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『獣人』はつまりおよそすべての人間が獣性を備えているという主題の作品である。
その中にあって、父・祖父から悪い遺伝的素因を引き継いだ男のみが己の獣性に対峙し、愛人を殺してそれが抑えようもないものだと思い知らされたとき、「俺はもうだめだ」と一声叫んで列車から飛び降りるのである。自らを死に至らしめることによって、内的な罪業の終焉を引き受けるのだ。その一方で、助役、その妻、妻の養父といった人々は自身の持つ獣性にはあくまで非意識的である。助役は妻を養父に寝取られたという理由で激昂し、養父を列車内で刺し殺す。妻への盲目的な愛と嫉妬心は彼を狂気に駆り立てるが、彼はそれを「家庭を守るにはこれしかない」という理由で正当化しようとし、それにしくじればギャンブルに溺れ、精神を病んでとどまることなく堕落していく。良心の声に耳を貸さず妻に暴力をふるい、養父の財布から抜き取った金を横領し、正義漢であった頃の面影を見出すことはできない。これはすなわち人間性の死、精神的な死である。
妻は自分の恵まれない幼少期の体験(養父からの性的暴力と思われる、しかも養父が生物学的な実父であることも否定できないため、彼女の経験は近親相姦の色彩も帯びている)や夫からの暴力をほかの男に過度に脚色、誇張して涙交じりに語ることでその同情を買い、安易に関係を結んでしまう、典型的な自己愛型パーソナリティの持ち主である。彼女は新しい男ができるたびに、彼らの愛の障害になるような古い男(例えば夫)を激しく憎み、新しい男を唆して亡き者にせんと画策する。大切なのは、そこで決して自分の手を汚さず、傍観者の立場を固守するという姿勢である。私は彼を殺さなかった。殺したのは違う男だ。てらいもなくそう言い聞かせることで、彼女は加害者ではなく被害者、庇護を受けるべき存在であるか弱い自己イメージを守りとおそうとする。彼女は、夫殺害の計画を機関士に持ちかけ、「彼を殺して。そのあとで私を抱いて」と熱烈なキスを交わしている最中に、発作に襲われ理性(raison)を失った機関士にあっけなく殺される。「どうして私を…!」と抗い、激しい断末魔の叫びをいくたりもあげながら、生にしがみつき彼女は死にいたる。
良心的と思われていた人間がもつ残忍で愚かな「獣性」をゾラは執拗に告発する。彼は人間の醜さを、遺伝的素因という特殊な条件にとどまらず、全ての人間に備わった本質的なありようとしてとらえているのだろう。(私という人間に関する限りそれはyesだ)。その獣性に逆らう装置として、機関車―その愛称をRaison(理性)という―は機能しているのだろう。冒頭の、機関車が力強く蒸気をあげ、野山を走りトンネルを抜け、駅までたどり着くシーン、機関士ふたりは真っ黒になりながら生き生きと働く、とても美しく健康的で、感動的ですらあるシークエンスだ。機関士は愛人に、機関車からの風景について語る。「四季の移り変わりを実感することができる。野原ではうさぎが耳を立て、じっと機関車の通り過ぎるのを見つめている。Raisonと僕とは同じ風景を見ている」と。機関士は、Raisonと細やかな理想的な愛情を育んでおり、それがともすれば常軌を逸する彼をraison(理性)に引き留めていたことは明白である。Raisonではなく腐食した肉体と精神をもつ女と結びついた時、彼を良心につなぎとめるものはない。凶行に及んだ彼は絶望し、一晩じゅう線路沿いを歩き続けた挙句、自ら疾走する機関車から飛び降り、命を絶つ。
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