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何度も読み返す本、というのがあります。ちょっと古い本ですが、これを久しぶりに読みました。いつもこの本を読むと、あとがきの一言に僕ははっとさせられます。
「言挙げしない」。これが日本人のよさであり美徳であった。
それに「優しさ」「謙虚」「寛容」だ。
これが日本精神であり、国を愛する心だった。
自分の意志をはっきりと声に出して言うことを「言挙げ」と言い、それが自分の慢心によるものであった場合には悪い結果がもたらされる...
実にあたりまえのことだけど、このことを僕らはつい忘れてしまう。事実僕も、いろんなものに噛み付いてきたし、噛み付くことがやめられないから、自営業なんかやってるわけで。そう、言葉は発すれば取り返しが付かないことはわかっている。言挙げをまっさきにやめなければならないのは、おそらくは僕自身でしょう。
自分のことを棚にあげさせてもらうのを許してもらうとして、僕らは極端な存在だなと感じることがある。中途半端な救世主によく考えもせずすがりつく。調子のいいことを言う人間に、強大な権力を与えたりする。その人の一部を捉えてよく考えもせず糾弾したりする。それでいて、さまざまな問題は先送りにして知らん顔ができる。まあ、知らん顔しているならいい、まだ害はない。
自分がいかに正しいかということを声高に叫んでいれば、それでいいと考えている。ご高名な先生の言うことを聞いてそれを信じて、実行していれば、自分がなんだかできる奴になったような勘違いをする。愛国者は「オレは愛国者だ!」を叫んでいれば乱暴狼藉を許される。鈴木先生の言葉を借りれば、それじゃまるでストーカーじゃないか。一方的に愛して一方的に考え方を押し付けて。
中国人の振る舞い、朝鮮人の振る舞いを見れば、それがいかに下品で理不尽なことか、わかっているはずなのに。この国の保守的な人や年よりは、実は中国人や朝鮮人と同じような理屈で、自分がいかに国を愛しているかを語り、彼らをさげすむ。目くそ鼻くそだ。テレビとかで顔をだして文句を言うならまだしも、ネットで書き散らすとか、陰湿な嫌がらせをするなんて、それこそクソ以下の存在だ。
最近時々思う。何か帰依できるものがあれば、何の罪もない人々を、物心両面にわたって傷つけても許される「ニセモノの愛国心」みたいな免罪符があれば。家族を守る、会社を守る、社会秩序を守る、という大義名文をもってすれば、どんな文句を言っていいと思えること、全幅の信頼を置いて、心中してもよい何かがあれば。判断を人に委ねてすべての責任をなすり付けられれば。人はどれほど幸せになれるだろうか。それほど楽な生き方は他にあるだろうか。
疲れたときに、そういうことができる人をうらやましく思うときもある。帰依するものが本当は嘘っぱちだったら。実は虚像であったなら。みんながよいと思っていることが本当は嘘かもしれんと考えることを、もうすっかりやめてしまうことができたら。自分が自分でなくなる可能性はあるかもしれないけれど、それはそれで、幸せなのか。
それでも僕は、人の物差しで自分を測られるのはやはりいやです。
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