本(南アフリカ)

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部屋を片付けていましたら、書籍のコピーが出てきました。
いつコピーしたのかは定かではありませんが、図書館から借りた書籍をコピーしたものです。
昭和47年に、鶴書房から発行された書籍です。
 
「南アフリカの人種差別 〜その白人支配の論理〜」

南アフリカ共和国は、いまも巌然としてアパルトヘイト、つまり、人種分離政策をとっている、世界でただ一つの国である。これは、これはいうまでもなく白人中心主義の政策であり、人種差別政策である。こうした白人中心主義は、当然、きびしい批難が世界中から浴びせられている。しかし、南アフリカにとって、それは、当然の帰結という。
17世紀半ば、オランダ東インド会社の寄港地として、はじめてケープタウンに白人が上陸して以来、さまざまな国からさまざまな人種が、この地に移住してきた。
南アフリカは、民族のルツボと化した。南アフリカの歴史とは、これらの民族の抗争と権利をめぐる血なまぐさい戦いの連続であった。
アパルトヘイトは、こうした歴史を背景に生まれた。われわれはまずその政策の非をならす前に、その白人支配の論理を聞いてみよう。批判はそれからでもおそくない。
 
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(お詫び:書籍のコピーを撮影させて頂きました)

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南アフリカのアパルトヘイトについて書かれた2冊の本を購入しました。
ゆっくり読む時間がとれそうもありませんが、先ずは拾い読みをしようと思っています。
 「アマンドラ」ソウェト蜂起の物語
 「アパルトヘイト白書」英連邦調査団報告
(お詫び:書籍の表紙を撮影させて頂きました)

"アマンドラ"とは、ズールー語で"力"という意味で、集会などで拳を頭上に掲げ叫んだ言葉みたいです。

"ソウェト蜂起"とは、1976年6月16日、ソウェトでアフリカーンス語を授業に導入することに反対した黒人の小・中・高校生など約1万人のデモが行い、これに対して警察隊が発砲し、約300人の死者がでたと言われる事件です。
現在、このような悲劇を二度と繰り返さないように、6月16日は"ユースデー"となっています。

(お詫び:写真は南アフリカの雑誌からお借りしました。この写真は、世界にアパルトヘイト政策を知らしめた有名な写真みたいです)

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「南アフリカの白人支配(アパルトヘイト)時代の犯罪をすべて告白すれば恩赦で無罪にする」という"真実和解委員会"についのルポルタージュ、カントリー・オブ・マイ・スカル(COUNTRY OF MY SKUL)を購入して読み始めました。
(アンキー・クロッホ著、山下渉登訳)

"真実和解委員会"は、私が南アフリカに滞在していた頃に行われました。
テレビ、ラジオ、新聞で知っていましたが、具体的内容(事実)については分かりませんでした。
その後、リポートが発行されたことは知っていましたが、英文を読むことが出来ないので入手しませんでした。

書籍の裏表紙に、このように書かれていますので、お借りして紹介させた頂きます。
『1994年、南アフリカ史上最初の普通選挙が実施され、その年のうちに、1960年から1993年までに起きた重大な人権侵害の全体像を明らかにするために「真実和解委員会」を創設する法案が起草された。
委員会に課された任務は、真実を掘り出して公表することと、このような悲惨な出来事が再び起きることを防ぐことだった。
1996年から2年以上のあいだ、南アフリカの人々は毎日のように、目を背けたくなる自分たちの過去と直面することになった。
アンキー・クロッホはラジオジャーナリストとして、犠牲者と加害者双方の証言を取材して「真実和解委員会」のすべてを報じた。痛切で心かき乱す言葉に満ちた本書によって、はじめて民衆の声が南アフリカの歴史となった』

書籍は、420ページあり、とても読破できそうにもありません。
しかし、新聞に使われている単語(南アフリカ英語、アフリカーンス語、ズールー語など)の意味が分かりそうです。

かつて、「レッド・ダスト」というDVDを見たことがあり、"真実和解委員会"については、このように紹介されていました。
『約50年間 南アフリカでは少数の白人が権力を握り
黒人は厳しい弾圧からの開放を求めて苦闘した
1990年代初頭 白人政府は 
ネルソン・マンデラを釈放 民主選挙を認めた
白人支配時の拷問や殺人の罪については 
真実を自白した者に恩赦が与えられた
市民戦争を避けるためである
そして真実和解委員会が発足
聴聞会は裁判とは逆に 
加害者はすべての真実を話せば 罪に問われなかった
聴聞会は国中を巡回して開かれ 
多くの心の古傷が開かれた』

