ウトゥディールものがたり

本を読む時間、なくなってしまうのは悲しい

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ネーミングセンス

研究室に宮崎みやげのきんかんがありまして、ひとつ頂いたらこれが大変おいしい。うちの家ではきんかんは煮て食べることが多くて生のままで食べたことはなかったんですけど、甘酸っぱくてつやつやしてて大変きれいなのです。へえ、と感心して箱の中に入っていた広告を見ますと、

そのまま食べるのがおいしいよ!完熟きんかんの王様「たまたま」と書かれています。糖度18度以上で王様「たまたま」、16度以上で女王様「まるかじり」と呼ばれるそうです。

きんかんのたまたまをまるかじりです。どうですか、宮崎。いいんですか宮崎。図らずも研究室で、どきどきが抑えられません。

溝口健二監督の『雨月物語』、観ました。世界的な名声を博している監督ですが、私、溝口、苦手です。山中貞雄や、成瀬巳喜男の方がどれだけ好きか知れない。

現在のところ、『山椒大夫』、『雨月物語』、『近松物語』、『祇園の姉妹』くらいしか観ていないのですけれど、なんというのでしょうね、こんなにもむごくて、痛ましくて、ひりひりするような映画って、観ていてとても苦しくなる。その痛みというものも、女の痛みであったり、極貧の痛みであったり、虐げられる痛みであったりするから、逃れようがなく張り付いてきて、目を背けることすらかなわない。いやだ、いやだ、と思う。虐げられるものを執拗に追う目は、虐げるものの目なのです。そのような暴力を、誰が喜ばしいと思えようか。

その一方で、霧の立ち込める湖上のシークエンス、幽玄に舞う若狭の姫君、ああ、確かに美しいと思う。タルコフスキーは溝口に感化されて『サクリファイス』を作ったんじゃなかろうか。ことあるごとに流れる雅楽の音色が、それとこれとで似通っているように思われた。

さて、『雨月物語』。二人の幽霊が出てきますね。森雅之の女房である田中絹代と、京マチ子扮する若狭の姫君。父が信長に仕えたばかりに、儚くみまかった若狭の姫君はひとたりの逢瀬を求め森雅之に身をゆだねます。姫君との愛欲におぼれた森雅之は、しだいに生気を失い、その顔には死相が浮かんでくる。すんでのところで僧に救われるのですが、路銀も失い身一つで郷里にたどりつけば、すでに女房は死に、それが霊となって現れ、彼の疲れをいやし、彼を見守り続ける。いやだな、と思いました。京マチ子と田中絹代は、いわば一人のおんなの違う姿なのです。一方は妖魔のごとき美貌で魂を抜き去り、一方は慎ましく一心に世話をやく。おんな、そうであれかし、と想定されているふたつの像が、ここではひとりの男に立ち現れている。

これと同じことが弟夫婦にも起こっています。弟は武勲を求め、追いすがる妻を振り払ってどこぞの武将の家来となります。運よく敵方の武将の首を横取りし、見事馬もあれば家来もいる立派な武士になったのですが、その時妻は野武士に輪姦されるばかりか、女郎にまで身をもちくずしてしまっているのです。女郎屋で偶然にも再会した夫に、妻はご立派なお侍さんになったのだから、客として一晩私を買え、とそう云い放ちます。そしてその口の乾かぬ先から、もうひと目逢わずには死ねなかった、私をもとの綺麗な姿に戻してくんろ、と泣き、その首にかじりつくのです。倒れた妻のあられもない足先。妻としての貞淑を求めながら、その身体は夫を迎えてしどけなく潤んでいるのです。

溝口監督は、女性を描くには想像力の乏しい方です。女は女でありましょうか。それだけではないのです。女には、母があり、娘があります。祖母があり、職業婦人がいます。いっぱしの気どり娘も、純情乙女も、生まれたばかりの小さいのも、物心ついたものも。それをあのように簡略化されては、女ですもの、黙っていられるもんですか。

