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規矩作法守りつくして破るとも 離るヽとても本を忘るな 規則は守らなくてはなりませんが、その規則を破っても 規則から離れてはいけない、本(もと)を忘れてはならない、ということです。 これは茶道を学ぶ人のために「守・破・離」という学びの段階について教えています。 一生懸命、点前手続きを学ぶ「守」の段階。 実際に点前をしていて臨機応変に対処する「破」の段階。 そして規矩作法を十分習得し、何ものにもとらわれない「離」の段階。 なかなか「離」の段階にまでは到達しませんね。 まだまだ「守」の段階ですが、来年は「破」まで達するように 個人的なお茶会を催したいと思います。 10年程前、毎日一首づつ日記に道歌を写しながら勉強したことがあります。 またこうして改めて読み返すことができて、大変わたし自身の為になりました。 やはり利休さまは素晴らしい方ですね。 お付き合いいただいた皆さまありがとうございました。 良いお年をお迎えくださいませ。
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利休道歌
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利休の教えを簡単に覚えやすく歌に詠んだものです。
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もとよりもなきいにしへの法なれど 今ぞ極る本来の法 この歌は「昔なかったものを、今定めた」という意味で 利休のときに茶の道を大成したことを歌っています。 茶の湯は利休以前から行われていました。 室町時代には、上流社会で行われ、 その後信長、秀吉なども茶の湯に親しんだことは、皆さまご存知のとおりです。 その頃のお茶は闘茶や遊興性の強い華美なもので、風雅にはほど遠く 美術工芸の発達には効果がありましたが 精神修養という点には至っていませんでした。 それを利休が「禅」と結びつけ、いわゆる「茶禅一味」を説いて 茶の湯はただの遊びでなく、心を養うものであるとしたのです。 そのことが「茶道本来の法」である、と歌っているのですね。 「精神修養」!なってないな…。
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茶の湯とはたヾ湯をわかし茶をたてヽ のむばかりなる事と知るべし この歌は「茶の湯とはお湯を沸かして、お茶を点てて、飲むだけであるということであり 何も難しいことではない」ということを教えています。 この当たり前とことを当たり前にするということが、実際には難しいことです。 利休の教えに 花は野にあるように 炭は湯の沸くように 夏は涼しく 冬は暖かに 刻限は早めに 降らずとも傘の用意 相客に心せよ の七則があります(四規七則の書庫をご覧ください)。 これを簡単に歌ったものですね。 お道具自慢…。美味美食の追求…。 無我無心にお茶を点てること…。 できそうで…できないこと…。
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茶の湯には梅寒菊に黄葉み落ち 青竹枯木あかつきの霜 この歌は「口切の茶事」を通して、茶の湯には陰と陽の調和が必要であることを歌っています。 「口切の茶事」とは開炉の季節の11月初めに、その年の春に茶師によって葉茶が詰められ 封印された茶壷を露地や炉壇など新しく調えられた茶席で封を切り、 そのお茶でお客さまをもてなす、というお茶事です。まさに茶人のお正月です。 「梅寒菊に」は口切の茶事が行われる11月が寒い「陰」の時季に 梅や寒菊が寒さに負けず「陽」の花を咲かせているという「陰陽の調和」をあらわしています。 「黄葉み落ち」はイチョウの葉が黄ばんで落ちるという「陰」の情景をあらわしていますが 美しく色づいた葉が舞い散る様子は美しく「陽」でもあるわけです。 「青竹枯木」は口切の茶事のために取り替えられた垣根の青竹の色は「陽」ですが まわりは葉の落ちた枯木の「陰」の姿をあらわしています。 「あかつきの霜」とは暁の陽の時刻にあらわれた霜のことで 白く美しい霜は「陽」の情景ですが、寒冷な「陰」の気があっての霜である、ということです。 このような「陰と陽の調和」は外観だけでなく、お道具の取り合わせ 亭主の心構えにまでも関係することを忘れてはいけません。 来年はもっと「陰陽五行」を勉強しよう…。
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かず多くある道具をも押しかくし 無きがまねする人も愚な 「茶はさびて」の歌を極端にいえば 釜一つあれば茶の湯はできる。数多くの道具を持つ事は愚かなこと。 身分相応ということを忘れてはいけません。ということでしょう。 この歌は、数多くの道具を持っていながら、それを隠して持っていないような顔をするのも 愚かなことで、持っている人は、それを十分活用して茶の湯を楽しみなさい、ということですね。 調べたところ、前の歌とこの歌は百首以外のものでした! しかし、利休の作と伝えられています。 ということで利休道歌は102までありま〜す。
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