(お詫び:写真は書籍とDVDの再生画面を撮影させて頂きました)

"真実和解委員会については、"<http://www.justice.gov.za/trc/>から読むことができます。

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二宮書店さんで発行している雑誌に「地理月報」があります。
高等学校の教師の方たち向けに発行している副読本です。
二宮書店さんから依頼されて、本年6月に発行された「地理月報」No.517に、下記のような現地レポートを掲載させて頂きました。
4枚の写真を掲載させて頂きました。
最初の南アフリカの国旗が写っている写真のコメントが「ケープ半島沖の島へアザラシを見に行く」ですが、アザラシを見た写真を掲載していませんので紹介しておきます。

【南アフリカ共和国・現地レポート】
 南アフリカ共和国は1990年代に入ってアパルトヘイトが撤廃され、1994年に全人種による選挙が行なわれて黒人のマンデラ大統領が誕生しました。私は1990年代の中頃から数年間、南アフリカ共和国の変革期に滞在していました。
 <略>
 南アフリカ共和国は1994年の選挙で全人種が平等になり、公用語は白人言語の英語とアフリカーンス語の他に9つの黒人言語を追加して、11にしました。9つの黒人言語は大別して3つに分けられ、言語が違うと黒人同士でも言葉が通じないそうです。アフリカーンス語は17世紀に入植してきたオランダ人(後にアフリカーナーと称す)が現地の言語などを取り入れてつくった言語です。
 英国系のマネージャーは英語を話しました。ほかにも英国系が数人いましたが彼らはアフリカーンス語を知っていても英国人としてのプライドのためか話すことはありませんでした。アフリカーナーはアフリカーンス語を話しましたが、一緒に仕事をしていた方たちは流暢に英語を話すバイリンガルでした。白人は黒人言語をまったく知らず、覚えようともしません。アフリカーナーは、仕事をするために言語の達者な黒人を職場のリーダーにしてアフリカーンス語で指示をしていました。
 選挙後、アフリカーンス語で行われていた小学校の授業は英語に変わりました。英語とアフリカーンス語が半々で放送されていたテレビ放送は、アフリカーンス語の放送が少なくなって黒人言語の放送が多くなりました。また、アパルトへイト時代の地名が黒人言語の地名に変えられていました。黒人たちはアフリカーンス語をアパルトヘイトの言葉として、話すこともなくなり、若いアフリカーナー同志でも英語で話すようになっていきました。年配のアフリカーナーは若者たちへ「アフリカーンス語で話せ」と繰り返し、南アフリカ共和国を築いてきた祖国を持たない白いアフリカ人は、自分たちの言語や文化を残そうとしていました。

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5月9日の日経新聞に、同志社大学の峯陽一教授が、「今を読み解く」で南アフリカ関連の書籍を紹介していますので、お借りしてこのブログに保管させていただきます。

○原作のジョン・カーリン『インビクタス』(八坂ありさ訳、NHK出版)は、映画化では簡略化されている部分の描写がおもしろい。マンデラのパフォーマンスの背後には、常に冷静な政治的計算があったという。

○南アフリカの国民統合は、このときにいきなり実現したわけではない。人種隔離の時代でさえ、鉱工業の発展や都市化を通じて南アフリカに人々は経済的に結びつき、単一こ国民経済を形成してきた。この国の一体性の歴史的基礎を太い線で跡づけるのが、ロバート・ロス『南アフリカの歴史』(石鎚優訳、創土社)である。

○世界経済のなかの南アフリカの位置を活写した本といえば、平野克己『南アフリカの衝撃』(日経プレミアムシリーズ)が決定版だろう。グローバル・ビジネスと南アフリカ企業のダイナミックな動きを紹介しつつ、日本や中国の関わりについても鋭く論じている。

○サッカーW杯を楽しむには、熊崎敬ほか『ブブゼラ!』(第三書館)が便利だろう。ブブゼラは現地の応援用のラッパ。

○スポーツの祭典は「ハレ」の出来事だが、南アフリカの日常では、もっとゆっくりした時間が流れている。植田知加子『南アフリカらしい時間』(海鳴社)は、シングルマザーとして南アフリカで子育てした著者による、心にしみるエッセイ集。

秒読みに入ったサッカーW杯は、南アフリカの「東京オリンピック」になるのだろうか。世界が再び注目している。

(お詫び:日経新聞に掲載された峯陽一教授の文章からをお借りしました)

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