映画(南アフリカ)

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今年の5月、映画で「マンデラ -自由への長い道-」を観ました。
 
DVDのレンタルが始まりましたので、再び観ました。
 
南アフリカで初めての全人種による制憲選挙が1994年に実施され、ANC(アフリカ民族会議)が勝利し、ANC議長のネルソン・マンデラ氏が大統領に就任しました。
映画は、ネルソン・マンデラ氏が、プレトリアのユニオン・ビルディングで就任の挨拶へ向かうところで終わっています。
 
私は、1994年以前にも南アフリカへ行っていましたが、1993〜1994年は治安が悪化していて、南アフリカへ行くことができませんでした。
選挙後、南アフリカへ行けたのは1995年でした。
 
当時、黒人の友人たちは、「私たちは自由になった。これからは生活も豊かになる!」と喜んでいました。
あれから20年、彼らの生活は期待していたような豊かな生活になっていないみたいです。
 
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(南アフリカで購入した雑誌からお借りしました)
 

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映画・ケープタウン

そのうちに観てみようと思っています。
 
ケープタウンのタウンシップ(旧黒人居住区)のロケも興味があります。
 

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2014年5月30日(金)、「マンデラ 自由への長い道」を池袋で観てみました。
 
ウイークデーだったためか、観客は10人ほどでした。
ほとんどの人たちが一人で観に来ていて、ご高齢のご婦人の方もおられました。
「もしかして、かつて南アフリカで暮らしたことのある方かも」と思ってしまいました。
 
「長い物語のどこに焦点をあてているのか?」と興味を持っていましたが、書籍のように歴史の流れにそって作られているように思いました。
マンデラ氏釈放の背景、1994年の全人種による選挙でマンデラ大統領誕生が、もう少し詳しくあると思いましたが、あまりありませんでした。
 
今まであまり知れていないマンデラ氏の最初の夫人エブリンさん、2回目の結婚でウイニーさんとの間に生まれた次女のジンジィさんのシーンが多くあり、興味深く見ました。
 
(南アフリカで購入した書籍)
 
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1979年にこのような映画が作られていたとは知りませんでした。
戦争の場面がほとんどで、米国とオランダの映画制作会社が何を伝えたかったのかよくわかりませんでした。
 
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【DVDについて】
南アフリカの"ズールー戦争"の史実を基に製作された映画です。
1879年、英国の植民地・南アフリカ連邦のナタールで、英国はズールー族に対して一方的な統治の勧告した。
この政策はズールー王の激しい怒りをかった。
ズールー族とこの土地に精通しているタンフォード大佐は将軍の軍略ミスを指摘する。
しかしその指摘は受け入れられず、英国軍は不利な態勢でズールー族との戦いに挑んだが、ズールー族軍の圧倒的な勢力によって英国軍は劣勢を強いられた。
歴史書によれば、英国軍は一個連帯を失ったが勝利した。
<制作:1979年、米国・オランダ>
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映画を少し理解するため、南アフリカの白人の歴史を調べてみました。
 
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南アフリカへのヨーロッパ人の入植は、1965年にオランダ人のヤン・ファン・リーベックがオランダ東インド会社の東洋貿易の中継基地として、ケープタウンに居留地をつくったのが始まりです。
オランダからの移民たちは、自らをボーア(オランダ語で農民)と称して入植地を開拓していきました。
またオランダに亡命していたフランス人のユグノー(新教徒)も多数移住し、入植者の増加で殖民地は内陸に向けて拡大しつづけました。
しばしばコサ族(黒人の一部族)の抵抗にあい衝突が起こるようになりました。
 
18世紀末から19世紀の初頭にかけて、ヨーロッパでナポレオン戦争が起こると、喜望峰をインド航路の重要拠点と認識した英国は、フランスの手に落ちることを危惧して、この地を占領しました。
英国は1803年に一旦はオランダに返還しましたが、1806年に再度占拠しました。
1814年のウイーン会議で正式に英国領としました。
1820年には大量の移民が到着し、総督がおかれて本格的な英国支配が始まりました。
 
