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川上弘美さんの新刊を読みました。
1ページめから、あ、と思った。てきぱきしている。弘美さんのスピードじゃない。主人公の名前と、主人公の夫の名前と、主人公の夫の浮気相手の名前、そのほか登場人物の名前がてきぱきと出てくる。この人とこの人の関係は、とか、これはどこどこの話で、と事細かに説明がつけられる。しかつめらしく、きまじめな子どものような文章。きちんと記述しよう、という文章。あれあれ、と思った。でも、後半に入ったら、またもとの弘美節に戻った。人間、なれないことはするもんじゃない。すこしほっとする。
しかしながら、このお話がいままでの作品と趣を異にしているのは間違いない。そもそも、弘美さんが「結婚」をテーマに物語を書いたのは初めてのことのような気がする。もちろん、彼女のお話には幾度となく「結婚している男女」のことが出てきた。しかしそこに描かれていたのは、日常としてゆるぎない結婚であった。もしくは、もうおしまいになってしまった結婚だった。そうでなければ、結婚、そのものでなく「夫婦」の話だった。
たとえば、「椰子椰子」に出てくる『夫』。『夫』ではあるが、妻が浮気したり恋人を作ったりしてもうんともすんとも言わない夫である。箪笥にしまわれたり、ほんのたまに会社の話をしたりするだけの夫である。夫、と名前のつけられただけで、その実「なんでもないひと」のことである。
「真鶴」に出てくる礼という男は、結婚したのち蒸発してしまった男である。礼は、主人公にとっていつまでも理解の出来ない、捨てきることのできない、それだからこそ忘れようのない、男である。結婚しても、とりすがることのできなかったいなくなってしまった男。
「百年」にでてくる老夫婦。もともと身分の違う、添い遂げることのできないふたりだった。それが、逃げて一緒になった。追われ、呪われ、年をとることができなくなった。それで、それから何世紀ものあいだともにいる。ふたりしかよりどころがないから、離れることはない。トウタさん、という名のつれあいとの、終わりない日々。
「風花」では、結婚が終わろうとしている。
主人公である「のゆり」という女は、いまだかつてなくぼんやりとした、子供じみたひとだ。「こんなんじゃだめだ、もっと変わらなきゃ」と自分に言い聞かせたりするおめでたいひとだ。弘美さんの登場人物は、基本的にみなとりとめのないひとであるけれど、このひとはそういうんでない。救いがたいぼんやりさ加減。世間ずれせず、夫が浮気をし別れをきりだしているというのにただただ呆然とし、なにもできずにいる。なにをするでもなく時間だけがながれる。夫を叱責するでもなく浮気相手とどうこうするでもなく、家事にパートに気を紛らわす。と言っても、なにも感じぬわけではないのか、叔父につれられた温泉地で、「死んだらおしまい」という落書きを見つけ慄然としたりする。(余談だが、「死んだらおしまい」という落書きは、わたしも見たことがある。近所の、山谷の、電信柱にスプレーで書かれていた。これもこれで、衝撃的だった)
そうこうしているうちに、1年がたち、2年がたつ。だんだんと、よどんだ澱の凝縮するようにして、のゆりの口から言葉がもれる。それは、「別れない」だったり、「別居しよう」であったり、そして、ついに、「別れよう」であったりする。熟考する、選択する、答えを導き出す、という道のりではない。積もり積もった無意識の思いが、時間をかけて、端的で動かしがたいことばになりかわり、意図するわけでもなく転がり出るのだ。そうして、そういうことになる。結婚しなければもっと好きになれたのに、私は卓ちゃん(夫)のこと、なにも知らない。とのゆりは述懐する。それもまた、ぼんやりしている。そばにいたはずのものを改めて眺めやると、実のところまるで馴染みのないものの如く見えてしまう。そういうことは往々にしてある。ずんずんと続いていく。いやおうなく続いていく。結婚ってなんなんだろうな、とのゆりは考える。答えのでる問いではない。答えの出ないうちに結婚は始まり、答えの出ぬまま終わりを迎える。
このお話にひとすじ、つぅっと伸びている音がある。それは、お話のはじめからほとんど終わりまで、のゆりのもとにかかりつづける無言電話のベルだ。一日1回から、多くて5、6回。大層律儀にかかっている。無言電話の相手は、卓ちゃんの浮気相手だ。それも、本命ではない、一夜のあやまち(もっとかもしれない、男の人のいうことは信用ならない、と意地悪くのゆりは思っている)の相手である。彼女はのゆりに、夫との別れを迫る。別れたところで彼を自分のものにすることなどできないのに、いじましく電話をかけ続ける。受けとめてくれる男などどこにもいないのに、尽きずあふれるこの情念が、わたしにはなにかとてつもないものに思われる。夫は、本命の浮気相手である里美さんをこころから愛し、妻に別れを切り出す。当の里美さんは夫のことをもはや愛さず重荷としかとらえない。妻は別れを受け入れられず、一度はかたくなに拒否するも、しだいに心を固めていく。夫は心の通わなくなってしまった里美さんと別れ、妻の愛を取り戻そうとする。そのころには妻はきっぱりと、離婚を決意してしまっている…これだけのプロセスをものともせず、逃れられない己の愛執に押し流されるのみにて、電話をかけつづけるということ。なだらかに移り変わる事々と、それとは完全に隔絶された、終始貫かれる無言の旋律。ほとんど「なにもおこらない」この物語が冗長と感じられないのは、案外この一貫した旋律の賜物かもしれない。
今まで舞台の地名を明かさなかった弘美さんがそのスタンスを変えたのは、前作の長編「真鶴」からだろうか。地名を明かさない理由について弘美さんは確か、「場所が特定されてしまうのではなく、どこでも起こりうること、そういうふうに読んでもらいたい」というような趣旨のことを話していた。
一方、「風花」にはたくさんの地名が出てくる。月島、勝鬨橋、聖路加病院、神戸。道玄坂をあがったクリニック。銀座の古式ゆたかな中華料理店(これ、間違いなく『銀座アスター』だよね。「白いリネンのかけられたテーブル」、とかまんまそうだもん)。私は以前月島に住んでいたことがあり、聖路加で産まれたし、道玄坂をあがったクリニックにかかっていたこともあって、おかしいほど馴染み深いところばかりで、なんだかこそばゆかった。
どこでもなく、どこでもあるような場所を描き出すことから、きちんと名を持った土地へと描写方法を変えたことは、とりとめのなかった登場人物が、より人間じみてどろくさい表情をもちあわせてきたことと似通っているようにおもう。弘美さんは、現実かそうでないか分からないような従来の幻想文学ではなく、もっと地に足の着いた(笑)、ありきたりな心象風景を描いていきたいのかな、と思った。完全なる幻想世界より、わたしたちが遭遇しうるまったくあたりまえの日常のほうが、つかみがたく分かりえないものだ。幻想はそれとして丸呑みできるけれど、日常は日常であるがゆえに思考の枠外に押しやられてしまって、理解しようという試みすらなされないからね。(夫が浮気して結婚生活という日常が揺るがされないかぎり、その日常は相対化されることはなく、意識にのぼることすらないのである)
弘美さんがこれからどんなのを書いていくのか、やっぱり、なんだかんだで、楽しみだ。
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