ウトゥディールものがたり

本を読む時間、なくなってしまうのは悲しい

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溝口健二監督の『雨月物語』、観ました。世界的な名声を博している監督ですが、私、溝口、苦手です。山中貞雄や、成瀬巳喜男の方がどれだけ好きか知れない。

現在のところ、『山椒大夫』、『雨月物語』、『近松物語』、『祇園の姉妹』くらいしか観ていないのですけれど、なんというのでしょうね、こんなにもむごくて、痛ましくて、ひりひりするような映画って、観ていてとても苦しくなる。その痛みというものも、女の痛みであったり、極貧の痛みであったり、虐げられる痛みであったりするから、逃れようがなく張り付いてきて、目を背けることすらかなわない。いやだ、いやだ、と思う。虐げられるものを執拗に追う目は、虐げるものの目なのです。そのような暴力を、誰が喜ばしいと思えようか。

その一方で、霧の立ち込める湖上のシークエンス、幽玄に舞う若狭の姫君、ああ、確かに美しいと思う。タルコフスキーは溝口に感化されて『サクリファイス』を作ったんじゃなかろうか。ことあるごとに流れる雅楽の音色が、それとこれとで似通っているように思われた。

さて、『雨月物語』。二人の幽霊が出てきますね。森雅之の女房である田中絹代と、京マチ子扮する若狭の姫君。父が信長に仕えたばかりに、儚くみまかった若狭の姫君はひとたりの逢瀬を求め森雅之に身をゆだねます。姫君との愛欲におぼれた森雅之は、しだいに生気を失い、その顔には死相が浮かんでくる。すんでのところで僧に救われるのですが、路銀も失い身一つで郷里にたどりつけば、すでに女房は死に、それが霊となって現れ、彼の疲れをいやし、彼を見守り続ける。いやだな、と思いました。京マチ子と田中絹代は、いわば一人のおんなの違う姿なのです。一方は妖魔のごとき美貌で魂を抜き去り、一方は慎ましく一心に世話をやく。おんな、そうであれかし、と想定されているふたつの像が、ここではひとりの男に立ち現れている。

これと同じことが弟夫婦にも起こっています。弟は武勲を求め、追いすがる妻を振り払ってどこぞの武将の家来となります。運よく敵方の武将の首を横取りし、見事馬もあれば家来もいる立派な武士になったのですが、その時妻は野武士に輪姦されるばかりか、女郎にまで身をもちくずしてしまっているのです。女郎屋で偶然にも再会した夫に、妻はご立派なお侍さんになったのだから、客として一晩私を買え、とそう云い放ちます。そしてその口の乾かぬ先から、もうひと目逢わずには死ねなかった、私をもとの綺麗な姿に戻してくんろ、と泣き、その首にかじりつくのです。倒れた妻のあられもない足先。妻としての貞淑を求めながら、その身体は夫を迎えてしどけなく潤んでいるのです。

溝口監督は、女性を描くには想像力の乏しい方です。女は女でありましょうか。それだけではないのです。女には、母があり、娘があります。祖母があり、職業婦人がいます。いっぱしの気どり娘も、純情乙女も、生まれたばかりの小さいのも、物心ついたものも。それをあのように簡略化されては、女ですもの、黙っていられるもんですか。


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