1833年に英国本国で奴隷制度が廃止され植民地にも適用されると、多くの奴隷労働力に依存してきたボーア人は反発して、新天地を求めて北方へ移動しました。
1838年にナタールでズールー族(黒人の一部族)と衝突し、”血の戦い”で勝利してナタール共和国を建国しました。しかし英国軍の追撃に敗れ、さらに内陸に移動し1852年にトランスバール共和国を、1854年にはオレンジ自由国を建国し英国に承認させました。
 
1867年にオレンジ自由州でダイヤモンドが発見されると、英国は現地のグリカ族首長の所有権の保護をして参入して1871年に占領しました。
さらに1877年には財政的に困窮するトランスバール共和国へ進出して併合しました。
トランスバールのボーア人は、ロンドンに代表団を送って独立の回復を主張しましたが拒絶されました。
ボーア人は1880年についに蜂起して第一次ボーア戦争になり、翌1881年に勝利して主権を回復しました。

【ズールー戦争が起きた背景】
1879年にズールー戦争が起きた時代、ズールー族が住んでいた土地(ズールーランド)をトランスバールがナタールに領土要求をしていた。
しかし、ナタールはトランスバールの領土要求を退けていた。
ところが、英国の高等弁務官はこれを無視してズールー人を攻撃した。
後に、この戦争は白人が"アフリカを支配する縮図"と言われた。
 

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DVDで"THE BANG BANG CLUB"を見ました。

1990年にアパルトヘイト制度が廃止され、1994年に全人種による選挙が行われて黒人のマンデラ大統領が誕生するまでの、白人政権末期の南アフリカの政党抗争を撮影した白人カメラマンの物語です。

フリーカメラマンのグレッグは、黒人居住区のソウェトの最大黒人勢力ANCとズールー族のIFP(インカタ自由党)との争いの写真撮影に行き、ケビン・カーターと知り合う。

グリックは、無謀にもソウェトのIFPのメンバーの住む地区へ潜入し、そこのIFPのリーダー格と知り合い、人間が燃料をかけられ炎に包まれる衝撃的な写真を撮影する。
グリックは、その写真を南アフリカの新聞社ザ・スターに持ち込み、その写真でピューリッツァー賞を受賞する。

バンバン・クラブとは、ザ・スター社に集まるフリーのカメラマンで、望遠レンズを使用しないで撮影する命知らずの彼らはバンバン・クラブと呼ばれ、世界の注目を集めることになった。

ケビンは南スーダンへ向かい、かつて世界中で話題になった「ハゲワシと少女」の写真を撮影してピューリッツァー賞を受賞する。
これは、飢餓で動けなくなった少女を見つめているハゲワシの写真で、「報道か人命か」で論議を読んだ。

1994年5月の選挙前には抗争が激化し、多くのカメラマンが亡くなった。
生き残り、仕事を亡くしたカメラマンたちは海外の戦場へ向かったと言われている。
「ハゲワシと少女」の写真を撮影したケビンは、刺激的な被写体を求め続けたために精神のバランスを崩し、自ら命を絶った。


南アフリカに興味のない方たちにとっては、黒人と黒人の抗争(ANCとIFP)を撮影する白人カメラマンの物語であまり面白くない映画かもしれません。
しかし、アパルヘイトの最後を知るうえで貴重な映画でした。
選挙後に報じられた白人政党(NP:国民党)とIFPの密約は本当だったのかも知れません。
1.NPはIFPと同盟を結び、ANCが選挙で50%以上の得票を得て政権を握ることを阻止して政権維持しようとした。
2.黒人同士の抗争を世界に示し、アパルトヘイト政策が必要だったことの弁明。
3.IFPは、南アフリカ内に治外法権のズールー王国の建国しようとしていた。

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