本年度、がっかり大賞

今年読んだり観たりしたもののなかから、個人的にがっかりだったものを挙げていきたいと思います。

■「肉体の悪魔」ラディゲ

あまりにもお話がお粗末で、これがどうして光文社の古典新訳に入っているのか不明です。
年端もゆかぬ若造が肉欲に溺れしだいに人間らしい情愛を失っていく、実に子供じみて浅はかな
物語です。どうやら自叙伝の趣が強いらしいので、私は著者を「肉体のラディゲ」と呼びならわす
ことにいたしました。

■「楽園への道」バルガス=リョサ

うーん…。ポール・ゴーギャンとその祖母であり革命家のフローラについての伝記小説ですが、偶数章にポール、奇数章にフローラ、と物語を完全並行させる試みは面白みに欠け、いたるところに回想の交る
構成も煩雑で分かりにくいばかり、芸術家とその祖母という題材が魅力的なだけに、
がっかり感のいや増す長編です。ラテンアメリカ文学はユニークで巧みなものが多いのですが、
こればかりは肩透かしでした。

■「ロスト・イン・トランスレーション」
 「マリー・アントワネット」 ソフィア・コッポラ

いや、これ冗談でしょ。頭の軽いオンナノコたちが騒ぎたてたりアンニュイぶってるだけでしょ。
あまりの苛立たしさに、唯一劇場で席を立った映画です。私は、ソフィア・コッポラ、許せません。

ルノワール 『獣人』

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『獣人』はつまりおよそすべての人間が獣性を備えているという主題の作品である。
その中にあって、父・祖父から悪い遺伝的素因を引き継いだ男のみが己の獣性に対峙し、愛人を殺してそれが抑えようもないものだと思い知らされたとき、「俺はもうだめだ」と一声叫んで列車から飛び降りるのである。自らを死に至らしめることによって、内的な罪業の終焉を引き受けるのだ。その一方で、助役、その妻、妻の養父といった人々は自身の持つ獣性にはあくまで非意識的である。助役は妻を養父に寝取られたという理由で激昂し、養父を列車内で刺し殺す。妻への盲目的な愛と嫉妬心は彼を狂気に駆り立てるが、彼はそれを「家庭を守るにはこれしかない」という理由で正当化しようとし、それにしくじればギャンブルに溺れ、精神を病んでとどまることなく堕落していく。良心の声に耳を貸さず妻に暴力をふるい、養父の財布から抜き取った金を横領し、正義漢であった頃の面影を見出すことはできない。これはすなわち人間性の死、精神的な死である。
妻は自分の恵まれない幼少期の体験(養父からの性的暴力と思われる、しかも養父が生物学的な実父であることも否定できないため、彼女の経験は近親相姦の色彩も帯びている)や夫からの暴力をほかの男に過度に脚色、誇張して涙交じりに語ることでその同情を買い、安易に関係を結んでしまう、典型的な自己愛型パーソナリティの持ち主である。彼女は新しい男ができるたびに、彼らの愛の障害になるような古い男(例えば夫)を激しく憎み、新しい男を唆して亡き者にせんと画策する。大切なのは、そこで決して自分の手を汚さず、傍観者の立場を固守するという姿勢である。私は彼を殺さなかった。殺したのは違う男だ。てらいもなくそう言い聞かせることで、彼女は加害者ではなく被害者、庇護を受けるべき存在であるか弱い自己イメージを守りとおそうとする。彼女は、夫殺害の計画を機関士に持ちかけ、「彼を殺して。そのあとで私を抱いて」と熱烈なキスを交わしている最中に、発作に襲われ理性(raison)を失った機関士にあっけなく殺される。「どうして私を…!」と抗い、激しい断末魔の叫びをいくたりもあげながら、生にしがみつき彼女は死にいたる。
良心的と思われていた人間がもつ残忍で愚かな「獣性」をゾラは執拗に告発する。彼は人間の醜さを、遺伝的素因という特殊な条件にとどまらず、全ての人間に備わった本質的なありようとしてとらえているのだろう。(私という人間に関する限りそれはyesだ)。その獣性に逆らう装置として、機関車―その愛称をRaison(理性)という―は機能しているのだろう。冒頭の、機関車が力強く蒸気をあげ、野山を走りトンネルを抜け、駅までたどり着くシーン、機関士ふたりは真っ黒になりながら生き生きと働く、とても美しく健康的で、感動的ですらあるシークエンスだ。機関士は愛人に、機関車からの風景について語る。「四季の移り変わりを実感することができる。野原ではうさぎが耳を立て、じっと機関車の通り過ぎるのを見つめている。Raisonと僕とは同じ風景を見ている」と。機関士は、Raisonと細やかな理想的な愛情を育んでおり、それがともすれば常軌を逸する彼をraison(理性)に引き留めていたことは明白である。Raisonではなく腐食した肉体と精神をもつ女と結びついた時、彼を良心につなぎとめるものはない。凶行に及んだ彼は絶望し、一晩じゅう線路沿いを歩き続けた挙句、自ら疾走する機関車から飛び降り、命を絶つ。

