火後は仮堂(現在の奥待合)が建てられましたが、11代玄々斎のとき旧規に忠実に再興されました。 点前床の向うには蛤棚が吊られています。 表千家では利休百五十年忌をつとめた7代如心斎が利休堂を造立しました。 それは茅葺の簡素な草堂で、仏師隠慶作の像が祀られていました。 天明大火後は8代啐啄斎により寛政2年(1790)に再興されたらしいです。 それは四畳半道安囲の座敷の板床の隣に利休像の安置所を設けていました。 啐啄斎はこの祖堂の西に一畳台目向板入り反古張の茶室を設けました。 天保10年(1839)利休二百五十年忌に10代吸江斎は前の祖堂と一畳台目向板の反古張の席を一棟にまとめました。 これが現在ある表千家の利休堂で、茅葺屋根の妻に「点雪堂」の額が掲げられています。 武者小路千家ではいつ利休堂の建設が行われたか明らかではありませんが、現在のものは8代一指斎によって建てられました。 四畳半で一隅に斜めの踏込床を設け床柱の右に円窓をあけ内に利休の画像が祀られています。 『原色茶道大辞典』淡交社刊 より 『婦人画報』9月号に
家元からのミッション・インポッシブル 「檀ふみの茶の湯とはなんぞや?」 として女優の檀ふみさんが今日庵に入門された時の様子が載っています。 111ページにびっくりしたことに「利休御祖堂」の写真がありました!!! |