肉体の冠

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ある大工がレストランでレイモンという旧友に出会う。レイモンはやくざ仲間と女たちと同席しており、大工を彼らに紹介する。大工はマリーという女と恋におち、ダンスを踊る。マリーの男はそれを快く思わず、大工の座ろうとした椅子を引いて大工を転ばしたり、なんだかんだといちゃもんをつけたりする。大工は怒り、間髪をいれず彼の顎をアッパーカットする。数日後、大工はマリーと酒場で再び相まみえ、居合わせたやくざのボスに「マリーをもらいにきた」と宣言する。ボスは、マリーの男と大工を一騎打ちにさせる。大工はマリーの男を刺し殺し彼女をものにするが、通報を受けた警察に追われる身となってしまう。しかし逃げおおせた二人は川岸のおばあさんの家で、束の間愛をはぐくむこととなる。一方、マリーを自分の女にしたかったボスは姦計を図り、大工の旧友レイモンを殺害の犯人に仕立て上げてしまう。知らせを受けた大工は旧友を救うため、警察に自供してしまう。護送馬車のなかでレイモンは、大工に「マリーを自分のものにしたいがために、俺に無実の罪をかぶせたのはボスだ」と告げる。二人は駆け付けたマリーの助けで護送車から逃げ出すが、警察の発砲によりレイモンは命を落とす。復讐心に燃えた大工はボスを探す。ボスの家に殴りこんだ彼は、ベッドの床にマリーの室内履きを見つける。怒りたけり家を飛び出した矢先ボスと相まみえた大工は、警察署に逃げ込むボスを追いかけ自らも署に飛び込み、そこにあった警官用の銃で、ボスをめった撃ちにする。1発、2発、3発、4発、5発、6発。すべての弾を撃ち込まれたボスはあえなく絶命し、大工は逮捕され、ギロチンで処刑される。
 おかしな映画だ。ひとを殺すときとか愛してやまない女を寝取られたと知ったときとかに、普通の人間が表すであろう感情表現が、大工には完全に欠如している。マリーの男を刺し殺す時も、ボスに銃弾を撃ち込む時も、彼は眉ひとつ動かさず所業を遂行するだけである。躊躇いがないのである。マリーと恋に落ちるにしても、長年世話になった大工の店を後にするにしてもあまりにあっけなく、自分の追い込まれた状況に不安がる様子もない。最期にギロチンにかけられるとき、ぐちゃぐちゃになった服をだらしなく着て引っ立てられている折にすら、彼の表情には恐怖も後悔も、あるいは諦観すら認められない。マリーにしてもそうである。憎んでいたにしろ、自分の男を殺されてその次の瞬間にはその殺した相手の男と手を取り合い出奔するなど、少し考えられない情の薄さだ。なにかおぞましい、恐ろしい思いを残す映画である。ところどころ、ルノワールを彷彿とさせる美しい自然の情景が折りこまれるのが、よけいに人間の行為の尋常でないのを浮だたせる。エンドロールが流れるあいだ、後ろで大工とマリーのくるくると踊るのも、おかしい、おかしい、あまりにも早すぎる。それはもはや楽しみのダンスではなく、神経症的で強迫観念めいた一個体の回転としか見られない。大工の非人間的な衝動性、冷血さについて、私たちはレイモンの言葉から「感化院で長年を過ごした」という手がかりしか得ることができないけれど、生い立ちなど関係なく、ただ、その姿は常軌を逸していて、おぞましい。それでいて全編を眺めると美しさの際立つのは、まったくもって解せないところではある。

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